冷たい雨が降っているし、風も吹いていたので
散歩を止めようかと迷ったけど
天気予報をみるとしだいに雨があがりそうなので出かけました。朝ドラ「ブギウギ」第22週「あ~しんど♪」 (105)から
新米マネージャーのタケシが登場しています。
タケシを見ていると自分の若い頃を思い出してしまいます。
大学を卒業する時に就職難で求人を見ると
銀行員や自動車のセールスなどの営業職がほとんど
自分には向いていない、無理だと思い就職活動を諦めました。
とは言いながらも友達が次々就職先を決めていくのを見ていると
これからどうなるのかなと不安になり、これでよかったのかと迷いが湧いてきました。
結局、2年間、正職に就くことなくアルバイトで過ごし、3年目になんとか就職できました。
タケシをみていると自分が何をしたいのか分らない時代が続いていたことを思い出して胸がチクチク痛みました。
これからシズ子との関わりで、どう成長していくのか楽しみにみています。スズ子も第21週「あなたが笑えば、私も笑う」 (101)で
大野さんが家政婦として助けてくれるようになるまで
愛子を独りで育てようとして周りに迷惑をかけていることを批判する投稿がありました。
矢野顕子さんの投稿(2月24日)に
あーこういう事あったなあ。
つらかったなあ。
まわりのスタッフに色々迷惑かけたなあ。
それでも演奏したなあ。
当時にワープして、皆さんにありがとうとごめんなさいを言いたい。
育児と歌手で手一杯のスズ子をうんうんとうなづきながら応援している矢野です。
「買物ブギ」でスズ子が連呼していた「オッサン」は汚い言葉で、「おっちゃん」だという投稿をみたのですが
オッサン【伯(叔)父さん】(名)
おじさんのジが促音便となったもの。
ホッサン〔星さん〕なども同じ例で、サ行の音が二つ続く場合に、前音が促音となることがある。
このオッサンは伯(叔)父ばかりでなく他人の場合でも年上の男を指していうこと、女の場合のオバハンと同じことであり、また、店屋などの人を呼ぶ時にも、すべてオッサンである。
『京羽二重新雛形』(享和)序幕に、
「仲居 サァサァ、ござんせいなァ
と善八たらふく酒に酔ひ、仲居の肩にかかって出て来る。
仲居 駕籠屋のおっさん
駕籠 ハイハイ
と駕籠をかき出て来る」
流行歌『買物ブギ』(昭和)に、
〽オッサン、オッサン、これなんぼ?
(『大阪ことば事典』牧村史陽 講談社学術文庫 1984年)
オッチャン(名)オッサン【伯(叔)父さん】(名)
おじさんのジが促音便となったもの。
ホッサン〔星さん〕なども同じ例で、サ行の音が二つ続く場合に、前音が促音となることがある。
このオッサンは伯(叔)父ばかりでなく他人の場合でも年上の男を指していうこと、女の場合のオバハンと同じことであり、また、店屋などの人を呼ぶ時にも、すべてオッサンである。
『京羽二重新雛形』(享和)序幕に、
「仲居 サァサァ、ござんせいなァ
と善八たらふく酒に酔ひ、仲居の肩にかかって出て来る。
仲居 駕籠屋のおっさん
駕籠 ハイハイ
と駕籠をかき出て来る」
流行歌『買物ブギ』(昭和)に、
〽オッサン、オッサン、これなんぼ?
(『大阪ことば事典』牧村史陽 講談社学術文庫 1984年)
伯(叔)父さん。
子供が壮年以上の男子を呼ぶ語。
(『大阪ことば事典』牧村史陽 講談社学術文庫 1984年)
服部良一さんが「村雨まさを」のペンネームで作詞した時代(1950年)を考えると
「オッチャン」はあり得ないと思うし、インパクトが違いすぎると思う。 渡米と二千曲記念ショー
…前略…
ハワイでは『東京ブギウギ』や『買物ブギ』も大評判で、日本同様、歌詞の中に「ワテほんまによう言わんワ」や「おっさん、おっさん」が流行語になっていた。
ぼくたちが町を歩いていると、
それと知っている現地の人々に、
「おっさん、おっさん」
とぼくは呼びかけられるし、笠置君は、
「ワテほんまによう言わんワ」
と話しかけられ、ワテほんまによう言わんワ、であった。
…後略…
(『ぼくの音楽人生 エピソードでつづる 和製ジャズ・ソング史』服部良一 日本文芸社 2023年)
想像ですが、ハワイには沖縄からの移住者が多いので「買物ブギ」の歌詞が理解できたと思う。
「1 海外移民のはじまり―ハワイ」(「土地と移民」沖縄県公文書館)「買物ブギ」の歌詞の中にあった
ああしんど
ああしんど、というのは、まずふつうに標準語でいえば、
おお くたびれた
という意味であろう。
しかし、しんど、又は、しんどい、という大阪弁にはほんとうはもっと複雑なニュアンスがこめられており、使う場合によっていろいろの意味をひびかせる。
(『大阪弁ちゃらんぽらん〈新装版〉』田辺聖子 中公文庫 2020年)「くたびれた」一辺倒では、解釈しにくい。
「しんど」は「辛労」より来る、と牧村史陽氏の『大阪方言事典』にある。
辛労が、しんろになり、しんどに変化していったのは、古く室町期ごろからで、それがしんどい、になったのは明和ごろ、1700年代からのようである。
だから、しんどい、というのは由緒ただしき古語である。
長いこと使っているうちに、さまざまな場合に応用させていったのであろう。「ああしんど」
と真夏、白昼の日盛りを避けて物かげで腰を下ろす日雇いのおっさん、沖仲仕、彼らがつぶやくと、これは全く、疲労困憊(こんぱい)くたびれた、疲れた、もうアカン、よう動かん、銭(ぜに)返すよって、働くのん止めや、あほろして、もう、テコでも動けるかえ、などという、いわば「しんど」のオーソドックスな使いかたになるのだ。
重いものを担ぐ、それも一瞬の労苦でなく、その持続を強いられたときに発する嘆声である。 ところが、これを、女がいうとまたちがう。
前記の牧村史陽氏の本では、範例として、「中年増が畳の上へべたりと横坐りに膝を崩して」いうと、「一種のびやかな、いかにも漫然とした色気のある疲れ方があらはれてゐる」といわれる。
たとえば、花見疲れ、芝居見物疲れ、という結構なつかれ。 まず帯をとく。
色とりどりの紐(ひも)、帯あげ、帯じめ、おたいこの山、それらをとりすてて、着物をぬぐ。
花衣が美しくとり散らかされた中に、長襦袢(ながじゅばん)姿となって、べったりと坐る。
「ああしんど……」
と年増(玄人さんでもよい)がほっとしているわけである。るす番の婆さんに、
「何(なン)か、おあがりやすか」
と聞かれて、
「もうええ、おなかいっぱいや……」
などといい、ほんとうは芝居のひいき役者を思い出して胸もいっぱいで、うっとりしたりして、プログラムなんかで、胸もとをあおいだりしている、なまめかしい、ああしんど、である。 若い娘だと、お見合いの席から帰ってくる、着なれない着物を着て、帯で締めつけたものでモノもたべられず、動きにくく、帰ってくるなり、着物や帯を脱いで、
「ああ、しんど!」
と叫ぶ。
こういう娘は、堪(こら)え性(しょう)がない、と大阪弁でいうように、正月など、はじめてつくってもらった大振袖を着る、仰々しい袋帯など、美容院から来て締め上げる、体にひと巻き、ふた巻きされたところで、それにつれてクルクルと廻ってしまい、やがて美容師が、渾身(こんしん)の力をこえめて帯を締めると、
「しんど! しんどいわ、もうあかん」
などと騒ぎ立てるのだ。
そうしてきれいに着付けてからも、帯のあいだに指を入れて、
「しんどいわ……」
と切なさそうにつぶやいているが、これらはおおむね、バストがゆたかすぎるからだ。
着物を着るとき、洗濯板みたいな方が、きれいに着付けられるのである。 これがもっと若い子の場合だと、ゴーゴーなど踊りくたびれて席へかえってくる、
「ああしんど」
と可愛らしい声でいって、腰をおろすが、曲がかわると、しんどいのも忘れ、跳ね上がってまたとび出しておどる。
色けはない、無邪気な「しんど」であろう。
女子高校生がバレーやテニスのクラブでしごかれ、はや日が暮れて、足を引きずるようにして帰る、真ッ黒に日灼(ひや)けして汗と泥によごれ、がっくりしてつぶやくのも、「ああしんど」であるが、これもまあ、女といい条(じょう)あんまり色けのない「ああしんど」である。 中年主婦がいう場合には、スーパー、デパート、市場をまわり歩いて、トイレットペーパー、洗剤を買い集め、両手に持ちきれぬほど持って、壁ぎわへ寄り、思わず荷をおろして、腰をのばし、
「ああしんど……」
などといったりする。
しかし、こういうときの語、こんなえらい目をして買出しするのは誰のためのか、いまいましい、あのオッサンや、子供たちはこんな苦労、知っとんのかいな、という、ふくれっつらのニュアンスがあるのである。
…後略…
(『大阪弁ちゃらんぽらん〈新装版〉』田辺聖子 中公文庫 2020年)