淀川を遡ると桂川・宇治川・木津川に分岐する地点が山崎である。
その対岸に石清水八幡宮が鎮座する。
八幡宮は、貞観元年(859)、奈良大安寺(だいあんじ)の僧、
行教(ぎょうきょう)和尚が豊前(ぶぜん)国の宇佐(うさ)八幡宮に参ったところ、
八幡大菩薩が京都の近くに移座して、国家を鎮護しようと託宣したという。
行教は紀氏出身で宇佐八幡宮と密接であった和気(わけ)氏と近く、
中央に進出しようとする宇佐八幡宮大神(おおみわ)氏の働きかけが強かったらしい。
行教は、はじめ山崎に遷座させたが、八幡神がふたたび示現して、
対岸の男山(おとこやま)の地に移座したという。
(『物語 京都の歴史 花の都の二千年』脇田修、脇田晴子 中公新書 2008年)
八幡山 たかき峯より てらす日の 春のひかりに 身をまかせつつ 順徳院
(『百人一首で京都を歩く』)
本には出典元が書かれていなかったのですが【順徳院御集】(101/120)かな?
クスノキの腕の中から椿が顔を出していました(^-^)
南総門の左にある「竈神殿(そうじんでん)」(台所の神様)の掲示板に
花は心、種は態(わざ)なるべし 世阿弥
【意味】日々の稽古の積み重ねにより身に付いたわざがなければ、芸の心の花が開くことはできない。
【出典】『風姿花伝』
世阿弥
正平18年(1363)頃~嘉吉3年(1443)頃。
室町時代の能役者、能作者。観阿弥の長男。
12歳の頃に父とともに将軍足利義満に見出されて殊遇を請け、
観阿弥の大成した能をさらに幽玄の能として完成させた。
作品は五十番余を数え、芸術論『風姿花伝』『花鏡』など二十余編を残した。
父の姉の容態、父の弟の奥さんも入院、そして僕の入院、4月に手術と…
父の心配の種は尽きません。
ところでこの男山の地は、女郎花(おみなえし)の花が男山と対で詠まれる歌枕として有名であった。
『古今集』仮名序で紀貫之は、
「男山のむかしをおもひでて、をみなへしのひとときをくねるにもうたをいひてぞ、なぐさめける」
と書いている。
男が捨てたと思って身投げした女の墓より女郎花が生えて、
男が寄ると向こうにくねるというのが女郎花説話であるが、
すでにこの話が知られていたことがわかる。
また、同じく『古今集』には、
女郎花憂しと見つつぞ行きすぐる男山にし立てりと思へば 布留今道(ふるのいまみち)
の歌も載っている。
『古今集』成立は905年、八幡宮鎮座より50年後であるから、そのころこの話が知られていたといえる。
『万葉集』には男山と女郎花の歌はない。
この説話にちなんで室町期には能楽「女郎花(おみなめし)」が作られる。
男は八幡宮の神官らしい小野頼風ということになり、男も同じく身を投げて死ぬが地獄に堕ちるという話で、
「邪淫(じゃいん)の悪鬼は身を責めて」と、地獄の苦患(くげん)を見せる能となっている。
男山というのは、対の山があれば、高く険しい山を男山、優しい山を女山というが、
この場合、男山に対する女山がどれかはわからない。
ところが古く4世紀末期から5世紀初頭築造といわれる二基の古墳があり、
現在は東車塚(ひがしくるまづか)、西車塚とよばれている。
それが男山と女山といわれていて、500年近くたって古墳の形から、女郎花説話ができたのではないだろうか。
有名な神戸の処女塚(おとめづか)説話も、
古墳の形から400年後に紡がれた話にもとづいて『万葉集』に載っている和歌ができるのだから。
(『物語 京都の歴史 花の都の二千年』)
・能楽 「女郎花(おみなめし)」(銕仙会~能と狂言~)
いつも不思議に思うのは、これまで表参道や裏参道を歩いて見たのは
防府天満宮でもそうだったけど
明治政府の神仏分離令でことごとく寺院が取払われたのに
この地蔵菩薩が男山ケーブル山上駅そばにある…
この地蔵さまはいつからここにおられたのかな?
いつもは別々に下山するのですが、
4月に手術を控えて無理はできないので一緒に男山ケーブルで下りて来ました。
一の鳥居の前にあるのが「やわた走井餅老舗」
母と妹へのお土産も買いました(^-^)
Kazeさん
返信削除こんばんは
暖かい日が続きますね
ふらりとどこかへでかけたくなります
お父様のお気持ちわかります
身近な人の病気は
自分のことよりも心配です
早くお父様を安心させてあげたいですね
becoさんこんばんは(*^O^*)/
削除5月のような陽気が続き家の中にいるのはモッタイナイですね!
父の心配事が次々と起こっています。
今までほとんど口に出さなかった父が
まるで母が父の口をかりて話しているみたいに
「気をつけるように」が口癖になりました。
父のためにも入院中に落ちた体力を
手術までに少しでも回復させたいと思っています。