2022年12月30日金曜日

12月30日

今朝も晴れていました。
昨日は、中学生の運動クラブ?の生徒たちがトレーニングをしたりしていましたが
今朝は、来園者がチラホラ…
みなさん新年を迎える準備や旅行に出かけているのかな?

関西空港国際線 11月の利用者は前月の約2倍に」(関西NHK)
昨日の朝刊に「感染者の葬儀、制限緩和 納体袋不要、遺体と接触可能に コロナ対応、指針改定へ」(朝日新聞 12月29日)
Yahoo!ニュースで全文読めます)

このことについて
こころの時代~宗教・人生~「コロナの時代を詠む」(2020年9月6日放送)
で永田和宏さんが疑問だと話しておられました。

第3章 人生の向き合い方を更新する
 大切な人の死に立ち会えない


…前略…

永田 自然科学に携(たずさ)わっている立場から言うと、私は感染した死者に触れさせないことが本当に必要なのか、疑問に思っています。
 ウイルスに感染して亡くなった場合、その人の体内にウイルスはまだいます。
ただ、亡くなった方は呼吸をしないので、ウイルスを外に吐き出すことはないんです。
もちろん、体液の浸出には要注意なのですが。
それなのに、遺族に会わせないないことが本当に必要なのか。
実は、まだきちんとした研究結果は出ていないと思います。
(『コロナの時代をよむ』永田 和宏、釈 徹宗 NHK出版 2020年)
 いたずらに恐れるののではなくて、きちんとしたエビデンスに基づいて「手を握るのは大丈夫」ということになれば、救われる人もずいぶんいるのではないでしょうか。

永田 せめて、死者の手を消毒してから触れるくらいのお別れは、死者のためにも、何より残された人たちのためにも必要なのでないかという気がしますね。

…後略…
(『コロナの時代をよむ』永田 和宏、釈 徹宗 NHK出版 2020年)
今は、12月は31日までありますが

 1872(明治5)年 12月3日 この日を明治6年1月1日とする。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)

太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(国立公文書館)

ですから1871(明治4)年までは12月30日が大晦日でした。
12月25日に「クリスマス」について転記した最後の方を省略したのですが

 イングランド、ウェールズ、北アイルランドではこの日は四季支払日( quarter day )に当たる。
ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』(1843年)において、守銭奴のスクルージが、クリスマスの挨拶をする甥に対して「何がメリークリスマスだ! お前にとってのクリスマスは、金もないのに請求書を払う時期だろう!」と毒づく場面があるが、それはこの日が支払いの日で、とくに貸借の契約を更新するならわしがあるからだ。
…後略…
(『キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化』八木谷涼子 講談社学術文庫 2016年)

江戸時代の商取引と似ているなぁと思った
大晦日の事件を描いた井原西鶴の『世間胸算用

 作品紹介
 
 …前略…

『胸算用』は「大晦日(おおつごもり)は一日千金」というサブ・タイトルを有しているように、二十の短編は、すべて当時の経済生活のおける最終の収支決算日である大晦日の事件として描かれている。
江戸時代は商取引きから日常の米・味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)にいたるまで、帳面による掛売り掛買いを原則とした。
ただしその日暮しの裏長屋の住人は、そのかぎりではない。
旧七月の盆節季を上半期の支払日とし、その合間に「中払い」と称し、三月、五月、九月の節句の前日に借金の一部を払うしきたりであったが、最終の大晦日(大節季)に皆済が持ち越されるのは、自然のなりゆきであった。
作者が巻一の一で言っているように、「銭銀(ぜにかね)なくては越される冬と春との峠(とうげ)」であり、一年に一度は確実に訪れる<経済的極限状況>であった。
(『現代語訳・西鶴 世間胸算用』暉峻康隆 小学館ライブラリー27 1992年)
 一種の紳士協定によって成り立つ掛売り掛買いであるから、暴力の行使は契約社会からの脱落につながる。
だから暴力以外のあらゆる奸計(かんけい)を弄(ろう)して切り抜けようとする。
そういう傾向は、新年度からの資金のやりくりや、毎月の生活にも事欠く中下層町人においてエスカレートする。
そういう彼らに立ちむかう掛取りも秘術をつくすわけだが、その彼らもまた、自分の借金を皆済しようとは思っていないのである。
大晦日は、中下層町人大衆が自己保身のために術策を弄し、エゴイズムを発揮する、陰湿でユーモラスなドラマが展開する一日であった。
…後略…
世間胸算用』の中から

 巻三
  四 神さえお目違い


 諸国の神々が毎年十月に出雲(いずも)の大社(おおやしろ)にお集まりになって、民(たみ)安全の御相談をなさり、国々へお遣わしになる年徳(としとく)の神をおきめになるなど、正月の用意をお急ぎになさる。
 なかでも京・江戸・大坂の三都に遣わされる神は、徳のそなわった神を選び出し、奈良・堺(さかい)へも老巧の神をふり向け、なおまた長崎・大津・伏見(ふしみ)と、それぞれ町の格に応じて出張の神々をお定めになる。
 さてそれから一国一城の城下町とか、港町とか、山間の町とか、繁栄の町々をえらんで神々をお遣わしになるのだが、もちろんそのほか都を遠く離れた島々に住んでいる片庇(かたびさし)の一軒屋までも、餅をついて門松をたてる家に、年徳の神がお出向きなさらないということはない。
しかし神様たちも皆、上方(かみがた)行きを望み、田舎(いなか)の正月はお嫌いになる。
どちらか一つをえらぶということになれば、やはり万事につけて、都は田舎とくらべて格別のちがいがあるのだから、やむをえない。
ところで月日のたつのは流れる水のように速く、まもなく年の波が打ちよせて、十二月の末になった。
 泉州(せんしゅう)の堺の人々は、毎日自分の生活を大事にし、やりくりに油断がない。
すべての商売をひかえ目にして、表向きは格子造りにしてしもた屋に見せかけ、家の内部は奥深くこしらえ、年中収入簿の銀高(かねだか)を見計らって、所帯をまかなっている。
たとえば女の子が生まれると、疱瘡(ほうそう)がすんでから器量を見極め、十人なみの当世風の女に育つと思ったら、早くも三歳、五歳のころから、毎年嫁入り衣裳の準備をする。
また器量のよくない娘は、男がただでは貰(もら)ってくれないことを考えて、持参金にするつもりで外(ほか)に金貸し商売をしておき、嫁入りさせる時にはあまり負担にならないように手配するなど、覚悟のよいやり方である。
 こんな堅実なやり方だから、しだいに繁盛して棟(むね)に棟が建ち続き、板葺(いたぶき)の屋根もあまりいたまぬうちに榑板(くれいた)に差し替え、柱も朽ちないうちに石で根継ぎをし、軒の銅樋(あかねどい)も数年(すねん)心がけておいて、銅の安い時を見すまして作る。
手織りの紬(つむぎ)をふだん着にしているが、動作がゆっくりとしているから、裾(すそ)がすり切れることもない。
身形(みなり)は上品に見えて、しかも経済的である。
諸道具は代々持ち伝えているので、忘年会の茶の湯を催しても、世間には風流に聞えて、実はそれほど費用がかかるわけではない。
堺という町はこのように、年々世渡りを上手(じょうず)にしつけた所である。
 よい暮し向きの人さえ、こういう次第だから、ましてゆたかでない家々では、算盤(そろばん)を枕(まくら)に寝ている間にも、金の出入りのはげしい大晦日(おおみそか)という日を忘れることがない。
台碓(だいからうす)でつく安い赤米(あかごめ)を秋の紅葉と眺(なが)めて満足し、目の前の海でとれる桜鯛(さくらだい)は、見たがる京都の者に見せてやれと、毎夜魚荷(うおに)にして送り届ける。
客のない時には小さな鯔(ぼら)も土臭いと、難くせをつけて買わない所である。
山に囲まれた京都で真魚鰹(まながつお)を食うのに、海の近いここでは磯(いそ)の小魚(こざかな)ですましているのである。
 すべての事は燈台もと暗しという諺(ことわざ)のとおりである。
この堺でも大晦日の夜の風景はといえば、たいていの店がゆたかそうに見える。
そこである年徳の神が役目がら、店の構えのよい商人(あきんど)の家をえらんで、案内も乞(こ)わずに正月をしにはいってみると、神棚(かみだな)は吊(つ)ってあるが、御神燈もともしていない。
何となく物さびしく気味のわるい家(うち)であったが、こそこそとえらんではいったことだし、またほかの家に行って別な年徳神(じん)と相宿(あいやど)するのもおもしろくない。
どんな具合に正月のお祝いをするのだろうかと、神様がしばらく様子を見ていらっしゃると、門口の戸が鳴るたびに、その家の女房はびくびくして、
「まだ旦那(だんな)は帰って参りませぬ。たびたび御足労を願いまして相すみませぬ」
と、誰にでも同じ言訳をして帰している。
 まもなく夜半(よなか)も過ぎて明け方になると、借金取りがこの家に集まり、
「亭主(ていしゅ)はまだか、まだか」
と、おそろしい声を立てはじめた。
そこへ丁稚(でっち)が息せき切って、
「旦那様は助松(すけまつ)の松並木の中ほどで、大男四、五人に松林の中へ引きずりこまれ、『命が惜しかったら』という声を聞き捨てにして逃げてきました」
という。
女房はびっくりして、
「お前というやつは、主人が殺されるというのに、男と生まれて情けない」
といって泣きだすと、借金取りどもは一人びとり出ていって、夜はしらじらと明けはなれた。
この女房は借金取りが帰ったあとで、それほど悲しむ様子もない。
その時丁稚は懐(ふところ)から革の銀袋(かねぶくろ)を引きずり出して、
「田舎も不景気になりまして、やっと銀三十五匁と銭六百文取ってきました」
という。
まことにこんなからくりをする家に使われていると、奉公人までも詐欺師(さぎし)同然になってしまうものである。
 亭主は納戸(なんど)の中に隠れていて、因果応報の話を集めた書物を、繰り返し繰り返し読みつづけていた。
美濃(みの)の国不破(ふわ)の宿(しゅく)で、貧しい浪人が年を越えかねて、妻子を刺し殺したという話を、ことに哀れに悲しく思い、「こんなつらい目にあえば、誰でも死にたくなるだろう」と、身につまされてこっそり泣いていた。
すると、
「借金取りは、みんな納得して帰りました」
という女房の声で、亭主はすこし気持が落着き、ふるえながら出てきて、
「まったく今日一日で年を取ってしまった」
と、今さら仕方のないことを嘆いた。
 ほかの家(うち)では雑煮を祝う時分に、この家では米と薪(たきぎ)を買いこみ、元日もふだんの飯をたいて、やっと二日の朝になって雑煮を祝い、神や仏にも供え、
「この家のしきたりで、もう十年ほども元日を二日に祝っています。お供えの折敷(おしき)が古くても堪忍してくだされ」
といって、夕飯はとうとう供えずじまいであった。
 神の目でも、これほど貧しい家だとはわからなかった。
三が日のたつのを待ちかねて、四日にこの家を出た年徳の神は、大坂の今宮恵比須(いまみやえびす)を訪ねて、
「まったくもって、見かけとちがった貧乏な家で正月をしました」
と、つらかった話をなさった。
すると恵比須殿が、
「あなたもまた長年、ほうぼうの家で年越しをしてこられた方にも似合わない。人の家のえらび方は、引合せの戸が汚れていたり、女房が下女の機嫌(きげん)をとっていたり、畳の縁(へり)が切れていたりするような家は避けたほうがよろしい。広い堺中でも、そういう貧乏人は四、五人くらいのものですが、そこへあなたが行かれたとは、よくよく不運なお方だ。わたくし方は世間の商人(あきんど)たちが、酒と掛鯛(かけだい)がどっさり奉納してくれました。それであなたも口直しをして、出雲(いずも)へお帰りなさるがよい」
と引き留めて御馳走(ごちそう)をなさった。
 正月十日の恵比須祭に、朝早く参詣(さんけい)した人が、内陣でなさっている神様たちの、そんな世間話を聞いて帰った。
神様でさえこのように貧富の差があるのだから、まして人間の身の上は、浮世の常として定めがたいものだ。
だから商人は定まった家職を油断なくはげみ、一年に一度の年徳の神に、不自由な暮しを見せないように稼(かせ)がなければいけない。
年徳の神 その年の恵方(吉の方角)を司る神。正月恵方に向かって神棚を吊る。
片庇 山形の屋根に対し、片流れの粗末な屋根。
格子造り 表を店造りにせず総格子造りにしたしもた屋(家賃や金利で暮らす町人)。
榑板 へぎ板。槇(まき)や檜(ひのき)などの薄板。
台碓 臼を地中に埋めないで、台をつけて足で杵をふむ碓。
赤米 大唐米。小粒で赤味をおびた下等米。
魚荷 大坂や堺から京都へ、近海魚を夜間に急送した。飛脚便も兼ねた。
助松 大阪府泉大津市の字。紀州街道の宿場。
銀三十五匁と銭六百文 約六万三千円と約一万六千円。
不破の宿 中山道の宿場で、岐阜県不破郡関ケ原町。
折敷 神饌(しんせん)を供えるへぎ板製の角盆。
今宮恵比寿 大阪市浪速区恵比須西にある。堺から大坂への街道の入口。
掛鯛 正月、かまどの上のかける藁縄でしばった二匹の塩鯛。六月一日にはずし、邪気を払うといい、あつものにして食べる。
内陣 社寺で本尊を祀ってある所。
(『現代語訳・西鶴 世間胸算用』暉峻康隆 小学館ライブラリー27 1992年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 コゲラ 小木啄鳥

 日本に分布するキツツキ類のうち最も小さいのでコゲラ(小木啄鳥)という。
全長15㎝で、スズメとほぼ同じくらいの大きさのかわいいキツツキである。
ケラはキツツキ類の総称。
その語源は100頁に記したように、たとえばアカゲラやオオアカゲラがよく発する「キョ、キョ」「ケッケッ」と聴こえる、よく響く鳴き声によると思われる。
「ケラ」ではあるが、コゲラがよく発している声は「ギイーギイー」という静かな声である。
繁殖期は「チッチッチッチッ」という特有の鳴き声もよく聴かれる。
 コゲラの分布は日本と南部千島列島、サハリン、朝鮮半島、ウスリー地方とその近隣地区に限られる。
それで、英名は Japanese Pygmy Woodpecker。 pygmyは「小さなもの」という意味。
(『野鳥の名前 名前の由来と語源』文:安部直哉、写真:叶内拓哉 ヤマケイ文庫 2019年)