2026年6月12日金曜日

梅雨の中休みというのかな?

大阪は晴れ間が続いているけど
梅雨特有のまとわりつくような蒸し暑さではない。

関東では「ひょう」も 浸水など十分注意 13日も大気不安定に〟(NHK)
生中継 サグラダ・ファミリア ~ついに完成!イエスの塔 世界初公開~」(NHK 6月11日)
録画して見ました。
ローマ教皇レオ14世のミサでのメッセージ
われわれはイエスを信じながら戦争を助長することはできません。
イエスを信じながら罪のない人々を殺すことはできません。
イエスを信じながら、苦しむ人々、泣いている人々、そして悲惨な状況から逃れる人々を見捨てることはできません

サグラダ・ファミリア教会 「イエスの塔」完成記念のミサ〟(NHK 6月11日)

サグラダファミリア「イエス・キリストの塔」の完成祝う教皇ミサ〟(VATICANNEWS) 

同じ100年でも、4月29日に行われた記念式典がウスッペライものに思える。
天皇陛下 オランダとベルギー 公式訪問を前に記者会見」(NHK 6月11日)

皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸福を常に願い、国民と苦楽を共にすることだと考えており、こうした皇族数の確保の在り方についての議論においても、国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります
天皇陛下として許されるギリギリのお言葉だと思います。

天皇陛下を蚊帳の外に置いて決められるのは、今に始まったことではありません。
 第1章「万世一系」の自覚
 明治大正天皇と祭祀


 ただし大正天皇は、体調を崩す前から宮中祭祀に熱心でなかった。
明治天皇が死去した12年7月から1年間と、その妻の美子(はるこ)、すなわち昭憲(しょうけん)皇太后が死去した14年4月からの1年間は、いずれも宮中喪につき全く祭祀には出られなかったが、それ以外にも皇室祭祀令第八条を無視する形で、祭祀をしばしば休んだ。
(『昭和天皇』原武史 岩波新書 2008年)
 例えば13年には、喪が明けてからも新嘗祭、光格天皇例祭(12月12日)、賢所御神楽(みかぐら)(12月15日)、後桜町院(ごさくらまちいん)天皇百年式年祭(12月24日)に、16年と18年にも、孝明天皇例祭(1月30日)、祈年祭(2月17日)、仁孝(にんこう)天皇例祭(2月21日)に、それぞれ欠席している。
前者の欠席理由は、『大正天皇実録』にも書かれていない。
しかし後者ははっきりしている。
 貞明皇后とともに葉山御用邸に滞在していたからである。
 大正天皇は15年以降、毎年1月ないし2月から3月にかけて、避寒のため葉山に長期間滞在するようになる。
この間の天皇は、2月11日の紀元節祭を除いて、祭祀のためにわざわざ東京に戻ることはなかった。
紀元節祭は大祭であるのに対して、孝明天皇例祭、祈年祭、仁孝天皇例祭は小祭であることから、大正天皇には大祭はともかく、掌典長が行う小祭まで出席しなくてもよいという思いがあったのではないか。
そのせいか大正時代には、秋の収穫や五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る祈年祭のように、天皇の出席が一度も確認できない祭祀もあった(『大正天皇実録』の14年2月17日条には、「祈年祭ニヨリ、神宮ニ勅使掌典宮地厳夫(みやじいずお)ヲ参向セシメ」とあってその後が黒く塗られている。ここに天皇の出席が記されている可能性もあるが、現時点ではわからない)。
 もっとも、大正天皇は父親である明治天皇の祭祀に対する消極的な態度をまねたようにも見える。
明治天皇は日清戦争以降、しだいに宮中祭祀に出なくなり、「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキ」のどちらでもないのに、晩年はほぼ完全に代拝に任せるようになった。
後の日中戦争や太平洋戦争の最中における昭和天皇とは対照的に、明治天皇は日露戦争の最中でも、毎月一日に行われる旬祭の5回、新嘗祭に1回、それぞれ出席しただけである(『明治天皇紀』第十および第十一、吉川弘文館、1974年~75年)。
 その理由としては、一つには明治天皇が潔斎を嫌ったことが考えられる。
宮中三殿は天皇家にとって最も聖なる場所であるから、祭祀の前には必ず潔斎、つまり湯を浴びる必要がある。
ところが、「御湯は夏ばかりであつたさうでございます」(日野西資博『明治天皇の御日常』新学社教文館、1976年)という関係者の証言もあるように、天皇はそもそも1年を通して湯を浴びる習慣を持たなかった。
 もう一つの理由としては、明治天皇が宮中祭祀そのものを、「創られた伝統」と見なしていたことが考えられる。
祭祀を「国体」の根幹と見なす後期水戸学の影響のもとに宮中祭祀が確立されるのは、前述のように明治になってからであった。
京都に強い郷愁を抱いていた明治天皇は、自らの在位中に東京で宮中祭祀という「にせの伝統」が創られてゆくことに対して、どこかしら冷めた感情を持っていたように思われる。
もっといえば、明治天皇には東京を正式な首都と認めたくない感情があったのではないか。
 だがこのことは、天皇が神道のイデオロギーを信じていなかったことを意味するわけではない。
それどころか明治天皇には、大正天皇や昭和天皇と異なり、「あまてらす」や「伊勢のおほ神」など、抽象的な「神」ではなく、皇祖神そのものにはばかることもなく言及した和歌が多く残っている。
またジャーナリストの前田蓮山によれば、「〔明治〕天皇は御自身生神(いきがみ)のつもりで、伊勢神宮と常に霊の交通があると信じられた」(『歴代内閣物語』上、時事通信社、1961年)という。
そうだとすれば、天皇が祭祀に出なくなるのは、「生神」である自分が参拝する必要を認めなくなったからかもしれない。
(『昭和天皇』原武史 岩波新書 2008年)

ことあるごとに「創られた伝統」「にせの伝統」を「日本の伝統」だと声高に叫ぶ人がいます。
今朝の父の一枚です(^^)/
ムクドリが日向ぼっこをしているみたいです。
昨日、妹が手術前の自己血採血をしました。
300ccも採るので心配しましたが、無事、終えることができました!(^^)!
と言うのも私は、2013年に腸の憩室から出血して、意識を失ったことがあります。
私と同じで体が小さいので採血のあと失神しないか心配でしたが大丈夫でした!

1988年に出版された本から

 くま

 クマ(熊)は童話や寓話によく登場し、世界的になじみ深い動物だが、けっして身近な動物とはいえない。
単独生活をし、大きな体を維持する大量の食物を求めて、山奥を広く歩き回っている。
秋になると、よくどこそこでクマが出たというニュースを聞く。
最近では、山に残された観光客の残飯に慣らされて、季節かまわず、夏でも人里に出るように成った。
クマにしてみれば、人間が自分たちの住み場に入ってきたといいたいところだろう。
食肉類のくせに雑食で、主に植物質のものを食べる。

 …つづく…

(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)