2017年5月18日木曜日

宮川町~六波羅蜜寺~団栗橋

宮川町歌舞練場
松原警察署があるあたりは

弓矢町
 八坂神社は、明治以前は祇園感神院
(かんじんいん)あるいは祇園社という名でよばれ、
10世紀後半からはじまった祇園御霊会
(ごりょうえ)、すなわち祇園祭で有名である。
祇園社は、平安時代末期から清水坂下に住む「坂者
(さかもの)」に、
神域で発生した牛馬の死骸の処理、小動物の死骸の片付けを依頼するようになる。
死を「穢れ」として忌みきらう平安末期の風潮のなかで、

「清目(きよめ)」役をになう坂者はその地位を向上させ、
祇園社の下級神人(じにん)に組み込まれた。
中世にはいって祇園社の領主権が強まると、
彼らは警察力・軍事力の一部を担当するようになり、
境内の清掃と清目以外に甲冑
(かっちゅう)と弓矢の製造も行うようになる。
祇園祭の山鉾巡行のおり、「犬神人」は白い布で顔をおおい、
その先頭にたって清目を行いながら、甲冑をまとって行進し、
祭り全体の警備も行うようになった。
彼らは、普段みずから製造した弓の弦(つる)を売り歩いたので、
「つるめそ」「弦売り」とよばれることもあった。
弓矢町という町名は、かつて彼らがこの辺りに住んでいたいことからきている。
祇園祭前になると、弓矢町では、昭和30年代まで祇園祭に使われた鎧兜
(よろいかぶと)が公開される。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)

まだ少し体調が悪いのでとろろご飯を頂きました( ^-^)
SAGAN」に来たのは三度目ですが欧米の観光客、
それも若いカップルが多いのにビックリしました(°0°)
六波羅蜜寺をお参りしました。
お会いしたかったのは空也さん(パンフレットより一部)。
空也さんのお口からは六体の阿弥陀様がでて、庶民を救ってくださる。
宝物館には閻魔様もおられたので母さんのことをお願いしました。
實方霊入内雀」(国際日本文化研究センターより一部)

ブラタモリ「#69 京都・清水寺」で
近江アナが空也さんの口から鳥がでている?と勘違いしていましたが(o゜▽゜)o
あるTitterの呟きに藤原実方(さねかた)の口から雀が飛び出している図があることを紹介されていました。
藤原実方の口からでている入内雀は、農作物などを荒らし人々を苦しめるのですが…
藤原実方といえば百人一首に

  かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじなもゆる思ひを

で知られる歌人で枕草子にも登場する宮廷の花形でした。
清水五条駅に向かって歩いてコーヒーで休憩(o^^o)
添えられていたのがなんと麩にチョコレートをコーティングしたのだそうです(°0°)
わらび餅のようですが「山吹きなま麩」
「なま麩のしぐれ煮」
お店は「ふふふあん
最初は半兵衛麩で「むし養い」をいただきたかったのですが、
予約できませんでした(T^T)
でも「ふふふあん」と「半兵衛麩」で母さんにお土産を買いました(^_^)b
気温は高かったですが、カラッとした青空で気持ちよかったです(^_^)b
 今まで何気に渡っていた団栗橋(どんぐりばし)ですが、

 ◎天明の大火
1788(天明8)年1月30日早朝、団栗橋東詰めの民家から出火、
前夜来の強い東風で水養寺(寺町通高辻上ル)に飛び火したのを契機に、
西は千本通に及び、また南北にひろがり、北は鞍馬口(くらまぐち)、
南は七条まで当時のほぼ全市街を焼き、2月2日朝鎮火した。
被害は町数約1400町、家数3万7000軒、罹災世帯6万5000で市街地の80%に上った。

(『京都府の歴史散歩<上>』旧版1995年)

◇ ◇ ◇ ◇
(2011年11月21日)
2011年11月21日(月)
母さんに父さんの会社で作った鋼材を見せました(*^-^*)
父さんと散歩しながら、母さんも連れてこないといけないと話していて
今回、車でやって来たのです(それまで自転車で来ていました)。
母さんもゆっくり歩くと公園を廻ることが出来ました。
この日以来、三人で一緒に散歩するようになりました(o^^o)