早朝には根室半島で地震、午後から愛知でも地震が起きています。
そして夕方から春の嵐で天気が荒れるようです。
天気が荒れる前に父と久しぶりのリハビリ散歩(^。^)
キジバトが田んぼに生えている草の実(スズメノカタビラ?)を食べて
雑草取りに協力していましたp(^-^)q
その田んぼに咲いていたのが…
数珠玉をたづさへ渡る向かう岸にもれんげが咲いてゐるならいいね 永井陽子
(『岩波現代短歌辞典(書籍版)』)
花は八重思想の危機を吾ももちし
(『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』川村蘭太 新潮社 2011年)
落ち椿あなくらぐらと渇仰(かつぎやう)のこころに似たるものぞうち伏す 黒木三千代
(『現代の短歌』)
クマバチは藤の花のガードマンp(^-^)q
体が大きいですが愛敬があって針を持っているのは雌だけです。
その雌もスズメバチのように自分から攻撃することはありません。
シジュウカラが朝ご飯を見つけたようです。
同じピンク色の仲間同士で話をしているのかな(^_-)
ハナミズキの花びらのように見えるピンク色は総苞片(そうほうへん 葉の変形)で、
真ん中にある黄緑色のつぶつぶが花です。
やがて桜は葉桜に
桜の花が散った後、萼についている細かな蘂(しべ)が地上にこぼれる(桜蘂降る)季節があります。
桜色を凝縮したような色が鮮やかです。
花を散らせた桜の木はやがて葉桜に。
桜が花から葉へと移ろう様を感慨を込めて「花は葉に」と言い表します。
「葉桜」も「花は葉に」も、どちらももう夏の季語となります。
桜蘂(さくらしべ)ふる一生が見えてきて 岡本 眸(ひとみ)
(『もっと知りたい 美しい季節のことば』)
シジュウカラ♂が気持ちよさそうに日向ぼっこをしていました(^-^)
カキドオシ(シソ科)
アオジ♀が朝ご飯(イモムシ?)を見つけたようです。アオジ♂が口を開けて…
天敵に見つかって襲われると、イモムシは身を守るために決まった動作をするものが多い。
人がつついても反応するのでためしてみよう。
多いのはとぐろを巻いたように丸くなる種類、
さらにいじめると体から汁を出したり、地面に落ちたり、体を振って暴れるものもいる。
他には、体を反り返らせてブルブルふるわせるものや、
体の一部分をふくらまし、そこにある目玉もようを見せびらかすもの、
角のような突起をニュッと出したり、くさい匂いをふりまくものもいる。
また、口から出した糸にぶら下がって、スーッと下に降りていく種類もいる。
(『虫のおもしろ私生活』)
その努力もむなしく朝ご飯になりました…
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
地の上には一面の菜の花畑。
東の空には上る月。
西の空には燃えて入ろうとする夕陽(ゆうひ)。
真上の空にはまだ青空の深さが残っている。
わずか十七字の中におさめられた天と地の大景観を辿(たど)っていると、
発句というとりあえずの器に盛られた内容の、限りなくひろがってゆく力が空恐ろしくさえ思われる。
何を盛ってもこのようにひろがるというものではあるまい。
数本の菜の花だけでも、月と日の、いずれか一つだけでも、この句の大きさを持つことはできないだろう。
あまりにも有名になってしまった句は、それで当たり前のように受け取ってしまう。
その馴染(なじ)みやすさに、表現の鍵(かぎ)の一つはある。
読む者の意表をつこうとしたり、奇をてらうようなことを先立てて考えている作者と読者の間では、
当り前のような自然な関係は期待できない。
『萬葉集』巻第一に、軽皇子(かるのみこ 文武天皇)が
安騎(あき)の野(奈良県宇陀(うだ)郡の山野)で仮の宿りをなさった時、
柿本人麻呂が作った歌のうちとして、
これも有名な「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」が収められている。
人麻呂はこの時、「安騎の野に宿る旅人うち靡(なび)き寐(い)も寝(ぬ)らめやもいにしへ思ふに」
「ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見とぞ来(こ)し」などの歌もよんでいるが、
有無を言わさぬ歌の大きさとなれば「東の……」であろう。
蕪村の「菜の花や」一句に、人麻呂の「東の……」を重ねて味わう読者は少なくないと思うが、
この一首を引き出したくさせる要素は蕪村にあり、
しかも蕪村は、彼だけの世界を責任をもって打ち出し、また守っている。
つまり、一句の余韻のうちに古人の名作にも読者を誘うのが「菜の花や」である。
(…略…)
人麻呂と蕪村の作を比べて思うのは、五、七を基調とする詩が、
日本人にはよく適(かな)っているらしいということ。
歌と句の違いはあっても、五、七の型にはまる、はめる、という点は共通で、
この型にはまり、はまる時、はまらないよりも、
内面の情動をより強く訴えられる日本人の感受性について、である。
テレビの画面でもいい、さまざまの車内広告でもいい、
そこで人々の注目を待っている宣伝の言葉によく気をつけてみると、
万葉の時代から江戸時代にかけて命脈を保っていた五、七の型が、
二十世紀の日本の日常に、なお健在であるのが知られよう。
それは改まって短歌や俳句をよむのとは別に、無意識のうちに、
五、七の型の効果を肯定している意識のあらわれとも見られる。
口にして快く、耳にして快いのが五、七かもしれない。
その快さに滑りに危険もある。
滑った五、七を、暗黙のうちに監視しているのが、滑っていない芭蕉や蕪村の名句である。
(…略…)
蕪村の生まれは摂津の国東成(ひがしなり)郡毛馬(けま)村(大阪市都島区毛馬町)であったという。
江戸に下り、放浪生活も長く、京、丹後(京都府)でも暮らしているが、晩年の定住地は京で、生地には戻らなかった。
戦後の京都、大阪、奈良の郊外で、私はたびたび菜の花畑の花ざかりを目にしているが、
江戸時代の摂津の国にも菜の花畑はさぞ多かったのであろう。
摂津ならぬ紀州の菜の花か、と思わせる蕪村の句に、
「菜の花や鯨(くぢら)も寄らず海暮れぬ」があり、
これまた十七字の中に、暮色に刻一刻の変化を見せる外洋まで擁した大景観の句となっている。
海は、水平線で接する空を呼び、地上の菜の花に、およそ比較もできない大きさの空と海をあわせるところ、
「月は東に日は西に」の着想と重なり合う。
微小なものを微小なものとして克明にあらわすのも表現、蕪村の「菜の花や」の右の二句のように、
微小と広大を統一の中に共存させることで、微小も広大も、ともによく強調されるのも表現である。
それにしても、画布に向かって思いきりのよい線を引き、色を落とし、
陰翳(いんえい)をつけてゆくような蕪村の句は、
彼が、池大雅(いけのたいが)と並べられるほどのその道の達人であったと知らされているせいもあるが、
じっさいに彼が描いた俳画を別にして考えても、句の構図をそのまま画(え)の構図と感じさせるものがたくさんあって、
ありふれた言い方をすれば、「画になっている」「画として決まっている」句作の代表者が私には蕪村なのである。
しかもその画は、向かい合う者の鑑賞の自由を活発に刺激するので、鑑賞する者が息苦しくなるようなことはない。
それどころか、気持を楽にしてくれる働きをもっている。
このあたりにも、芭蕉と対照される蕪村の俳諧の特色がみられよう。
芭蕉の、しばしば一点に向かって錐(きり)を揉(も)み込んでいったような姿勢ではなく、
天と地の懐に抱かれて悠々と遊びながら、
天と地をそれとして成り立たせているものにもちゃんと通じているような蕪村の姿勢が、
こちらの気持を楽にしてくれるのかもしれない。
すでに引いた与謝野晶子の『与謝蕪村』の一節
「蕪村というような継承者が出なかったら、芭蕉の俳道は枯萎(こい)し」ていたかもしれないとう指摘には、幾度もうなずかされている。
至言だと思う。
(『竹西寛子の松尾芭蕉集 与謝蕪村集』1987年)
今朝の父の一枚です(^-^)
ニョキニョキと出てきた竹の子を撮していました。
昨日、夕方に姪がおかずを作って持って来てくれて
父と妹と四人でいただきました。
母が、最後に「美味しい」と言って食べてくれたのは
誤嚥性肺炎で入院する前日(2017年2月2日)、姪が作ってくれたおかずでした。
昨日(4月13日)は、母の告別式の日です。
母が姪の料理を食べたかったのだろうな…
その母の思いが姪に届いていたと思いました。
(2012年4月5日)
母がルーペで覗いていたのはキュウリグサです。
小さな花でついつい見過ごしてしまいそうですが
ルーペなどで拡大して見ると美しい花だということに
母は感激していました。
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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m