2024年3月11日月曜日

3月11日

今朝も青空が広がっていました。
昨日と違って冷たい風が吹いていなかったので暖かかったです。
でも、明日は天気が崩れるみたい。
先日亡くなった
政治学者 五百旗頭真さん死去 80歳 災害からの復興にも尽力」(NHK 3月7日)

 はじめに
1 「三大震災」の視座から


 我々は思いもかけず「大震災の時代」にめぐり合わせている。
日本列島の地震活動は、あの1995年の阪神・淡路大震災をもって平穏期から活性期に転じた。
16年を経て、2011年に勃発した東日本大震災は超弩級の複合災害であった。
問題の重大さは、それを地震活動のフィナーレとみることができない点にある。
(『大災害の時代 未来の国難に備えて』五百籏頭眞 毎日新聞出版 2016年)
 私は阪神・淡路大震災の内部に居合わせた。
家族は無事だったものの、わが家は全壊。
私の職場であった神戸大学では、ゼミ生の森渉君を含む39名の学生が犠牲となった。
6434名の犠牲者が阪神・淡路の地に屍を連ねる事態は、戦後日本の平和な時代の認識を超えるものであった。
被災地の未曽有の悲惨の中で、このような凄まじい災害は二度とないであろう、否、あってはならない。
二度となからしむるよう社会を再強化・再構築せねばならない。
我々はそんなふうに心に誓ったものである。
 事実は、神戸が例外的に突出した災害だったのではなかった。
むしろそれは「大震災の時代」の到来を告げる号砲であった。
 それ以後、「天災は忘れた頃にやってくる」との格言に反して、忘れるいとまもないほどに頻発した。
地震だけをとっても、神戸の大都市直下型の後は、2000年の鳥取西部地震(M7.3)を経て、2004年に中山間地域の中越地震(M6.8)、そして2008年には岩手・宮城の内陸地震(M7.2)とアングルを変え様相を変移させながら、2011年、ついに東日本大地震津波がこの列島を襲ったのである。

…後略…
(『大災害の時代 未来の国難に備えて』五百籏頭眞 毎日新聞出版 2016年)

増補版『大災害の時代 三大震災から考える』(岩波現代文庫)で「試し読み」ができます。
 戦後66年は砂上の楼閣  野坂昭如

          (2011年8月6日・日本経済新聞朝刊掲載)

 戦後六十六年を経て、かえりみれば被災地だけじゃない、都会もまた紙一重で明日は焼跡じゃないか。
文明に囲まれ、物質的豊かさの中で暮らし、飽食の時代とやらを過ごす。
しかしすべて砂上の楼閣。
ただ今の暮らし、電気がなければお手上げ。
(『震災後のことば 8・15からのまなざし』宮川匡司編 日本経済新聞出版社 2012年)
 三月十一日を境に、何もかも失い、寒空の下ただ震えるしかなかった被災者たち。
 地震は昨日までのあたり前を断絶し、日常は非日常となった。
日本列島に住まう者すべて自然の脅威を前に圧倒された。
次々映し出される惨状は想像を超えて、我々はうちひしがれ、人間という生きものの無力さをつくづく思い知らされた。
まもなく五カ月が経つ。
 ひたすら呆然(ぼうぜん)と過ごすしかなかった被災者は、少しずつ日常を取り戻し、自分の足で立ち上がろうとしている。
一方で、国への不信感、怒りは日に日に募る。
いつしかいかんともし難い諦観、虚無感と結びつき、被災者の心に横たわっている。
これはなかなか拭えない。
国の態度は踏み出しかけた被災者の足を引っ張っている。
 この度の震災で傷ついた風景が、六十六年前の焼跡に例えられ、再びの国難だと言われる。
国難には違いないが、震災と空襲の風景は異なる。
ぼくは昭和二十年、神戸で焼け出された。
この時の焼野原を見ている。
あらゆる死体も眼にした。
爆弾攻撃のあと、瓦礫(がれき)が連なり、破壊された家並みがあったにしろ、空襲のあとは、ほとんど目の届く限り、一面の焼野原だった。
海から山までで、残った建物は小学校の校舎くらい。
立っているものは焼け焦げた電柱、その上に、どこまでも青空が広がっていた。
 いまだ、被災地を覆う瓦礫の海などもなかった。
焼野原となって数日後、ちらほらバラック建てがつくられ、材料は焼けたトタン板、焼け残った材木、これらを何とか組み立て雨露を凌(しの)ぐ。
 まったく影のない焼跡の上で、食うもの、着るものすべてない。
だが、人々はある意味、晴れやかな表情で、てきぱき過ごしていたように思う。
戦争に敗けたということは、つまり空襲が終ったということ。
もう空襲の恐れはない。
原子爆弾も落とされない。
 語弊があるかもしれないが、昭和二十年の焼跡は、いっそあっけらかんと明るい印象だった。
この度は違う。
先が見えず、立ち尽くすしかない。
ため息すら出なかっただろうと思う。
 戦中、戦後、しばらくすべての日本人の置かれた状況は似ていた。
地域・職業により、多少の格差はあったにしろ、戦争という非常時のもとで、誰もがいつ死んでもおかしくない状態だった。
隣組を単位として、防空訓練を行い、どの家も防空カーテンを用意、灯火管制に備える。
贅沢(ぜいたく)は敵。
質素倹約こそ美徳。
生活用品は配給制度の下におかれた。
「一億一心」「進め一億火の玉だ」などのスローガンが飛び交い、つまり、死を前にしてすべての日本人は平等だったのだ。
 親戚、縁者、知人との間で焼け出されたらお互い面倒をみる。
避難先のとり決めがされていた。
平成の世は、毛布一枚。
水とパンで過ごす被災者を、飲み食いしながらテレビで眺める。
時代の違いといってしまえばそれまでだが、この状態は海の向こうの戦争を眺めるに似て、つまり他人事。
 空襲で焼け出された人たちは、すぐ握り飯にありつけた。
罹災(りさい)証明書も間をおかず手にし、これがあれば汽車の切符が買え、特配も貰(もら)えた。
この点だけでいえば、大日本帝国の方が今のお上よりマシ。
 空襲と震災のもたらした光景は、はっきり違うとぼくは思う。
今回、被災地以外の者は地震の怖さをわが事として受け止めた。
一方で買い溜(だ)め行為もみられたが、被災地への関心は高く、善意も集まった。
今はどうか、多くの人にとって、気になりつつも眺める対象でしかないのではないか。
福島の原発事故に関心が移ったせいもあるが、復旧もままならぬ被災地と、何事もなかったかのように日常を送る地域。
光と影の差は甚しい。
 焼跡のスタートはゼロから始められた。
それに高度経済成長が伴った。
この度はゼロに戻すことから始めなければならない。
経済は疲弊している。
ここにいつ収まるともつかない放射能汚染が加わる。
 戦後六十六年を経て、かえりみれば被災地だけじゃない、都会もまた紙一重で明日は焼跡じゃないか。
文明に囲まれ、物質的豊かさの中で暮らし、飽食の時代とやらを過ごす。
しかしすべて砂上の楼閣。
ただ今の暮らし、電気がなければお手上げ。
原子力推進派のいう電力不足の脅しの一種だが、仮に三日も停電すれば、日本はガタガタ。
この電力システムはお上先導のもと進められたといえ、世間もまた、便利が一番と受け入れてきた。
 四季の移ろいやさしい列島に住みながら食べ物は外国任せ。
海の向こうが不作に陥れば、あるいは損得の駆け引きによって輸出取り止めとなればたちまち飢えに苛(さいな)まれる。
つまり他国の胸三寸で、日本は生かされも殺されもする。
 昭和二十年八月十五日は敗戦の日。
今や単なる区切りにもなっていない。
戦争を思い出すのは夏だけ。
それさえあやふや。
忘却は人間の力でもある。
しかし嫌なことは忘れ、戦争を引きずるな。
平和、豊かさ、モノの時代とやらに明け暮れるうち、大事なものをどこかに置き、長生きこそ良しとしてきた。
 平和を唱えていれば生きていける。
その平和な国で、自殺者は増え、食いものは危なっかしい。
空気は汚染され文化伝統は薄れるばかり。
豊かさと引き換えに失ったものは大きい。
この度の震災は国難に違いない。
今こそ、日本人一人一人が立ち止まり、考える時である。
(『震災後のことば 8・15からのまなざし』宮川匡司編 日本経済新聞出版社 2012年)

野坂昭如(のさかあきゆき) 作家」(NHKアーカイブス)
今朝の父の一枚です(^^)/
今日もジョウビタキの雄に出会っていました。
こんな小さな体で海を渡り越冬地と繁殖地を行き来するのが凄いなと思う!

質問47 渡り鳥は一日どれくらいの距離を飛ぶのでしょうか?

回答] ある鳥は、ある一日は少ししか飛ばないかわりに次の日には長距離を移動します。
時速32キロの鳥でさえ、1日8時間飛び続ければ256キロの旅ができます。
ミネソタ州のチーフ湖で標識をつけられたマガモが二日後にはイリノイ州のメレドシアに出現しました。
1日あたりの推定飛行距離は515キロと推定されました。
 またマサチューセッツのコッド岬で、標識をつけられたコキアシシギが六日後、西インド諸島のマルチニーク島で発見されました、この両地点の距離3088キロから1日あたりの卑近飛行距離を求めますと515キロとなります。
コキアシシギは強い飛翔力を持った鳥で、渡りのほとんどは海洋を越えていくのだと考えられますが、それにしても、この異常に長い距離は、飛行し続けることを強いられるからだという考え方に通じます。
 …つづく…
(『鳥についての300の質問 君が知りたいすべてに答える』A.クリュックシァンク H.クリュックシァンク著 青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 1982年)