2024年3月8日金曜日

いったりきたり

 

曇り空だと風が冷たくて冬のような寒さ
日差しがあたると春のような暖かさ
歩いている間に冬と春の間をいったりきたりしていました。
数日前は、アンズの花が開いているのは、ほんの一つ二つだったのに
一気にはじけるように咲き出していました。

朝ドラ「ブギウギ」第23週「マミーのマミーや」 (108)でスズ子と羽鳥の会話

羽鳥:全く 僕は あと1年ぐらいこっちにいたい気分だよ。
そうじゃないかね?


スズ子:どうでっしゃろ…。
アメリカにはおいしいライスカレーもないし おいしい中華そばもないし…
何より 愛子がおらんのが寂しすぎますわ。


とスズ子が答えるのですが
スズ子のセリフの中でライスカレーにつづいて中華そばが出てくるのですが
敗戦後の日本で最初に食べることが出来たのは中華そばのほうでした。
アメリカから小麦が運ばれてきたからです。
広島風のお好み焼きもこの時に作られるようになったそうです。

広島のお好み焼き 暮らしを支える故郷の味」(みちしる NHKアーカイブス 2014年)
敗戦前後(1944年~1947年)の日本の食糧事情について
国民を怒らせた大蔵大臣の失言(本音)が

 第2章 困難な道 ― 闇市のラーメンとアメリカの占領 

 所得に応じて、
所得の少ない人は麦を多く食う、
所得の多い人は米を食うというような、
経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい。
1950年12月7日 大蔵大臣池田勇人 
(『ラーメンの語られざる歴史』ジョージ・ソルト 図書刊行会 2015年)
 飢えとスタミナ

 1944年から1947年までは、日本の現代史で最悪の飢餓の時代だった。
敗戦による苦難はアメリカの空襲と原子爆弾だったが、降伏後の飢えと栄養不良の二年間は、国民意識にこの時代の苦闘が根深く残るほど、長く暗い困難な時代だった。
日本帝国政府の降伏とアメリカ人のとなえる民主化で政治権力が劇的に変化したものの、大半の人にとっては食糧や暖かい衣服、まともな住まいの不足こそが敗戦による最大の問題だった。
ほとんどの日本人にとって、敗戦後二年間も食糧供給と生活物資不足が改善しなかったせいで、戦争から1945年の敗戦までと、その後の外国による占領の年月は、不明確に混じり合っている。
占領から二年間の状況悪化は、世界的な食糧生産の落ち込みと、日米当局双方による配給制度の監督不足によって引き起こされた。
 日本人のほとんどが体験した1944年から1947年までの全国民的な飢餓という苦しい背景があったからこそ、ラーメン復活は戦争で生き残った都市住民に大きな影響を与えた。
闇市のラーメンなどの「スタミナ」のつく食べ物は、それまでずっと食べていたサツマイモや大根に代わるもの、また飢餓状態を脱するものとして歓迎された。
輸入アメリカ小麦でつくられた餃子や焼きそば、食欲をそそる匂いのネギ入りお好み焼きなどと並んで、「中華そば」は闇市の名物であり、人々が必要な力を奮い立たせるためにどうにか買える食べ物だった。
温かくて油っぽい闇市の食べ物は、ニンニクや油、小麦粉をたっぷり使っているため、ひとくくりに「スタミナ」料理と呼ばれた。
スタミナ料理に使われた緊急輸入のアメリカ小麦は、終戦の前年からはじまった米不足を補った。
 アメリカ軍は1945年に日本に入ってきたが、食糧状況は二年前から悪化しており、都市での食糧難は危機的状態に至っていた。
資源を農業から軍需産業に振り向ける政府方針と、植民地からの食糧輸送ができなくなったことから、国内食糧生産は1943年から1945年までに推計で26パーセント落ち込んでいた。
肥料や道具、家畜が軍用に振り向けられたり、戦争で破壊されたため、1940年代、特に1940年代なかばには命をつなぐために代用食としてのサツマイモや大豆、カボチャ、大根、のちには小麦に依存する必要があった。
 1937年生まれの食物学者奥村彪生(おくむらあやお)は、終戦まぎわの絶望的な食糧状況の思い出を次にように書いている。

  1944年からは田舎でも学校の運動場はサツマイモ畑になっていました。今まで食べたことのなかったサツマイモのつるの先端部や葉柄まで食べました。カボチャも同様で柔らかそうなつるの先端部や花、未熟果、そして種まで余すところなく食べました。そしてタンパク質の補給のため、クサギの木の根っこのところに棲(す)みついてるカブト虫の幼虫(サナギ)やイナゴなどをとり、焼く、あるいは炒(い)って食べていました。食糧は田舎でも窮乏していたのです。
  この年全国的に使われた言葉は必勝食糧。当時の農相石黒忠篤は、米は日本人の主食糧であるという考えを捨て、麦はもとより大豆、豆粕、薯のつるでも大根の葉でもおよそ食べられるものはなんでも食べねば、と語っています。……東京市内の戦火が激しくなると、いよいよ決戦食。未利用資源の利用が唱えられ、ドングリや木の芽、根っこ、道端に生えている野草、カタツムリやイモリまで食べるよう指導があり、生きのびるためにはなんでも食べなければならなかったのです(『進化する麺食文化 ― ラーメンのルーツを探る』)。

 奥村の記憶は、ほとんどの日本国民の戦争最後の年の記憶と共通している。
 さらに事態を悪化させたのは、食べさせる国民の数が増加したことだった。
日本帝国の植民地が失われた結果、アジア太平洋のさまざまな地域から約600万という多数の日本人が引き揚げてきたのだ。
この増加によって、必要食糧は米に換算して1946年度の655万2000トンから、1947年度には794万6000トンに増加した。
これは最悪のタイミングだった。
もはや植民地から日本への食糧供給が不可能になったときだったのだ。
戦争と天候不良による1944年と1945年の米の凶作がさらに拍車をかけ、栄養失調状態と飢餓が蔓延する結果をまねいた。
 配給食糧だけでは生きていけなくなり、農家以外の国民にとっては闇市の食糧が不可欠になった。
飢餓か犯罪に手を染めるのかという、苦しい選択を迫られたのだ。
のちに新聞記者たちが日本のソクラテスと称した判事の山口良忠は、闇市の食糧を食べることを拒絶した結果、1947年10月に栄養失調で死亡している。
こうして、配給食糧だけでは生きられないということが劇的な形で政府当局に突きつけられた。

 …後略…

(『ラーメンの語られざる歴史』ジョージ・ソルト 図書刊行会 2015年)

食糧難突破に起ち上る民衆」(NHKアーカイブス 1946年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ジョウビタキのメスが首をかしげて朝ご飯を探しているみたいです。
もうじき繁殖地に渡っていくのでしょうね

質問40 鳥の渡りに人類はいつ頃から気づいていたのでしょうか?

[回答]太古の昔から、おそらく洪積世以来ずっと変化する季節と結びつけて鳥の渡りは注目されてきたにちがいありません。
ある遊牧民の種族は鳥の渡りによって自分たちの移動を決めていたといいます。
ペルシアの暦の月の名はそれぞれの月を代表する鳥あるいは鳥の渡りに由来しています。
鳥の渡りについてのたくさんの記述が聖書にもホメロスの著述の中にも見られます。
もっとも古い渡り鳥の観察記録は、旧約聖書の出エジプト記(16:13)および民数記(11:31)にはっきろと残されています。
「タカは彼らのかしこさの故に飛び、翼をひろげ南に向かうのか?」とヨブがいっている(39:26)のは鳥の渡りのはじめて記録されたものでしょう。
ホメロスはイリアドの中でトロイの進軍を「来るべき冬や突然の雨をさけて、大洋のいく筋もの流れに向かって鳴き交わしながら飛ぶツルの群れのよう」と記述しています。
 新世界での鳥の渡りを最初に観察した記録は1492年10月9日か10日のことでピンタ号の船長マルチン・アロンソ・ピンゾンが陸の鳥が海に向かって移動しているのを観察しています。
彼はコロンブスを導いて南西に向かったわけですが、この時コロンブスがまっすぐ西に進んでいたら、サルバドルの代りに北アメリカ大陸に到着していたはずでした。
(『鳥についての300の質問 君が知りたいすべてに答える』A.クリュックシァンク H.クリュックシァンク著 青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 1982年)