宮川町歌舞練場
松原警察署があるあたりは
弓矢町
八坂神社は、明治以前は祇園感神院(かんじんいん)あるいは祇園社という名でよばれ、
10世紀後半からはじまった祇園御霊会(ごりょうえ)、すなわち祇園祭で有名である。
祇園社は、平安時代末期から清水坂下に住む「坂者(さかもの)」に、
神域で発生した牛馬の死骸の処理、小動物の死骸の片付けを依頼するようになる。
死を「穢れ」として忌みきらう平安末期の風潮のなかで、
「清目(きよめ)」役をになう坂者はその地位を向上させ、
八坂神社は、明治以前は祇園感神院(かんじんいん)あるいは祇園社という名でよばれ、
10世紀後半からはじまった祇園御霊会(ごりょうえ)、すなわち祇園祭で有名である。
祇園社は、平安時代末期から清水坂下に住む「坂者(さかもの)」に、
神域で発生した牛馬の死骸の処理、小動物の死骸の片付けを依頼するようになる。
死を「穢れ」として忌みきらう平安末期の風潮のなかで、
「清目(きよめ)」役をになう坂者はその地位を向上させ、
祇園社の下級神人(じにん)に組み込まれた。
中世にはいって祇園社の領主権が強まると、
中世にはいって祇園社の領主権が強まると、
彼らは警察力・軍事力の一部を担当するようになり、
境内の清掃と清目以外に甲冑(かっちゅう)と弓矢の製造も行うようになる。
祇園祭の山鉾巡行のおり、「犬神人」は白い布で顔をおおい、
その先頭にたって清目を行いながら、甲冑をまとって行進し、
境内の清掃と清目以外に甲冑(かっちゅう)と弓矢の製造も行うようになる。
祇園祭の山鉾巡行のおり、「犬神人」は白い布で顔をおおい、
その先頭にたって清目を行いながら、甲冑をまとって行進し、
祭り全体の警備も行うようになった。
彼らは、普段みずから製造した弓の弦(つる)を売り歩いたので、
彼らは、普段みずから製造した弓の弦(つる)を売り歩いたので、
「つるめそ」「弦売り」とよばれることもあった。
弓矢町という町名は、かつて彼らがこの辺りに住んでいたいことからきている。
祇園祭前になると、弓矢町では、昭和30年代まで祇園祭に使われた鎧兜(よろいかぶと)が公開される。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
弓矢町という町名は、かつて彼らがこの辺りに住んでいたいことからきている。
祇園祭前になると、弓矢町では、昭和30年代まで祇園祭に使われた鎧兜(よろいかぶと)が公開される。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
まだ少し体調が悪いのでとろろご飯を頂きました( ^-^)
「SAGAN」に来たのは三度目ですが欧米の観光客、
それも若いカップルが多いのにビックリしました(°0°)
それも若いカップルが多いのにビックリしました(°0°)
六波羅蜜寺をお参りしました。
お会いしたかったのは空也さん(パンフレットより一部)。
空也さんのお口からは六体の阿弥陀様がでて、庶民を救ってくださる。
宝物館には閻魔様もおられたので母さんのことをお願いしました。
宝物館には閻魔様もおられたので母さんのことをお願いしました。
「實方霊入内雀」(国際日本文化研究センターより一部)
ブラタモリ「#69 京都・清水寺」で
近江アナが空也さんの口から鳥がでている?と勘違いしていましたが(o゜▽゜)o
近江アナが空也さんの口から鳥がでている?と勘違いしていましたが(o゜▽゜)o
あるTitterの呟きに藤原実方(さねかた)の口から雀が飛び出している図があることを紹介されていました。
藤原実方の口からでている入内雀は、農作物などを荒らし人々を苦しめるのですが…
藤原実方といえば百人一首に
かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじなもゆる思ひを
で知られる歌人で枕草子にも登場する宮廷の花形でした。
藤原実方の口からでている入内雀は、農作物などを荒らし人々を苦しめるのですが…
藤原実方といえば百人一首に
かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじなもゆる思ひを
で知られる歌人で枕草子にも登場する宮廷の花形でした。
清水五条駅に向かって歩いてコーヒーで休憩(o^^o)
添えられていたのがなんと麩にチョコレートをコーティングしたのだそうです(°0°)
わらび餅のようですが「山吹きなま麩」
「なま麩のしぐれ煮」
お店は「ふふふあん」
最初は半兵衛麩で「むし養い」をいただきたかったのですが、
予約できませんでした(T^T)
でも「ふふふあん」と「半兵衛麩」で母さんにお土産を買いました(^_^)b
でも「ふふふあん」と「半兵衛麩」で母さんにお土産を買いました(^_^)b
気温は高かったですが、カラッとした青空で気持ちよかったです(^_^)b
今まで何気に渡っていた団栗橋(どんぐりばし)ですが、
◎天明の大火
1788(天明8)年1月30日早朝、団栗橋東詰めの民家から出火、
前夜来の強い東風で水養寺(寺町通高辻上ル)に飛び火したのを契機に、
西は千本通に及び、また南北にひろがり、北は鞍馬口(くらまぐち)、
南は七条まで当時のほぼ全市街を焼き、2月2日朝鎮火した。
被害は町数約1400町、家数3万7000軒、罹災世帯6万5000で市街地の80%に上った。
(『京都府の歴史散歩<上>』旧版1995年)
1788(天明8)年1月30日早朝、団栗橋東詰めの民家から出火、
前夜来の強い東風で水養寺(寺町通高辻上ル)に飛び火したのを契機に、
西は千本通に及び、また南北にひろがり、北は鞍馬口(くらまぐち)、
南は七条まで当時のほぼ全市街を焼き、2月2日朝鎮火した。
被害は町数約1400町、家数3万7000軒、罹災世帯6万5000で市街地の80%に上った。
(『京都府の歴史散歩<上>』旧版1995年)
「花紅葉都咄(はなあもみじこばなし)」(国立公文書館)
◇ ◇ ◇ ◇
(2011年11月21日)
2011年11月21日(月)
母さんに父さんの会社で作った鋼材を見せました(*^-^*)
父さんと散歩しながら、母さんも連れてこないといけないと話していて
今回、車でやって来たのです(それまで自転車で来ていました)。
母さんもゆっくり歩くと公園を廻ることが出来ました。
この日以来、三人で一緒に散歩するようになりました(o^^o)
母さんに父さんの会社で作った鋼材を見せました(*^-^*)
父さんと散歩しながら、母さんも連れてこないといけないと話していて
今回、車でやって来たのです(それまで自転車で来ていました)。
母さんもゆっくり歩くと公園を廻ることが出来ました。
この日以来、三人で一緒に散歩するようになりました(o^^o)