2026年6月20日土曜日

検査の後、中之島美術館へ

今朝は、来週、父の診察日なので血液検査と尿検査。
帰宅後、雨が降っていたので京阪中之島線「渡辺橋」駅から近い美術館へ
潜水服?を着るほどの雨ではなかったのですが(*´∀`*)
雨の中、出迎えてくれたネコちゃんは
ヤノベケンジさんの《SHIP'S CAT(Muse)》
潜水服というよりも宇宙服かな(*´∀`*)

 4階展示室にエスカレーターで上がりました。
この画像は、帰るときに見下ろした画像です。
見上げて撮すと誤解されるので(^_-)
日曜美術館「寫実(しゃじつ)の極致 それを慈悲といふ 髙島野十郎」(初回放送日 2025年8月31日)
で、初めて知り、見たいなと思っていました。
やってきたのは、閉会直前の、二日前です(^_^;
没後50年 髙島野十郎展(2026.03.25 – 2026.06.21)

撮影が「」の作品が多くあったので撮しました。
来場者のみなさんも撮しておられたし、作品の前で見入っていた方も多かったので
作品の一部だけですし、作品名や解説は他の作品と混同しているかもしれません。
 境内の桜

 昭和30(1955)年 福岡県立美術館 

東京都世田谷区にある曹洞宗の寺院、豪徳寺の仏殿を描いた作品である。
仏教に関心を寄せる野十郎にとって、寺院を描くことは仏の教えに従うことに他ならなかった。
仏殿の脇には臥龍桜(がりゅうざくら)と呼ばれ、江戸時代より親しまれてきた枝垂れ桜がある。
満開のサクラは細部に至るまで精緻に描き込まれ、妖艶な美しさを放ち、空気をふんわりと桜色に染めている。
それとは対照的に、ほのぼのとした様子で描かれた3人の子どもたちは、砂遊びに興じている。
 さくら

 昭和23(1948)年以降 福岡県立美術館 

野十郎がその晩年を過ごした、千葉県柏市にある布施弁天東海寺に取材した作品である。
弘法大師とのゆかりも深いこの布施弁天は、関東三大弁天の一つとして親しまれている。
ひたすら静かな場所であるが、そこには参拝に訪れた親子連れの少女が鳴らす鐘の厳かな音が響き渡っているのだろう。
右側の燈籠の脇にも着物の女性が描かれている。
萬鉄五郎など他の作家の作品も展示されていました。 

萬鉄五郎 

太陽の麦畑

大正2年頃
油彩・画布
東京国立近代美術館

放射状に広がる太陽の光や揺らめく麦畑など、あからさまなほどファン・ゴッホの影響が色濃い。
萬は東京美術学校時代からファン・ゴッホに強い関心を抱き、卒業後に岸田劉生や清宮彬(せいみやひとし)らのフュウザン会に参加し、本作のような作品を発表した。
萬は「心的印象総て真の自然がこうしてむき出して表れて来る」と述べ、自然を主観的な印象で捉えることの意義を強調している。
これらは図版を通してファン・ゴッホやポール・ゴーガンらに興奮した若き画家たちに共通した精神であった。
  田園太陽 

昭和31年
油彩・画布
個人蔵

沈みゆく太陽から降り注ぐあふれんばかりの光が、田園を真っ赤に染め上げている。
あたりをさえぎるものもなく、人や家屋もなく、夕景とそれを作り出す太陽の存在感にフォーカスされている。
太陽は絵具の物質性を存分に生かしながら、荒い筆致で盛り上げて描かれている。
後年に描かれたものではあるが、野十郎が若かりし頃に憧れ、傾倒したファン・ゴッホへの回帰をも読み取ることができるだろう。
古賀春江

 観音 

大正10年
油彩・画布
東京国立近代美術館

久留米の洋画家・松田諦晶(ていしょう)のもとで水彩画を学んでいた古賀は、大正7(1918)年頃から油絵も手掛けたが、本作が油彩画での本格的な作品である。
寺に生まれ、仏教とは縁のある古賀であったが、子どもの死産に見舞われ、自身も健康を害したこともあり宗教をテーマにした作品をこの頃から手掛けた。
数年前からキュビスムにも興味を覚え、本作に反映させている。
この頃は野十郎と会うことも多く、宗教や芸術を巡る会話に同席したことが知られる。

ちくごist 深よみ 古賀春江」(久留米市美術館)
  ひまわり

 大正時代頃
 油彩・板
 三鷹市美術ギャラリー
 断崖の上
 大正13(1924)年
 油彩・板
青木繁

 宇朗像 


明治37年
色鉛筆・紙
福岡県立美術館

画面右下に記された明治37(1904)年4月2日に、東京の青木の下宿を訪問した野十郎の兄・宇朗(うろう)を即興で描いた作品。
宇朗は明治36(1903)年頃に東京で青木と知り合い、青木が久留米に滞在する間は頻繁に宇朗の家を訪問していた。
宇朗は詩人として明治35(1902)年に第一詩集『せゝらき集』を出している。
青木没後の昭和2(1927)年に増補改訂版『せゝらき集』を出版し、そのなかに本作を色刷挿画として掲載した。
本作以外にも高熱で苦悶する宇朗を捉えた《死闘の宇朗像》や《婦人像》《素描》の挿画が入っており、青木への追悼としている。
世の災いのなかで――
関東大震災、疎開 


 世の動向にかかわらず風景や静物を対象に絵を描いた野十郎が、時事的な出来事を対象にした作品が今日一枚だけが伝わっている。
大正12(1923)年9月に発生した関東大震災で被災状況を描いた作品である。
被災した野十郎は壊滅的な状況を前にして、筆を執らずにはおられなかったのかもしれない。
 昭和20(1945)年に東京都青山で空襲の被害を受けたが、戦争の惨状を作品は残されていない。
その後福岡県の黒木町に疎開し、裏山の小屋で生活を送ることとなった。
野十郎は近在の野山や山里の風景を描いているが、周知の名所でも目を見張る佳景でもない。
疎開という非常時の生活の中で、平凡な景色ゆえの静けさや平安の重みを知ったのではないか。
何げない世界のなかに隠された神秘を野十郎は戦後、さらに追求していく。

《廃墟 横濱南京町》 大正13(1924)年 個人蔵」
撮影が禁止になっていました。
係の人に聞くと絵の解説もダメだとのこと…

絵や解説は以下の福岡県立美術館に載っていました。

【髙島野十郎展】担当学芸員による見どころ解説①」(福岡県立美術館 2019年10月5日)
 髙嶋家の人たち 

 髙島野十郎こと髙嶋彌壽(やじゅ)は、福岡県御井郡合川村(現・久留米市東合川)で酒造業を営む髙嶋家の五男として明治23(1890)年に生まれた。
 長兄で詩人の宇朗(うろう<1878生>)は禅宗に帰依し、野十郎の精神形成に大きな影響を与えた。
家業を継いだ次兄の賢太(1880生)からは学生時代や欧州遊学の経済的援助を、そして兄の三郎(1883生)からは欧州滞在時における連絡役や作品の頒布において支援を得た。
 姉のスヱノ(1887生)の嫁ぎ先に終戦前後に東京から疎開し、若くして死去した弟の喜六(1895生)には闘病中の看護や没後の世話をしていた。
生涯独身であった野十郎はこのように家族から物心両面の恩恵を受けつつ、親身に接し、後年には甥や姪たちから「おっちゃま(叔父様)」と慕われていた。
 大学時代の恩師や友人たち 

 野十郎は東京帝国大学農学部水産学科3年次と4年次は特待生に選ばれ、首席卒業の上、天皇から授与される「恩賜(おんし)の銀時計」の候補者にも挙がっていながら、辞退して画家へと転身する。
野十郎のこの進路変更は、教員にも学生にも強い驚きと印象を与えたことだろう。
同級生たちは野十郎と長きにわたって親密な交友を保ち、野十郎の画業の理解者、支援者となった。
教員やOBたちの推薦や理解があったからだろうが、画家としては無名に近い野十郎に、恩師の水産学科教授たちの肖像を描く機会が与えられた。
 人物画を描くことの少なかった野十郎がだが、作品からは恩師への深い敬愛が偲ばれるとともに、水産学科関係者が野十郎に寄せた深い友愛と信頼が伝わってくる。

市川霊園(千葉県市川市)にある野十郎の墓
大学同級生の大橋祐之助が墓石の材や意匠を取り図った
  岸上鎌吉先生像 

大正10年代頃
油彩・画布
東京大学大学院農学生命科学研究科水圈生物科学専攻

岸上鎌吉は、東京帝国大学農学部水産学科の発足に携わった学者で、魚類や甲殻類の分類に関する研究で知られた。
野十郎の東京帝大在学時の指導教授でもあった。
岸上の在職中に描かれたこの肖像画では、師の柔和な表情のみならず、机に置かれた書物や顕微鏡、背後の標本など、研究室の細部に至るまで丁寧に描かれ、師への敬愛と感謝の気持ちが読み取れる。
恩師の研究者としての日常を知る野十郎だからこそ描き得た作品であろう。
 外山亀太郎先生像 

昭和16年
油彩・画布
東京大学大学院農学生命科学研究科生産・環境生物学専攻

外山亀太郎は遺伝学の分野で活躍した農学博士。
メンデルの法則が蚕の遺伝にも適用できることを発表した功績で知られる東京帝国大学農学部助教授であった。
東京帝大卒業後、野十郎は学問の世界から離れたが、師弟の関係はその後も続いていたのか、本作でも渾身の力で恩師を描いている。
師の学問への姿勢を敬慕するとともに、その期待に沿えなかった申し訳なさもあったかもしれないが、きわめて風格ある肖像画へと仕上げている。
藤十郎の恋 

昭和23年以降
油彩・画布
個人蔵

「藤十郎の恋」は菊池寛の小説を、菊池自身が戯曲にしたものであり、当たり狂言となった。
像主は野十郎の大阪在住の友人であった中島浩吉の娘であり、日本舞踊に専心していた。
野十郎は、彼女が阪田藤十郎に扮した一葉のモノクロ写真をもとに本作を描いたが、それに色彩を加えるだけではなく、白粉を塗った肌や着物の質感などを執拗なまでに描き込んだのは、野十郎の創意といえよう。
肖像画をあまり描かなかった野十郎の異色作である。
  傷を負った自画像

 大正3-5(1914-16)年頃 福岡県立美術館 

東京帝国大学在学中に描いた作品である。
首と脛からは血が流れ、眉間にしわを寄せ、何かを訴えるかのような口もと。
しかし、目はどこかうつろであり、痛苦に満ちた表情をしている。
実際に流血するような出来事があったのか、あるいは精神を襲った耐え難い苦しみの象徴かはわからないが、この絵を描いたのち、野十郎は学問の世界から身を引き、絵描きとして生きる道を選んだ。
この絵を含む自画像はすべて大学の同期で親友であった大橋祐之助(1891生)に託された。
 煙草を手にした自画像

 戦前期 福岡県立美術館 

他の3枚の自画像(《絡子(らくす)をかけたる自画像》《りんごを手にした自画像》《傷を負った自画像》)と違って、静かな姿で描かれ、背景も書物や懐中時計、壁に貼られた絵の一部などが意味ありげに描かれている。
野十郎は大正7(1948)年から何年間か、渋谷常盤松にあった東京農業大学で非常勤講師をしていたことが最近判明した。
背広姿や書物の登場から非常勤講師時代の作品と考えるなら、袈裟姿の2枚の自画像に先行する作品である可能性がある。
表現や表情は穏当ではあるが、他の自画像同様に謎や課題の多い作品である。
お母さんに抱かれた女の子(1~2歳?)
傷を負った自画像」が気になるようで指さしながらお母さんと何か話していました。
いったんその場を離れ、別の作品を見ていたのだけど
お母さんにせがんで再び戻って見ていました。
女の子とお母さんの会話を聞くことができなかったので勝手な想像ですが
女の子は、ケガをしているのが気になったのかな?
可哀想だねとお母さんに話していたのかもしれません。

 …つづく…

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    中之島美術館で開催されていたのですね。
    毎日新聞に「蝋燭」の絵画が紹介されていました。
    たぶん、毎日新聞が主催?されていたと思います。
    ゆらぐ蝋燭の炎を観覧したいなぁ~と思っていました。
    「満月」や「自画像」も。。(*^-^*)

    良い一日だったことと思います。(^^)/

    返信削除
    返信
    1. カイさんコメントありがとうございます(^^)/

      髙島野十郎の「蝋燭」の連作に多くの人が魅入っていました。
      去年の日曜美術館で紹介されていて
      大阪に来たときは見たいなと思っていました。

      今週は、妹と父の受診が続きますので
      散歩に行けない日が続きます。
      それでもこうやって雨の日でも美術館に行けたのでよかったです(^_^)v

      削除