2022年12月29日木曜日

青空が広がり

今朝も雲の姿が見えないほど青空が広がっていました。
と言っていたら午後から雲が出てきて寒くなった(^^;
寒いと言ってもアメリカは「2022年の猛吹雪」として歴史に残る寒波……

米国の記録的寒波、ニューヨーク州西部で死者27人に」(ロイター 12月27日)
鳥インフル 発生相次ぎ過去最多のおそれ 専門家「今後も続く」〟(NHK)
影響はこんなところにも

卵平均卸売価格 12月は最高値 飼料高騰や鳥インフルエンザ背景」(NHK 12月27日)

そして人間界も
インフルエンザ 全国的な流行期入り コロナ拡大以降初 厚労省」(NHK)

インフルエンザ流行レベルマップ」(国立感染症研究所)
中国からの入国者・帰国者に対する水際措置の見直し」(外務省 12月27日) 
今回の日本政府の対応について
防疫措置は科学的かつ適切であるべきで、正常な人員の往来に影響させるべきではない
と苦言を呈していますが、
政府 感染拡大の中国からの入国規制を強化 30日から入国時検査を義務化」(TBS)

日本だけでなく、他の国も中国の防疫措置は非科学的で信用できないと見なしています。

イタリア、中国から到着の全旅客にコロナ検査義務付け=保健相」(ロイター)

ミラノのマルペンサ国際空港ではすでに26日に北京と上海から到着した航空便の乗客の検査を開始しており、
その結果、約半数が感染していることが判明した。


アメリカ、中国からの渡航者に陰性証明提示義務づけ 水際対策強化」(毎日新聞)
CDCは、中国での感染者数が急増する中、
中国側から報告される疫学的なデータやゲノム解析データが十分でなく、透明性もないと指摘
」しています。
鳥インフルエンザウイルスと共存しているカモのように、無症状の人がウイルスを運ぶ。
第一章「八百屋お七」
 三 大坂の西鶴


 西鶴の『好色五人女』(貞享3年、1686年)の中に「恋草からげし八百屋物語」(巻四)が入っている。
江戸の八百屋お七を主人公とする短篇です。
これが刊行されるのは1686年で、お七が江戸外れの鈴ケ森で処刑されるのは年表でご覧のとおり天和3年(1683年)3月です。
わずか3年後に、江戸の話を大坂でいろいろうわさを聞いて、西鶴が書いたのです。
(『変身放火論』多田道太郎 講談社 1998年)
 ずいぶん早いし、いった情報ルートはどうなっていたのか。
 西鶴の「旅行地が多く船着場であった」(青山青果)との言からヒントを得て、山本健吉は、船着場で自由生活を送る「浦方人」に近い人が西鶴で、だから珍しい遠国の噂など敏感だったと言っています(「古典と現代文学」)。
船着場は商人や女たちの噂の社会。
『好色五人女』を出版しているのは大坂の本屋です。
江戸から大坂へ祭文語りとか浦方人とかいろいろな恰好で俗説が伝わってきたことでしょう。
それを本屋(出版社)が聞いて、情報として西鶴に流したのではないか。
西鶴は、なるほどおもしろいといってさっさく噂話を取り上げて書いたのかも。――などと考えられます。
 祭文語りとか浄瑠璃とか、声と節とを耳で聞くコミュニケーションは大衆の心にじかにひびくものだけに、「八百屋お七」の物語にしても聴衆の心の深層にまで達したことと思われます。
が、そのことは次の章まわし別ごととして、木版視覚メディアとしてはやはり瓦版、草子類の出版の力が大きくものを言ったのではないでしょうか。
 江戸の瓦版はすでに1615年大坂夏の陣からはじまっていました。
とくに大火事件は即刻報道されたようです。
が、お七火事については文献としてほとんど残っていないのが残念です(天和2年の読売関係瓦版に少々あり)。
ただし江戸大坂間の大名飛脚は五、六日で往来しており、大火の情報はとくに重大情報で、紀州藩あたりへは思いのほか早く達していたようです。
で、大阪へも瓦版にのった江戸の情報が数日をおかないで来ていたと思われます。
 当時(貞享年間)出版(版元)は池田屋(心斎橋筋池田屋三郎右衛門)と森田屋(北御堂前森田屋庄太郎)などが新興勢力で、後者が『好色五人女』の版元です。
本屋(出版社)は今で言う大阪ミナミに集まっていました。
出版部数はふつは三百部くらいですが『好色一代男』で名をあげた西鶴のことでもあり『五人女』は三都版(大坂、京、江戸)として千部ほどは刷っていたのではないかと研究者の間では推定されています。
本屋は版元といっしょに貸本屋も兼ねており、これがなかなか馬鹿にならない。
部数の十倍から、ものによっては百倍ほどもの読者を持っており、しかも貸本ついでに本を売るという流通形態だったようです。
かりに『五人女』が千部の百倍の読者を持ったとすれば十万の読者! 
これはいくら何でも大きすぎる。
このころの大坂の人口は三十万人台です。
 当時は、京、大坂の経済的実力が大きく、文化も日本ぜんたいの中心だったのです。
ですから江戸で起ったことは江戸では瓦版以外には書かずつくらずに、大坂で書いて本にしたてた。
 これは、案外こういうお話や舞台の世界の常道で、事件が起っているその現場では書きにくく、出版しにくかったのです。
だから、江戸の歌舞伎でも舞台は仙台であったり、鎌倉であったりする。
「遠くの」「昔の」という感じが適当なのですね。
ぼやかすために、そういう常道もありましたから、ちょっと一概にはいえなのですが、「お七」の場合は畿内のジャーナリズム(演劇、俳諧、出版)がそれだけすごく発達していたということです。
 ついでに言っときますと幕末までオオサカは大坂と書いていました。
オオサカは坂の町。
上町台地の坂の下、とくに西側を埋めたててできた町です。
豊臣政権以後、大坂は埋めたてたところに掘割を開き道をつけして発展してきました。
江戸幕府は豊臣のあとをつぎ、大坂にわずかの武家官僚を駐在させただけです。
大坂は今も昔も町人の町。

  お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ  小西来山

 なんて詠むフトドキな俳諧人も出てくる始末です。
 西鶴ほどふしぎな人は珍しい。
大きな仕事を後世に残しながら伝記になるような書きものは一切といっていいほど残していない。
大坂鎗屋(やりや)町の商家に生まれた、とまでは分かっているがふた親の名さえも知れずという有様。
庶民の暮らしぶりには鋭い眼差しを注ぎながら、自分の暮らしの往古には知らんふり。
西鶴の韜晦(とうかい)は徹底しています。
 明暦2年、江戸で振袖火事のおこった前の年、15歳の西鶴は「北革屋町の足袋屋に見習い奉公したが、銀子を持ち逃げして生家に帰る」(大谷晃一『西鶴文学地図』1993年)。
この挿話が残るぐらいであとは韜晦の真っ暗闇の中。
西鶴はよほど変人畸人と言わざるを得ません。
ま、確かなことは彼は商売には徹底して向かなかった人のようです。
自分の商売(それが何だったのか? 刀屋だったか? それも分からない)は番頭まかせにして俳諧(つまり文芸)の世界にのめり込む。
…後略…
(『変身放火論』多田道太郎 講談社 1998年)

サイトで試し読みができます。
今朝の父の一枚です(^^)/

カモメ科のなかま
 ユリカモメ


 都市の河川や池などでめだつようになった。
魚群に群がって魚をとるようすは、遠くから鳥の山のように見える。
魚群探知機のなかった時代、漁師は鳥山を利用して魚群を探した。
くちばしと足は赤色。
個体により、また、成長と亜成長でも色彩が異なるので注意が必要である。
越冬地(日本)と繁殖地(サハリンなど)の渡りの調査のため、日本とロシアの研究者が足環をつけて放鳥している。
(『野鳥博士入門』唐沢孝一著、平野伸明撮影、全国農村教育協会 2002年)