2026年6月8日月曜日

雨があがり

昨日の冷たい雨がやんで青空も見えました。
暑いですが時おり吹く風が気持ちよかったです。

フィリピンで大地震 “少なくとも15人死亡 129人けが”当局」(NHK)

3年前にも地震が起きましたね…
「2023年12月2日 フィリピン諸島、ミンダナオの地震」(地震予知連絡会
安定的な皇位継承 とりまとめ案報告の協議終わる」(NHK)
天皇陛下をはじめ皇室の方々は蚊帳の外なんですね


養子縁組を狙っている方がいるように思うのですが…

先日紹介した『華のかけはし 東福門院徳川和子』(梓澤要著 新潮文庫)
江戸幕府によって慶長18年(1613)に完成した紫宸殿。
それをみた後水尾天皇は

(天皇は政<まつりごと>をやるなと?)

と幕府の意図を悟る(P34)。
禁中並公家中諸法度(きんちゅうならびにくげちゅうしょはっと)」(国立公文書館)

明治以後は、天皇を国民を戦争へと駆り立てるために利用していたと思いますよ。
国民を蚊帳の外にして、天皇を利用して何をしようとしているのでしょうかね…
式子内親王の歌について、今回は、田辺聖子さんの解説を転記しますφ(.. )

 玉の緒(を)よ 絶えなば絶えね ながらへば
    忍ぶることの 弱りもぞする
          式子内親王(しきしないしんのう) 89番 

 <わが命よ
  絶えるならいっそう絶えてしまえ
  このまま生きながらえていたら
  秘めた恋を押しかくす力が
  これ以上堪(た)えきれず弱まるかもしれぬから>

(『田辺聖子の小倉百人一首』田辺聖子 角川文庫 1991年)
 百人一首の人気投票をしたら、おそらくつねに一、二位を争うのではないかという、人気たかい歌である。
私もこの歌が好きである。
 この恋は、あくまで秘しかくさねばならぬ恋なのである。
決して決して、外へは、ちらとでも洩(も)らせぬ恋なのである。
それだけに切迫した激情が抑えきれず奔騰(ほんとう)する。
『新古今集』巻一に、「百首歌の中に忍恋(しのぶるこひ)」としてみえる。
 式子(しきし)(しょくし、という人もある。どちらでもよい。実際にはなんとよまれたのか、まだわからない)内親王は『新古今』時代の歌人の中でも、ことに出色(しゅっしょく)の歌人である。
後白河院(ごしらかわいん)の皇女、幼女のころから十年を賀茂(かも)の斎院(さいいん)として過ごされ、16歳ぐらいで病によって斎院を退(ひ)かれた。 
 若き皇女に次々と不幸がおそう。
妹宮の死、母君の死、兄宮の横死(おうし)
兄宮というのは以仁王(もちひとおう)である。
平家打倒のさきがけをして以仁王は戦死されたのであった。
 皇女の生きた時代も嵐のまっただ中だった。
平家の滅亡、京の兵乱、それに加えて大火、大地震、大飢饉、はやり病(やまい)
『方丈記』にもあるように、
「築地(ついぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭(くさ)き香(か)、世界にみちみちて、変りゆくかたち有様、目も当てられぬこと多かり」
――賀茂の川原などは馬・車も通れぬほど、捨てられた死体で埋まったという。
 末世のすさまじい荒廃(こうはい)は、多感な若い詩人の感受性を、いよいよ磨(と)ぎすまさないではいなかったであろう。
内親王の歌の師は藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)だった。
内親王は騒擾(そうじょう)の世の片隅(かたすみ)に、ひっそりと歌を支えに生きられた。
歌は気品たかく端正(たんせい)に、しかも女人の肉声を底に美しくひびかせ、歌びととしての内親王の名は高くなっていった。
 治承(じしょう)5年(1181)正月三日、二十歳の定家(ていか)は、68歳の父・俊成に連れられて、内親王の御所にはじめて参上(さんじょう)する。
 内親王は御簾(みす)のうちにあられたが、室内には、たかれた香(こう)の匂(にお)いが濃密にたちこめていた。
定家にはよほどそのことが印象的だったとみえ、その日記『明月記(めいげつき)』に、
「薫物(たきもの)ノ馨香(けいこう)、芬馥(ふんぷく)タリ」
 と書いている。
定家は自分より八、九歳年長の才たけた貴婦人に、あこがれを募(つの)らせたのであった。
歌人として私淑(ししゅく)する敬意が、そのまま思慕に移行していっても不思議はない。
昔からの伝説では、定家と内親王は恋仲であったということになっている。
その伝説をもとに作られた謡曲「定家」には、「定家の卿(きょう)、忍び忍びのおん契(ちぎ)り浅からず」とあるが、実際にはどうだったのであろうか。
 現代の学者は、そういう関係はなかったという人、認める人、さまざまである。
しかし『明月記』などによると、病勝(やまいが)ちな内親王に対する定家の心痛と献身はただごとではない。
 あるいは二人のあいだに心の通い合いがあったかもしれな。
『明月記』で見る定家は、文句やグチの多い、出世欲、自己顕示欲(けんじよく)の強い、変なオッサンであるが、しかし内親王の前にあるときの彼は、詩人の魂の純粋な部分だけで凝(こ)ったすずやかな人物であったかもしれず、二人は呼び合い、惹(ひ)き合うものを感じたのかもしれない。
だがそれはあくまで秘しかくさねばならない恋、「忍ぶる恋」であらねばならなかった。
定家は生涯、内親王にあこがれを捧(ささ)げつづけ、内親王もそれを知りながら応(こた)えられるすべもない。
皇女の恋、などというのは社会的に許されない時代だったから。
 二人の恋は、たがいの歌に、濃い芳香(ほうこう)をただよわせてゆく。
内親王の歌には、それに加えてどこかリアルなためいきがまつわりつくのであった。
「はかなしや 枕さだめぬ うたたねに ほのかにかよふ 夢の通ひ路」
「我が恋は 知る人もなし せく床(とこ)の 涙もらすな 黄楊(つげ)の小枕(をまくら)
 建仁(けんにん)元年(1201)、式子内親王は五十歳足らずの薄幸(はっこう)な生涯を終えられた――。
『明月記』にはこの頃の記事はない。
けれども定家はこののち、とみに作歌意欲をうしなっている。
 与謝野晶子(よさのあきこ)は式子内親王に傾倒(けいとう)して歌った。
「したしむは 定家が撰(え)りし 歌の御代 式子(しきし)の内親王(みこ)は 古(ふ)りし御姉(おんあね)」(歌集『小扇』) 
 織田正吉氏は『絢爛(けんらん)たる暗号』で、内親王の歌を68番の「ながらへば」37番の「つらぬきとめぬ玉ぞ」と連繋(れんけい)させていられる。
 与太郎青年は突飛(とっぴ)なことをいい出す男で、
<その、玉の緒(お)って何ですか>
<玉をつらねたヒモのことですが、タマから魂を体につなぐヒモ、転じて、命、という意味になったんですね>
<ははあ>と与太郎は深くうなずく。
<山口組抗争で、「奴(やつ)らのタマ取らずにおかんぞ」いうて、いきまいているヤーサンがいましたが、あれは古語から来てるんですね。連中はなかなか、ゆかしい日本語を使うとるわけですな>
 私、与太郎と話してるというも幽婉(ゆうえん)な中世から、卑近(ひきん)な現代に引きずられるので興ざめなんである。
(『田辺聖子の小倉百人一首』田辺聖子 角川文庫 1991年)

なんか朝ドラ受けみたいですね
リハビリ散歩に出かけている時間なのでドラマの録画はしますが
ドラマの余韻を楽しみたいから、次の番組は録画していません…(^_-)
今朝の父の一枚です(^^)/
ジャカランダを撮していました。

 「野鳥の子育て」つづき 

 この幼虫の豊富な時期をねらって、野鳥たちはひなを育てます。
これを〝繁殖期(はんしょくき)〟といいます。
野鳥たちの子育てぶりを観察してみましょう。
その前に、繁殖期の野鳥はとても神経質になっていますので、いくつか注意しなければならないことを書いておきましょう。
 野鳥は、巣づくりや卵を暖めているときに、人がのぞいたりすると、巣づくりを途中でやめたり、卵をすててしまうことがあります。
 また、とても残念なことですが、野鳥の巣や卵、ひなをとる人がいます。
巣を観察していて、そのような人に見つかってしまったら、それこそ大変なことになります。
 見にくいからとおって、巣をおおている枝や葉を折ってしまう人がいます。
そのようなことをすると、カラスやイタチなど卵やひなを食べる動物に、やられてしまうことがあります。
 そうです、野鳥の巣にはできるだけ近づかないようにしたいものです。
しかし、これでは野鳥がどのようにしてひなを育てるかを観察することができません。
そこで、もっとも影響の少ない方法を考えてみましょう。

 …つづく…

(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)