2022年12月28日水曜日

仕事納め

気温は低いけど風がほとんど吹かなくて歩きやすかったです。
公園からの帰り道、町工場の集まる地域を自転車で通ると
工員さんたちが大掃除をしていました。
各地で迎春準備が行われていますね。

正月を前に 雲仙の神社に高さ約14メートルの巨大門松 長崎」(NHK)
原発運転期間延長めぐり 原子力規制庁と経産省の事前面談は7回」(NHK)

協議や調整は行っておらず、独立性や透明性の点で問題はなかった
のだそうですが、記録がないということなので信用できるはずがない。

記録があっても佐川元局長らが実際には文書が存在することを認識していたのに、
「保有が確認できなかった」とうその理由を書いた決定書を作成しても不起訴になる。
森友問題の情報公開めぐり告発 佐川元局長ら3人不起訴」(関西NHK 12月27日)
中国と同じ隠ぺい体質に満ちている。
12月28日
 天和2年(1683.1.25) 江戸大火(八百屋お七の火事)(実紀)。
 安政元年 (1855.2.14) 江戸に大火、神田多町(かんだたちょう)より出火し江戸橋まで延焼(維新史料綱要)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

「八百屋お七の火事」といえば月岡芳年の「松竹梅湯嶋掛額」に描かれたお七の姿が思い浮かびます。
第2章 災害と「公共」空間の広がり
 災害と「怪異」


 上から社会を統合しようとする動きは、下々に緊張を強いるものだ。
厳格な統制政治のもとでは不満がさまざまなかたちで蓄積する。
「天譴(てんけん)」論には先にも触れた。
古く中国から伝わったもので、日本列島の人びとに広く受け容れられていた。
「天譴」論では、災害を悪政の結果であり大乱の兆(きざ)しだと考える。
その証拠は、災害にともなってさまざまな「怪異」現象が起きることでもわかる。
だから、ことさらに「怪異」を語ることは、悪政を批判することであった。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
 戸田茂睡(とだもすい)の『御当代記(ごとうだいき)』は将軍綱吉一代の出来事を記したものだが、全編が災害と「怪異」の記述に満ちている〔塚本学『徳川綱吉』吉川弘文館 1998〕。
最初は、綱吉襲職直後の延宝8年(1680)閏8月6日の大風洪水だ。
この年には、「ほうき星出、大風吹き、黄蝶(こうちょう)数十万飛びあるき」と「怪異」が続く。
「黄蝶は乱世の兆し」と噂された。
その後天和2年(1682)までの3年間は、長雨や大雨風・洪水が列島各地を襲い、諸国で飢饉が続いた。
これも先に触れたように、長崎や京都・大坂で黄檗僧たちによる施粥が行われ、窮民はようやく飢えをしのいだ。
 天和2年12月28日、江戸下町一帯を焼き尽くす大火が起きる。
この火事で焼け出された八百屋お七は、避難先の寺小姓を見初(みそ)め、再び逢(あ)いたさに翌天和3年3月に付け火をして処刑されたという。
こうした言い伝えから先の大火を「お七火事」という。
『御当代記』は、それ以降天和3年2月までの2か月あまりに、毎日昼夜五、六度、多いときには八、九度も火事があったと記す。
しかも、そのすべてが放火だったという。
それを取り締まるために幕府は、中山勘解由直守(なかやまかげゆなおもり)を火付改(ひつけあらため)に任じた。
町々には、火の見櫓(やぐら)を設けて、付け火を監視するよう命じている。
 天和3年5月23日、24日と続けて日光で地震、M6.5。
次いで9月1日にも日光で地震、M7.0。
崩れた土砂がその後の大雨で土石流となり、日光の町は大洪水となった。
9月上旬には品川・芝あたりの海面に黄蝶が夥(おびただ)しく飛んだ。
家康を祀る日光で連続した災害に、綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)は「乱世遠からず」と嘆いたという。
 天和4年2月14日には、伊豆大島が噴火する。
大島は、大坂の陣の前夜にも、島原天草一揆のときにも噴火した。
そのことを理由として、今回の噴火も「乱」が起きる前兆ではないかと人びとの間に不安が広まった。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
第2章 商館長ブヘリヨンがもたらした消火ポンプ
 【解説】
 
 本章図16(省略)にあるように、江戸はしばしば焼け野原となった。
日本の歴史を考えるうえで、その復興過程が重要である。
江戸という町は、火災に遭いつづけたから、火災から短時間で復興する仕組みを持っていた。
 この17世紀の段階で、それがあったかどうかは定かではないが、後に時代になると、火災から立ち直るためのある方法ができてきた。
その方法とは、あらかじめ住宅用の木材をすでに加工した状態で隅田川の対岸に、つまり火のかかる可能性が低い地域に蓄積しておき、火災に遭うとそれを直ちに運び出して、焼けて間もない灰のうえにプレハブ建築のようにもとのごとく建て直すのである。
幕末期に日本に来たヨーロッパ人は、焼け跡のまだ温かい地面のうえにすぐに新しい家が建って商家の営業が始まるのを驚きの目で記録している。
(『オランダ商館長が見た 江戸の災害』フレデリック・クレインス・著、磯田道史・解説 講談社現代新書 2019年)
 この日本の火災と建築の関係は、今日の日本人の建物に関する思想に影響している可能性がある。
 たとえば、欧米では木造建築でも長期にわたって使用され、銀行などがそれに担保を設定するときも一定の価値を持っている。
さらにヨーロッパでは建物のなかには古くなるほど価値が高くなるものも、しばしばある。
一方、日本では、建物と地所、つまり不動産の価値は、地面である土地には相当の担保価値を認めるが、上物である建造物には時間経過を待つ間もなく、価値を失って、ほとんど担保価値を認めない。
 この背景として、火災に遭いながら仮設建造物を建てるなどして建物を維持してきた伝統があるのではないかとみる向きもある。
それとあいまって、日本では江戸時代もそうであったが、建築業者は、新築を建てるほうが多く利益が得られた。
そのため、火災のたびに大工が新しい建物を建て、プレハブや仮設建造物のように火災のたびに建物を消費していくという伝統ができあがったのではないかとも思われる。
 光熱消費などでは環境的に比較的優しい生活をしているはずの日本において、建物は長期にわたって使用されない。
こと住宅や建造物に関してはあまり環境保護的ではないという結果を招いているが、それが江戸の火災後すぐに仮設の建造物を建てていたことと関係があるかどうかは、これからも研究すべき課題であろう。
 江戸の火災対策のために隅田川を挟んで東岸に設けられた建築用の材木集積所の一帯は深川と呼ばれたが、この地域には材木商が集まった。
材木商人は巨利を得たから、この深川地区が江戸の文化を作るうえでも大きな意味をもつに至ったことを忘れてはならない。
 たとえば、屋台でなく屋内で料理を出すぜいたくな料理屋、料亭のような店は、江戸においては深川で発展した。
また、料理をとってみても、うなぎの蒲焼きなどは、やはり深川地区で発達したものである。
 この深川地区では、藩の江戸留守居役同士が会合した。
江戸留守居役が藩屋敷の再建のために深川の材木商から接待を受ける場としても料理屋が発達してきた。
つまり今日の役人対役人の接待(官官接待)や、建築業者に財貨が集まり役人を接待する接待文化が生じ、江戸の料理も発達するという副産物ももたらしたのである。 (磯田道史)
(『オランダ商館長が見た 江戸の災害』フレデリック・クレインス・著、磯田道史・解説 講談社現代新書 2019年)

昨日、今日と父はお正月様を迎える用意をしていました。
母が「一夜飾り」は、縁起が悪いと常々言っていたからです。
私は、リハビリ散歩から帰ってから小掃除をしていました(^_-)