2026年6月5日金曜日

梅雨寒かな?

朝、洗濯物を干していると風が冷たくて寒さを感じるほどでした。
昨日、梅雨入りしたので梅雨寒かなと思ったけど
公園を歩いていると蒸し暑くなりました。
去年は、梅雨入りしたと思ったら雨がほとんど降らなかったように記憶しているのですが
今年は、どうなるのかな?

2025年(令和7年)の梅雨入りと梅雨明け(確定値)」(気象庁 2025年9月1日)
風、薫る(49)第10週「疾風に勁草(けいそう)を」
服毒自殺をはかり運ばれてきた二人。
男は担架で運ばれ、女は布団にくるまれていました。
男の救命処置に懸命の医師たち
一方、「女郎は後だ!」と……。
この場面をみていて太宰治と山崎富栄の遺体が発見されたときのことを思い出しました。
 編者あとがき

 昭和23年6月14日未明、男と女の二つの影が、連日の雨で奔流する玉川上水の闇に消えた――。
 その日から数えてちょうど30年、はなやかな名声の陰にあって、芸術の犠牲というか、太宰治のたぐい稀なる文学完成のために尽くした女性の吐息が、つねにひっそりと息づいているのを感じないではいられません。
 山崎富栄さんは、太宰治にとって文字どおり最後の女性でした。
(『太宰治との愛と死のノート』山崎富栄著、長篠康一郎編 学陽書房 1995年)
 太宰治の代表作として知られる『斜陽』『人間失格』は、彼が自殺する一年三カ月前、すなわち昭和22年春から、翌23年初夏にかけて書き上げた作品で、太宰治と死を共にした山崎富栄さんとの交際は、ちょうど、この『斜陽』執筆のはじめから、『人間失格』までの期間に当たっています。
ことに、遺作となった『人間失格』は、太宰治の絶筆『如是我聞』と表裏一体、同時進行のかたちで書き進めた作品ですが、これらの作品の中で、文壇、学界の長老たちの偽善を徹底的に攻撃したため、それまでつきあいのあった先輩や友人のほとんどが、太宰治を敬遠し、離れていったのです。
 山崎富栄さんは、そんな孤独な晩年の太宰治にとって、最も完全な母であり、姉であり、妹であり、侍女であり、看護婦でした。
 …中略…

事実、二人の遺体が発見された際、太宰治の遺体は2時間余りの後、立派な棺に移され、関係者の手で〝千草〟に運ばれていきました。
しかし富栄さんは「正午すぎまでムシロをかぶせたまま堤の上におかれ、実父山崎晴弘氏(70)が変りはてたわが子の前にたった一人、忘れられた人のように立っていた」と、6月19日の毎日新聞に報じられたような扱いを受けたのです。
さらに彼女は、さながら太宰治を死に導いた悪女のように言われ、はては「太宰治は山崎富栄に殺されたのだ」という非常識な意見までまことしなやかに述べられるようになってしまいました。
 しかし、山崎富栄さんがそのような女性でなかったことは、彼女の遺したノートを一読すれば、はっきりするでしょう。

 …後略…

(『太宰治との愛と死のノート』山崎富栄著、長篠康一郎編 学陽書房 1995年)

山崎富栄さんについてオススメの本が
恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(松本侑子 光文社文庫 2012年)
風、薫る(50)第10週「疾風に勁草(けいそう)を」
島田健次郎が読んでいた新聞に「●廢娼運動の敵とは

最後に清水卯三郎が見せた新聞にも同じ記事が書かれていました。
女郎の自由廃業を進めている廃娼運動家の記事です。
もし 彼らに協力を仰いで廃業させられたらその女郎にも 
社会にもリターンがあるはずです。


梅岡女学校の校長梶原敏子のモデルが矢嶋楫子なら廃娼運動に取り組んでいます。

女子学院の沿革

われ弱ければ』(三浦綾子 小学館文庫 1998年)
前回の日記に『式子内親王』の解説(俵万智)を転記しました。
馬場あき子さんが百人一首の式子内親王の歌を解説されていますので転記しますφ(.. )

 八十九 
 玉のをよたえなばたえねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
                     式子内親王(しょくしないしんのう)

歌のこころ】秘めて思う苦悩に細る玉の緒のいのち。いっそ、この悩ましい玉の緒が絶えるなら絶えてしまえ。もうこれ以上、この胸に秘めつづけて生きることなどできはしない。

語注
「玉のを」……玉を貫いた紐(緒)。「魂(たま)の緒」にも通じるため「人の命」をさす。
「たえなばたえね」……絶えるのならば絶えてしまえ。「ね」は完了の助動詞「ぬ」の命令形。
「弱りぞする」……弱ってしまうかもしれない。「もぞ」は不安を表す。
(『馬場あき子の「百人一首」』NHK出版 2016年)
 この歌は『新古今和歌集』の「恋歌一」に「百首哥の中に、忍恋(しのぶるこい)を」と詞書して採録されており、『式子内親王集』にもある。
女性で恋の名歌を多く残している小野小町や和泉式部の歌とくらべてみると、式子内親王の恋の歌は、「忍恋」であることが特色をなしている。
 それは一つには源平騒乱期の少し世離れた前斎院という環境のせいもあろうが、その恋の歌は抑制心の強さの反面に、潜熱的な情念の激しさが秘められているところに特色がある。
後鳥羽院は式子内親王の作風を評して、「斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき」と述べている。
言葉を練り直し練り直し、推敲を重ねて詠むという風体に、自ずと式子内親王そうの人の人柄まで浮ぶようである。
 式子内親王は後白河院の皇女で、平治元年(1159)賀茂の斎院に卜定(ぼくじょう)されてから嘉応元年(1169)病を理由に退下するまでほぼ十年の間を斎院として過ごされた。
 退下の後は三条萱御所(かやごしょ)に住まれたので萱斎院と呼ばれた。
定家の日録『明月記』にはこの御所の雰囲気を「薫物馨香芬馥(たきもののきょうこうふんぷくたり)」としており、印象的な優雅な感銘深さが伝わるものだ。
式子内親王には以仁王(もちひとおう)や守覚法親王(しゅかくほっしんのう)という兄君もあり、姉には後鳥羽院の准母にもなられた殷富門院亮子(いんぷもんいんりょうし)内親王などがある。
殊に以仁王は源頼政とともに反平氏の軍を起こして亡くなるなど、式子内親王の青春は時代の変わり目のきびしい情況の傍らにあったといえる。

 「忍恋」の歌は、上句にほとばしるような力で思い切った表現を取っている。
いきなり「命が絶えるならそれでもいい」といっているのだ。
生きていて、恋を忍ぶ力が弱って人に知られるようなことになるなら、死んでもよい、と考える「恋」、それはつまり人に知られることで穢れてしまう純粋な美しさへの哀惜である。
  
 恋の最も純一な美しさは秘め忍ぶ恋にあると考えられた。
自分一人の心の内に、創出され、培われてゆく理想と言いかえてもよい恋である。
豊であるがさびしい。
永遠に叶わなぬものを求める人間の「あわれ」でもある。
この歌につづけて同じく『新古今和歌集』に収録されている式子内親王の二首をあげておこう。

 忘れてはうちなげかるる夕べかなわれのみ知りて過ぐる月日を

 わが恋は知る人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕

(『馬場あき子の「百人一首」』NHK出版 2016年)

定家(ていか)」(the能.com)

八十九 式子(しょくし)内親王

 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば
 忍ぶることのよはりもぞする
 

 式子内親王と西行法師の作風が似ているといったら語弊があるが、内面的な苦悩を、独自の形で謳(うた)ったところに、何か共通のものが感じられる。
似ているのはその点だけで、自然の中に生きた西行が、次第に心を開いて行くのに反して、内親王の想(おも)いは、深い孤独の暗(やみ)に沈殿(ちんでん)し、そこに生活の原理と、和歌の発想を見出(みいだ)している。
単に男と女の違いだけではあるまい。
賀茂(かも)の斎院という特殊な地位に加えて、持って生まれた資質が、内親王を独白の暗室に閉じこめ、忍従の生活の中から、身をよじるような絶唱が生れた。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年)
 後鳥羽院は、「ちかき世」の歌よみの中に、この内親王をあげ、「斎院はことにもみもみとあるようによまれき」といわれている。
初句から結句まで緊張した調べで貫いているのは、たしかに「もみもみ」とした姿であり、「忍恋(しのぶこい)」の真髄を表現しているといえよう。
こういう歌を前にして、私は説明の言葉もない。
ただくり返しよむことを願いたいだけである。
 式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、平治(へいじ)元年(1159)斎院に卜定(ぼくじょう)され、賀茂の社に十年ほど奉仕し、退下された後は独身のままで終った。
  見しことも見ぬ行末もかりそめの
  枕(まくら)に浮ぶまぼろしの中  (百首歌)

  暁のゆふつげ鳥ぞあはれなる
  ながきねぶりをおもふ枕に   (新古今集)

  いまはわれ松のはしらの杉の庵(いほ)
  とづべきものを苔(こけ)深き袖(そで)  (新古今集)

「新古今集」の「忍恋」の歌も、百首歌のうちの一つであるが、題詠を詠(よ)んでも、内親王の歌は、深い反省から生れた自己告白の様相を呈しており、「見しことも見ぬ行末も」、私達にとっては永遠の謎(なぞ)でありながら、しかもその生活が身近なものに感じられる。
観念の歌が、実に現実的にひびくという不思議な才能の持主である。
 そして私達は、又しても斎院という特殊な立場に想いを及ぼすことになるが、同じように神聖な女性でも、かの道雅(みちまさ)の恋人のように、無邪気な方もいられたことだし、一概にそういってわり切れるものではあるまい。
 内親王の兄宮は、源三位頼政(げんざんみよりまさ)とともに、平家討伐のために挙兵した以仁王(もちひとおう)で、平等院から落ちる途中、むざんな最期(さいご)をとげられた。
のみならず、謀反人(むほんにん)の汚名を着せられたことも、多くの「見しこと」のなかに入っていたに違いない。
が、そんなことは、いくら言いたててみたところで、内親王の暗室が明るくなるわけではない。
「明月記(めいげつき)」には、定家がしばしば前斎宮(さきのさいぐう)の御所を訪れたことが見えており、病がちの内親王に心を用い、添削なども行なっていたようである。
そこから定家と内親王の仲が噂(うわさ)されるようになった。
ある日俊成(としなり)が、定家の邸(やしき)へ行った時、内親王自筆の「玉の緒よ」の歌があるのを見て、定家が心をつくすのは当然だと思い、諫(いさ)めなかったという話まで伝えられるようになった。
が、それは百人一首が有名になった後のことで、「玉の緒よ」の歌を知る人は、誰でも内親王の忍恋(しのぶこい)の相手を探したくなったであろう。
定家はその恰好(かっこう)の相手であったというだけで、二人の仲を証拠だてるものは、何一つ遺(のこ)ってはいない。
 それにも拘(かか)わらず、伝説は伝説を生み、定家の執心は、「定家葛(かずら)」となって、死後までもまつわりつき、内親王を苦しめるという話に発展した。
世阿弥(ぜあみ)はその伝説を題材に「定家」の能を書いたという。
実は世阿弥の作かどうかも疑わしいが、晩年に佐渡へ流された時、「定家」の能を作り、あまり美しく出来たので赦免され、帰郷することを得たといわれている。
 いずこを見ても伝説ならざるはないが、「定家」の能が幽玄の極致を表現していることは事実である。
定家の和歌に対する執心も、内親王の「もみもみと」した歌の調べも、「定家葛」の這(は)いまつわる姿に象徴され、内面的な幽玄美を余すところなく語っている。
嵯峨(さが)の山荘を訪ねた帰り道に、私は式子内親王のお墓にお参りした。
千本今出川(せんぼんいまでがわ)から少し東へ入った「般舟院(はんしゅういん)」の一隅にあり、塚の上に小さな五輪の塔が建っているだけの、つつましい墓であった。
その塚の、うっそうと繁(しげ)った木立の根元に、鎌倉時代の美しい厚彫り石仏があるのを見て、私は不思議な感動におそわれた。
「まことの姿はかげろふの、石に残す形だに……」という「定家」の能の一節が、ふと浮んだからである。
 それは内親王の亡霊が、塚の作り物の前に立ち、石にのめりこむような感じに、恋の苦悩を物語る場面である。
その瞬間、昔見たお能の名人達の、身心ともに石仏に成り切った姿が目前に現れ、私は慄然(りつぜん)となった。
世阿弥はたしかに、この石仏を見ていたに違いない。
その記憶をもとに、遠い佐渡ヶ島の寓居(ぐうきょ)で、都をしのびつつ「定家」を作曲したのではないか。
たとえそれが全部嘘(うそ)だったにしても、私が見た内親王の亡霊は、偽りのない「まことの姿」であった。
石に刻まれ、蔦葛(つたかずら)にさいなまれる、正真正銘の形であった。
そして、そのまま塚の中に吸いこまれるように消えた後の、沈黙(しじま)の重さも忘れることは出来ない。
「定家」の能に、定家が姿を現さず、憔悴(しょうすい)しきった内親王の、悲恋と懊悩(おうのう)に始終していることも、百人一首の歌の心を、如実(にょじつ)にとらえていると思う。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年)

2025年5月24日に千本通を歩いたときに式子内親王の塚に気づきませんでした。
いつか、訪ねたいです!
能楽『定家』が描く愛欲地獄〟(nippon.com)
今朝の父の一枚です(^^)/
巣立ったツバメの子どもが一休みしていました。

 6月
 野鳥の子育て

 小鳥を飼ったことのある人なら、親鳥がひなにせっせとえさを運ぶ姿を見て、感動した経験があるでしょう。
 初夏の山道を歩いていても、このような姿を見ることができます。
野鳥たちの巣づくり、子育ての季節だからです。
 山は新緑にもえ、木々が発散する精気がみなぎっています。
やわらかな若葉を食べる昆虫の幼虫がたくさんいます。
青虫とかいも虫とか呼ばれている虫のことです。
主にチョウやガの幼虫ですが、コガネムシやハチの幼虫もいます。
 ちょっと簡単な実験をしてみましょう。
常緑樹の古い葉と新しい葉を取ってきて、くらべてみます。
表面はどうでしょう、しなやかさは? 二枚の葉を二つに折ってみます。
古い葉はすぐに裂け目がはいり割れてしまいます。
新しい葉は、しなやかにたわむだけです。
幼虫にとって、どちらが食べやすいかはすぐにわかります。
新鮮なやわらかい葉がよいにきまっています。
 この季節、林には昆虫の幼虫が多いのも、これでなっとくできました。

 …つづく…

(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)