末 社 竈社(かまどしゃ)
祭 神 庭津彦神(にわつひこのかみ) 庭津姫神(にわつひめのかみ) 火産霊神(ほむすびのかみ)
神 徳 台所の守り神
例祭日 6月17日
庭津彦・庭津姫神の「庭」は家庭の意味で、この二神は家庭の守護神。
また火産霊神は、火をつかさどる神である。
古来この三柱(みはしら)の神は、かまど・台所の守り神として私たちの日常生活と密接に結びつき、各家庭で大切に守られて来た。
この神々はもともと天満宮の御供所(ごくしょ<神さまへのお供えを調理する台所>)のかまどに祭られていたもので、昔から使われてきた大釜が社殿の床下に納められており、かいま見ることができる。
なお、かまどの神については中国にも同様の信仰があり、この神を台所に祭ると福を招くとして守り継がれている。
「境内のご案内 摂末社」(北野天満宮)日記を書きながら検索すると三つ並んでいる奥の鳥居は、
「明智の鳥居」といわれていて明智光秀が奉納したのだとか。
裏に明智の銘が刻まれているそうです。
小さな社なのに鳥居が三つも並んでいるのは初めてみたような気がする
今度、訪ねるときに確認したいです。
「これからの祭典・行事《4月~6月》 6月17日 竈社例祭」(「北野天満宮社報 春号 Vol.31」31/40)末 社 文子(あやこ)天満宮
祭 神 菅原大神(菅原道真公)
神 徳 入試・学徳成就
例祭日 4月第2木曜 神幸祭
4月第3日曜 還幸祭
道真公が太宰府で生涯を閉じられて40年を経た天慶(てんぎょう)5年(942)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺)に住む巫女(みこ)多治比文子(たじひのあやこ)に菅公の神霊により、わが魂を右近馬場(現境内地)に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊(みたま)をお祭りした。
これが北野天満宮の発祥である。
その後、他の霊能者にも同じご神託が相つぎ、天暦(てんりゃく)元年(947)天満宮は現在地に移された。
文子の住居跡は神殿につくり改め文子天満宮と称えられてきたが、やがて西の京に移され、さらに明治6年この場所に遷座(せんざ)された。 道真の託宣が相次ぎ、「右近の馬場」に祀られる
天慶(てんぎょう)5年(943)7月、童女多治比あや子が右京七条二坊十三町(現在の京都市南区)で受けた道真の託宣とは、道真は生前に平安京の北郊にある「右近の馬場」(現在の北野天満宮の地)を遊覧したことがあり、御霊となってのちもここに到ると、そのころを思い出して憤(いきどお)る心が一時的に鎮(しず)まる、そこでこの地に社殿を造って自分を祀れば恨(うら)みを収めるであろう、というものであった。
(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年)あや子は、史料によって「奇子」「文子」「綾子」などと、いろいろな表記で書かれるが、要するにこの地に住んだ巫女(みこ)だと考えられている。
しかしこのときあや子は、賤(いや)しい身分のこととて託宣のいう右近の馬場には社殿を構えることが叶わず、やむをえず自分の邸内に小祠を造って道真を祀ったという。 ところがこれから間もない天暦(てんりゃく)元年(947)3月12日、近江国高島郡(現、滋賀県高島市、琵琶湖の西岸に当たる)比良郷の神良種の子で太郎丸という7歳の子に、同様に右近の馬場に移りたい、という趣旨の道真のお告げが降りる。
道真は、自分の告げが真実である証拠を見せるためにその地に松を生やそうと約束するが、良種が右近の馬場に赴き、かの地の朝日寺の住持最珍(さいちん)、弟子の法儀(ほうぎ)・鎮世(ちんぜい)にこのお告げの内容を話し相談していると、実際に、一夜のうちに数千本の松が芽生え、たちまちに松林になって、託宣が真実であることを証明したという。そこで、良種はこの朝日寺最鎮と弟子の法儀・鎮西、さらに俗人の狩弘宗などを率い、そして先に述べた多治比あや子とその勢力である僧の満増や増日、俗人の星川秋永らの協力を得て、あや子の邸内に祀られていた祠を右近の馬場に移し、協力して現在の北野天満宮の基礎をつくったのである。
この年の6月9日のことである。
(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年)
検索すると「さいちん(最珍・最鎮)」と「ちんぜい(鎮世・鎮西)」は、それぞれ二つの表記がみられました。 重要美術品 渡邊綱(わたなべつな)の石燈籠
北野天満宮は、古来、天神地祇が奉祀され、祓いと清めの聖地と信仰される北西(天門)に位置する北野の地に鎮座し、平安京の天門を守護する皇城鎮護の社として崇められてきた。
この石燈籠は、都における鬼や災いを祓い鎮める伝説や逸話が北野の天神信仰の一つとして伝えられる上で象徴的な遺構であり、一条戻り橋における平安時代中期の武将 源 頼光(みなもとのよりみつ)の四天王の一人、渡邊綱と鬼との戦いはつとに有名である。
本燈籠の由来は、この一条戻り橋の鬼退治の話に遡る。
「綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に遭遇し、言葉を交わすや否や女性は突然恐ろしい鬼へと姿をかえ、綱を捕えて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろうと北野天満宮上空に差し掛かる。その時、綱は太刀「髭切」を抜き放ち、鬼の腕を切り落として難を逃れる。」
後日、綱はこれも天満宮の大神(菅原道真公)の御神威によるものと神恩に感謝し、この石燈籠を寄進したという。
尚、この逸話より太刀「髭切」は、「鬼切丸」と称されるようになった。
「北野天満宮と宝刀」(北野天満宮)
(授与所で妹に「病気平癒守」をお土産にしました) 昭憲皇太后御献進 紅梅 世継の梅
御幼少の頃より當宮の崇敬篤く慶応三年
御入内御治定に付き同年九月御参詣の上
戸御邸内の梅樹を御献進遊ばされ然る処
先年樹齢尽きたる為京都御所より拝受致し
世継の梅として永く世に伝える
「世継の梅」の傍らにあるのが(授与所で妹に「病気平癒守」をお土産にしました) 昭憲皇太后御献進 紅梅 世継の梅
御幼少の頃より當宮の崇敬篤く慶応三年
御入内御治定に付き同年九月御参詣の上
戸御邸内の梅樹を御献進遊ばされ然る処
先年樹齢尽きたる為京都御所より拝受致し
世継の梅として永く世に伝える
かくれキリシタンの痕跡
…前略…
北野天満宮境内の三光門右手に、現在、「織部灯籠」「マリア灯籠」とよばれるキリシタン灯籠がある。
キリシタン灯籠とは、茶人や文人に愛好された石灯籠の一種で、マリア像などキリスト教にちなむ図像を刻んでいる点に特徴があり、古田織部が考案したとも伝えられることから織部灯籠とも呼ばれている。
キリシタン灯籠を、キリスト教信仰と結びつけて捉えることに否定的な見解がある一方、庭の点景物としての織部灯籠と仮託礼拝物としてのキリシタン灯籠との二種があったとする研究もあり、その評価は難しい。
ただし、著名な川端康成の小説『古都』の冒頭「春の花」の章には、「北野の天神さん」の切支丹灯籠についてふれている箇所があり、興味深い。
なぜなら川端康成もまた、キリシタン遺物にゆかりのある人物であるからである。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年) 川端康成は、大阪市北区で生まれ、豊川村(現在の大阪府茨木市)で育ち、1912年(明治45)に茨木中学校に進学している。
茨木市には、隠れキリシタンの地として知られる千提寺・下音羽地区がある。
この地区において、1920年(大正9)、著名な聖フランシスコ・ザビエル像(神戸市立博物館所蔵)やマリア十五玄図(京都大学総合博物館所蔵)などのキリシタン遺物を発見した藤波大超もまた、茨木中学校出身であった。
高木博志氏の研究によれば、川端より1年早く茨木中学校に進学していた藤波は、地歴科の教師・天坊幸彦の影響を受け、茨木山間部のキリシタン遺物を探索したという。
そして川端康成もまた、茨木中学校時代に、天坊の教えを受けていた。 ふたたび小説『古都』「春の花」の世界に目を転じれば、「北野の天神さん」のみならず、主人公千重子の、室町の呉服問屋の家に庭にも、キリストの立像を刻んだ切支丹灯籠がたたずむ設定となっている。
川端康成がこの小説を書く際に取材をした、秦家(油小路仏光寺下ル、本書第一章参照)には、実際に今も奥庭に切支丹灯籠がある。
『古都』には、茨木で中学校時代を過ごした川端ならではの京都へのまなざしが、息づいている。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)
発病する前、何度か訪れたのが
「キリシタン遺物史料館」(茨木市)末 社 猿田彦社(さるたひこしゃ)
祭 神 猿田彦神(さるたひこのかみ)
神 徳 交通安全
(相殿)大宮売神(おおみやのめのかみ)
神 徳 芸能・舞踊上達
猿田彦神は、日本の国をよく治めるようにという天照大神の命令を受けた瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が、高天原(たかまがはら<天上にある神々の世界>)より地上に降り立たれる際、先頭に立って道案内した神であり、この神話をもって交通安全の神として崇(あが)められてきた。
身の丈(たけ)二メートルをこえる巨体と長い鼻を持ったこの神は、昔から「天狗さま」として親しまれている。
大宮売神は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の別名、弟神、素盞嗚命の乱暴なふるまいに嘆き悲しまれ、天岩屋戸にお隠れになった天照大神を、軽妙な踊りでなぐさめた女神であり、芸能上達の守護神として崇敬される。
愛嬌のある顔立ちをされた神で、わが国に伝わる「おかめ」というユーモラスな女性の顔は、この女神をモデルにしたものである。
(かなり文字がかすれていました。「大宮売神」はHPには、「大宮能売神」)第壱章 陸の生き物
「撫で牛」で知られる天神の使い ウシ
なぜウシは菅原道真公の使いに?
古来、日本人にとってウシは重要な家畜だった。
古代には中国の影響で、豊作や降雨を祈るために生贄として神前に捧げられた。
その後、仏教の影響で殺生を忌(い)むようになると、主に農耕や荷物の運搬を担う役牛となった。
(『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監) 二見書房 2018年) ウシが菅原道真(すがわらのみちざね)公を祀る神社の使いとなったのは、道真公の生没年が丑年であったことにちなむという。
また延喜3年に太宰府で没した道真公の「我が遺骸は牛の赴く所にとどめよ」という遺言に従って牛車で遺骸を運んだところ、突然牛が座り込んで動かなくなったので、付近の安楽寺に埋葬した。
この故事にちなみ、ウシが道真公の使いとなったともいわれる。
(『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監) 二見書房 2018年)
「北野天満宮と牛」(北野天満宮)
摂 社 白太夫社(しらだゆうしゃ)
祭 神 度会春彦(わたらいはるひこ)翁
神 徳 子授けの神
例祭日 1月9日
文章(もんじょう)博士菅原是善(すがわらのこれよし)卿は、世継ぎの誕生を伊勢神宮の青年神官度会春彦に託して豊受大神宮(外宮)に祈願された。
そしてお生まれになったのが、道真公である。
それ以来、数十年にわたって守役として、菅公に仕え、忠誠を尽くした翁は若い頃より髪が白く人々より白太夫と呼ばれた。
各地の天満宮に白太夫と称えて、必ず翁を祭るのはこのようないわれによる。ウシが目立つ天神さんにハト(キジバト?)がおられた(^_^)v
ハトと言えば八幡宮ですが…
世界中で愛される平和のシンボル
ハト
縁起のよい鳥
『旧約聖書』によると、世界が大洪水に見舞われたとき、箱舟から飛び立ったハトがオリーブの葉をくわえて帰ってきたことで、ノアは洪水が引いて世界に平和が訪れたことを知ったという。
このエピソードから、ハトは平和のシンボルとして世界中で崇められるようになったと伝わる。
ブッダの前世の物語『ジャータカ』でも、ハトは貪欲なカラスのことを思いやり、忠告をする心優しい動物として描かれる。
また、仏典『菩薩本生鬘論(ぼさつほんしょうまんろん)』ではシビ王がタカに自らの肉体を差し出してハトの命を救った話を通して生命の重さはどんな生物も平等であると説く。
日本も世界同様に白いハトが吉兆の鳥として崇められ(『延喜式(えんぎしき)』、寺社の放生会の際にカメなどの生き物とともに野に放たれた。
現在も吉田寺(きちでんじ<奈良>)では毎年9月に「鳩逃がし法要」が営まれる。
(『お寺のどうぶつ図鑑』今井浄圓(監) 二見書房 2020年) 大杉社(おおすぎしゃ)
当宮随一のご神木である。
室町時代に作成された『社頭古絵図(しゃとうこえず)』には、すでに樹齢数百年らしき二又の杉の巨木が描かれており、これにより推定しても一千年以上の時を経たものと思われる。
神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代の室町期には、「聖歓喜天(じょうかんぎてん)」の宿る諸願成就の神木として一層の信仰を集めた。 のち落雷によって惜しくも二又の幹はくじけ、根幹を残すのみとなったが、その威容は多くの崇敬者によって守り継がれ、いささかも衰えることはない。 伴氏社(ともうじしゃ)石鳥居 (重美)
北野天満宮の南正門より本殿にいたる参道の西側(左手)にかれんな石鳥居がみえる。
しかし毎月25日の縁日には、参道の両側に多くの屋台店が並ぶので、この鳥居に気付く人はほとんどなかろう。
もっとも高さがわずか2.7メートルしかないのでむりもない。
この鳥居は小型ながらも、種々の点において注意を引くものがある。
まず柱が太く、上の島木と笠木がゆるやかな反りを示し、両端がわずかに斜めに切っていることだ。
また額束が島木のあいだに割り込んでいるのも珍しい。
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年) 室町時代の代表的な石鳥居であるが、柱の下の蓮座が鎌倉時代の鎌倉時代の単弁反花座を刻みだしていることから、鎌倉時代作とみられたこともあった。
厳島(いつくしま)・木島(このしま)両社の鳥居とともに京都三珍鳥居の一つに数えられている。
なお、背後の社殿は菅公(菅原道眞)の母伴氏を祀った末社の一つで、以前は『拾遺都名所図会』(下図:省略)にみるように社殿の代りに忌明塔とよばれる巨大な五輪石塔が立っていた。
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年)
「都名所図会 北野天満宮(北野天神)」(国際日本文化研究センター)
(右下に「忌明塔」と書かれています) 北の「野」に祀られた菅原道真
廃仏毀釈の嵐
…前略…
ただ、境内であるが総門外、二の鳥居近くの観音寺(かんのんじ)は破壊を免れ、現存する。
神社創立に重要な役割を果たした最珍(さいちん)の建立といい、本堂が東面しているので東向(ひがしむき)観音寺と通称される。
ここに大きな五輪塔(ごりんとう)があるが、これももとは天満宮の境内にあり、現在、道真の母伴氏を祀る伴氏社のある場所に置かれていた。
それが仏教的な塔ということで明治時代になって移転させられたのであり、ここにも廃仏毀釈の姿を垣間見ることができる。
北野天満宮には膨大な経典も所蔵されていたが、それらはすべて近くの大報恩寺(だいほうおんじ)に移された。
この経典は応永19年(1412)の書写で、「北野経王堂一切経(きたのきょうおうどういっさいきょう)」として重要文化財になっている。
(『歴史でめぐる洛中洛外(上)上京・下京を中心に』井上満郞 淡光社 2017年) 42 東向観音寺五輪塔
…前略…
五輪石塔は本堂の南側、植込みの中にある。
周囲を石でかこんだ小高いところにあるため、その大きさに圧倒される。
高さ約4.5メートル、花崗岩製。
荒叩(あらたた)きの仕上げで、ととのった美しさはないが、空輪(宝珠)・風輪(請花)が火輪(笠石)に比してきわめて大きくみえ、さらに水輪(塔身)がやや細長の円形になっているものの鎌倉時代の作風をよくあらわしている。
もとは伴氏社のところにあって、前述の石鳥居と一対になっていたが、明治維新の神仏分離により、石塔だけが観音寺へ移された。
移転のとき、塔中から金銅仏が発見されたが、またもとのように納めなおしたといわれる。
この塔は古来、菅公母伴氏の墓または明徳(めいとく)の乱で戦死した山名氏清(うじきよ)の塔ともいわれるが明らかにしない。
一説に忌明塔(いみあけのとう)ともいわれるのは、室町時代には父母を亡くした人が、四十九日の喪に服し、忌明けの五十日目にこの塔に詣る風習があったからである。
このような風習の五輪塔としては、東山知恩院、寺町革堂(こうどう)、石清水八幡宮にもある。
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年) 西陣(上京)
…前略…
五輪石塔のそば、わずかばかり土盛りの跡の見える所に、小さな五輪石塔が四基と、石灯籠の火袋に笠を載せたような石造物が見える。
これが北野蜘蛛塚(くもづか)である。
源頼光の土蜘蛛退治は、源家重代の宝剣「蜘蛛切(くもきり)」の由来として『源平盛衰記』の中に語られている。
病床の頼光を悩ます妖怪があって、頼光が「膝丸(ひざまる)」という名刀で切った。
夜が明けてから、四天王の面々が血のあとをたどっていくと、「北野のうしろに大いなる塚あり」、その塚を掘り崩すと四尺ばかりの大蜘蛛が出てきたので、これを退治した。
以来「膝丸」は「蜘蛛切」と呼ばれるようになったというのである。
塚はもともと、寺の東南400メートルほどの所にあって、明治31年に家を建てるために壊した。
その時に石塔や石灯籠の破片などを、ここに移したものである。
…後略…
(『日本の伝説 1 京都の伝説』駒敏郎、中川正文 角川書店 昭和51年)
近づくことができなかったので
「平安京 天門・北野天満宮と土蜘蛛伝説」(「北野天満宮社報 春号 Vol.31」 20~21/40)を参照してください。 影向松(ようごうのまつ)
初雪の日御祭神この松に影向(降臨)ありて歌を詠み給うと古くより伝えられ
毎年、三冬(初冬から節分)の初雪の日、大前にて初雪祭を斎行する
この松は明治期まで宇多天皇と御祭神との御神縁により
仁和寺の御寄進によって代々植え替えられてきたと伝わる
「天神さまの七不思議」(北野天満宮)
摂 社 白太夫社(しらだゆうしゃ)
祭 神 度会春彦(わたらいはるひこ)翁
神 徳 子授けの神
例祭日 1月9日
文章(もんじょう)博士菅原是善(すがわらのこれよし)卿は、世継ぎの誕生を伊勢神宮の青年神官度会春彦に託して豊受大神宮(外宮)に祈願された。
そしてお生まれになったのが、道真公である。
それ以来、数十年にわたって守役として、菅公に仕え、忠誠を尽くした翁は若い頃より髪が白く人々より白太夫と呼ばれた。
各地の天満宮に白太夫と称えて、必ず翁を祭るのはこのようないわれによる。ウシが目立つ天神さんにハト(キジバト?)がおられた(^_^)v
ハトと言えば八幡宮ですが…
世界中で愛される平和のシンボル
ハト
縁起のよい鳥
『旧約聖書』によると、世界が大洪水に見舞われたとき、箱舟から飛び立ったハトがオリーブの葉をくわえて帰ってきたことで、ノアは洪水が引いて世界に平和が訪れたことを知ったという。
このエピソードから、ハトは平和のシンボルとして世界中で崇められるようになったと伝わる。
ブッダの前世の物語『ジャータカ』でも、ハトは貪欲なカラスのことを思いやり、忠告をする心優しい動物として描かれる。
また、仏典『菩薩本生鬘論(ぼさつほんしょうまんろん)』ではシビ王がタカに自らの肉体を差し出してハトの命を救った話を通して生命の重さはどんな生物も平等であると説く。
日本も世界同様に白いハトが吉兆の鳥として崇められ(『延喜式(えんぎしき)』、寺社の放生会の際にカメなどの生き物とともに野に放たれた。
現在も吉田寺(きちでんじ<奈良>)では毎年9月に「鳩逃がし法要」が営まれる。
(『お寺のどうぶつ図鑑』今井浄圓(監) 二見書房 2020年) 大杉社(おおすぎしゃ)
当宮随一のご神木である。
室町時代に作成された『社頭古絵図(しゃとうこえず)』には、すでに樹齢数百年らしき二又の杉の巨木が描かれており、これにより推定しても一千年以上の時を経たものと思われる。
神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代の室町期には、「聖歓喜天(じょうかんぎてん)」の宿る諸願成就の神木として一層の信仰を集めた。 のち落雷によって惜しくも二又の幹はくじけ、根幹を残すのみとなったが、その威容は多くの崇敬者によって守り継がれ、いささかも衰えることはない。 伴氏社(ともうじしゃ)石鳥居 (重美)
北野天満宮の南正門より本殿にいたる参道の西側(左手)にかれんな石鳥居がみえる。
しかし毎月25日の縁日には、参道の両側に多くの屋台店が並ぶので、この鳥居に気付く人はほとんどなかろう。
もっとも高さがわずか2.7メートルしかないのでむりもない。
この鳥居は小型ながらも、種々の点において注意を引くものがある。
まず柱が太く、上の島木と笠木がゆるやかな反りを示し、両端がわずかに斜めに切っていることだ。
また額束が島木のあいだに割り込んでいるのも珍しい。
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年) 室町時代の代表的な石鳥居であるが、柱の下の蓮座が鎌倉時代の鎌倉時代の単弁反花座を刻みだしていることから、鎌倉時代作とみられたこともあった。
厳島(いつくしま)・木島(このしま)両社の鳥居とともに京都三珍鳥居の一つに数えられている。
なお、背後の社殿は菅公(菅原道眞)の母伴氏を祀った末社の一つで、以前は『拾遺都名所図会』(下図:省略)にみるように社殿の代りに忌明塔とよばれる巨大な五輪石塔が立っていた。
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年)
「都名所図会 北野天満宮(北野天神)」(国際日本文化研究センター)
(右下に「忌明塔」と書かれています) 北の「野」に祀られた菅原道真
廃仏毀釈の嵐
…前略…
ただ、境内であるが総門外、二の鳥居近くの観音寺(かんのんじ)は破壊を免れ、現存する。
神社創立に重要な役割を果たした最珍(さいちん)の建立といい、本堂が東面しているので東向(ひがしむき)観音寺と通称される。
ここに大きな五輪塔(ごりんとう)があるが、これももとは天満宮の境内にあり、現在、道真の母伴氏を祀る伴氏社のある場所に置かれていた。
それが仏教的な塔ということで明治時代になって移転させられたのであり、ここにも廃仏毀釈の姿を垣間見ることができる。
北野天満宮には膨大な経典も所蔵されていたが、それらはすべて近くの大報恩寺(だいほうおんじ)に移された。
この経典は応永19年(1412)の書写で、「北野経王堂一切経(きたのきょうおうどういっさいきょう)」として重要文化財になっている。
(『歴史でめぐる洛中洛外(上)上京・下京を中心に』井上満郞 淡光社 2017年) 42 東向観音寺五輪塔
…前略…
五輪石塔は本堂の南側、植込みの中にある。
周囲を石でかこんだ小高いところにあるため、その大きさに圧倒される。
高さ約4.5メートル、花崗岩製。
荒叩(あらたた)きの仕上げで、ととのった美しさはないが、空輪(宝珠)・風輪(請花)が火輪(笠石)に比してきわめて大きくみえ、さらに水輪(塔身)がやや細長の円形になっているものの鎌倉時代の作風をよくあらわしている。
もとは伴氏社のところにあって、前述の石鳥居と一対になっていたが、明治維新の神仏分離により、石塔だけが観音寺へ移された。
移転のとき、塔中から金銅仏が発見されたが、またもとのように納めなおしたといわれる。
この塔は古来、菅公母伴氏の墓または明徳(めいとく)の乱で戦死した山名氏清(うじきよ)の塔ともいわれるが明らかにしない。
一説に忌明塔(いみあけのとう)ともいわれるのは、室町時代には父母を亡くした人が、四十九日の喪に服し、忌明けの五十日目にこの塔に詣る風習があったからである。
このような風習の五輪塔としては、東山知恩院、寺町革堂(こうどう)、石清水八幡宮にもある。
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年) 西陣(上京)
…前略…
五輪石塔のそば、わずかばかり土盛りの跡の見える所に、小さな五輪石塔が四基と、石灯籠の火袋に笠を載せたような石造物が見える。
これが北野蜘蛛塚(くもづか)である。
源頼光の土蜘蛛退治は、源家重代の宝剣「蜘蛛切(くもきり)」の由来として『源平盛衰記』の中に語られている。
病床の頼光を悩ます妖怪があって、頼光が「膝丸(ひざまる)」という名刀で切った。
夜が明けてから、四天王の面々が血のあとをたどっていくと、「北野のうしろに大いなる塚あり」、その塚を掘り崩すと四尺ばかりの大蜘蛛が出てきたので、これを退治した。
以来「膝丸」は「蜘蛛切」と呼ばれるようになったというのである。
塚はもともと、寺の東南400メートルほどの所にあって、明治31年に家を建てるために壊した。
その時に石塔や石灯籠の破片などを、ここに移したものである。
…後略…
(『日本の伝説 1 京都の伝説』駒敏郎、中川正文 角川書店 昭和51年)
近づくことができなかったので
「平安京 天門・北野天満宮と土蜘蛛伝説」(「北野天満宮社報 春号 Vol.31」 20~21/40)を参照してください。 影向松(ようごうのまつ)
初雪の日御祭神この松に影向(降臨)ありて歌を詠み給うと古くより伝えられ
毎年、三冬(初冬から節分)の初雪の日、大前にて初雪祭を斎行する
この松は明治期まで宇多天皇と御祭神との御神縁により
仁和寺の御寄進によって代々植え替えられてきたと伝わる
「天神さまの七不思議」(北野天満宮)
…つづく…
…◆…◆…◆…◆…
(6月15日のこと)
宮内庁のInstagramに
天皇皇后両陛下とオランダ国王王妃両陛下とサッカーを共に観戦したことが報告されていました。
(一緒に写っているオランダ国王王妃の愛犬「マンボ」が可愛いですね)
「天皇皇后両陛下 オランダ国王夫妻とサッカーW杯をテレビ観戦」(NHK 6月15日)
昭和天皇がオランダを訪問したときに反日デモがありました。
それでも上皇・上皇后さまが訪問し、
今回は、今上天皇ご夫妻がオランダ国王ご夫妻と一緒にサッカーを観戦されたとのこと。
何故、オランダで反日デモが起きたのか、
…◆…◆…◆…◆…
(6月15日のこと)
宮内庁のInstagramに
天皇皇后両陛下とオランダ国王王妃両陛下とサッカーを共に観戦したことが報告されていました。
(一緒に写っているオランダ国王王妃の愛犬「マンボ」が可愛いですね)
「天皇皇后両陛下 オランダ国王夫妻とサッカーW杯をテレビ観戦」(NHK 6月15日)
昭和天皇がオランダを訪問したときに反日デモがありました。
それでも上皇・上皇后さまが訪問し、
今回は、今上天皇ご夫妻がオランダ国王ご夫妻と一緒にサッカーを観戦されたとのこと。
何故、オランダで反日デモが起きたのか、
如何にしてオランダの王室と日本の皇室が結びつきを深めたのか
歴史を学ばない人には理解できないと思います。
戦時中に生れていないでの自分には責任がないというような方では
世界の国々と真の友好関係を結べないでしょう。
「皇室とオランダ・ベルギー王室の深い絆」(NHK 6月12日)
歴史を学ばない人には理解できないと思います。
戦時中に生れていないでの自分には責任がないというような方では
世界の国々と真の友好関係を結べないでしょう。
「皇室とオランダ・ベルギー王室の深い絆」(NHK 6月12日)
平成3年、ベアトリックス女王が挨拶の中で
「しかし両国の新しい世代の人々はこうした過去に関する知識を身につけたうえで、将来に目を向けなければなりません」
正式名称は「ネーデルラント王国(オランダ語:Koninkrijk der Nederlanden)」
駐日大使館

























Kazeさん
返信削除こんにちは
今年の6月は朝晩涼しくて
助かりますね
道真公は丑年に亡くなられたのですね
丑年牡牛座の私は
天神さんの牛といつも
記念写真を撮ります
オランダと400年あまりの歴史がある日本
ネーデルランドではなく
オランダ呼びは政府公認だとか
becoさんコメントありがとうございます(^^)/
削除梅雨入りしてからも朝夕涼しいのでホッとしています(^_^)v
>丑年牡牛座の私は天神さんの牛といつも記念写真を撮ります
丑年牡牛座と二重にウシがついてきてくれているのですね!
次に北野天満宮へお参りするときは
ウシ巡りをしたいなぁと思っています。
今回、会えなかったのですが親子のウシもおられるようです。
各国にネーデルランド(ネーデルラント)と呼ぶように求めているようですが
日本とは長い歴史があり、公認されているようですね。