でも歩いているうちにしだいに空が暗くなってきていました。
暖かかったのですが、明日は気圧配置が西高東低の冬型になるそうです。
サクラ(ヤマザクラ?)がポツポツと咲いていました。
「はしかのようなもの」と言われることがあり、安易に考えがちなのですが
「はしかの症状軽視も… ワクチン予防否定するSNSの誤情報に注意」(NHK 3月14日)山内一也さんの『はしかの脅威と驚異』の「はじめに」を読むと
…前略…
江戸時代「疱瘡(天然痘)は見目定め、麻疹は命定め」の諺があった。
天然痘はあばたを残すために器量が悪くなり、麻疹を命を危機にさらすという意味である。
当時、生まれた子供のうち、半分が育てばよいとされていた。
「七つまでは神の子」という言い伝えがあるが、数え年、七歳になってはじめて人間社会の一員と認められていた。
…後略…
「試し読み」ができます。
かつてスペイン人がインカ帝国などを征服できたのは、
3章 庶民も貴族も苦しめた流行の歴史
アメリカ大陸における麻疹・中南米
麻疹は、ヨーロッパでは比較的小さな流行を頻繁に起こしていたが、新大陸の先住民には大きな被害をもたらした。
ヨーロッパでは麻疹が常在していて、多くの人が子供の時に麻疹にかかって免疫ができていたが、それまで麻疹が存在していなかった新大陸では誰も免疫がなかったためである。
シカゴ大学歴史学名誉教授ウイリアム・マクニールによれば、先住民が相次いで死亡するのに、スペイン人は病気にならないのを見て、先住民たちは「アステカの神々もキリストの神も、白い皮膚のちん入者はいかなる行動をとろうとも聖なる許可を得ている」と思い込んで、スペイン人の征服事業に容易に従ったのである(『疫病と世界史(下)』)。
(『はしかの脅威と驚異』山内一也 岩波科学ライブラリー265 2017年)
1492年、スペインのパロス港を出発したコロンブスの遠征隊が新大陸を発見してから500年を記念して、1990年代に旧大陸が新大陸に与えた影響についての著作が数多く出版された。
それらには、ヨーロッパからの移住者が持ち込んだ麻疹が猛威を振るった状況が詳しく述べられている。
その一端を紹介する。 コロンブスがイスパニョーラ島と命名したサント・ドミンゴ(現在はドミニカ共和国の首都)には、1496年からスペイン人が定住した。
ここで1517年に発生した疫病はアメリカ大陸で最初の麻疹と考えられている。
ここから麻疹は、図5(「中南米における麻疹の広がり」省略:以下同じ)に示したように、中南米の各地へと広がっていった。 1523年にはグアテマラでも発生し、1529年にはキューバで発生し、人口の三分の二が死亡したと推測されている。
1531年にはメキシコとホンジュラスで発生した。
16世紀にはメキシコで約30年ごとに発生を繰り返していて、この時代、メキシコで最大の死亡をもたらしたのは、天然痘で麻疹はそれに次いでいた。
1532年頃にはニカラグアからパナマに到達した。
16世紀のメソアメリカ(メキシコから中米一帯にかけての共通の文化領域)の民族誌の研究成果をまとめたフロンティン・コーデックスには、アメリカ・インディアンが描いた麻疹の症状、発熱と発疹を示す絵が掲載されている(図6 「アメリカ・インディアンが描いた麻疹の症状」)。 フランシスコ・ピサロは、スペイン国王カルロス1世からペルー支配の許可を得て、1531年、パナマを出航してペルーへ侵入を開始した。
1533年には、インカ帝国の首都クスコを占領し、インカ帝国を滅亡した。
この際に麻疹はペルーに持ち込まれたと推測される。
1558年から1591年にかけて、いくつかの重い疫病が流行し、その中には麻疹も含まれていた。 ペルーの北部に隣接するエクアドルでは、1524年から1618年までに19回の疫病の流行が記録されている。
その時代、天然痘と区別することは難しいが、麻疹とみなされる疫病は7回だけで、約13年の間隔で起きていた。
1785年には、現在の首都キトで、きわめて大きな麻疹の流行が起きて、2400人以上の死者が出た。
ペルーとエクアドルに接するコロンビアのボゴタでは、1558年から1803年までの間に、多数の死者を出した麻疹の大流行が3回起きていた。
ポルトガルの植民地となったブラジルでは、16世紀から麻疹の流行が起きていた。
1749年には、アマゾン川流域の現地人の間で大流行となった。 日本の麻疹流行の特徴
江戸時代の麻疹は20年から30年の間隔で起きていた。
5、6年置きに発生していた天然痘よりもはるかに低い頻度であった。
同じ島国である英国では、麻疹は2、3年置きに流行しており、それとは大分異なっている。
日本は鎖国していたので、侵入の機会が限られていたためであろう。
医者は一生の間に2回くらい、多くてもせいぜい3回、患者を治療する機会があったに過ぎなかった。
多くの医師は自分で治療した経験がなかった。 鎖国の下、海外からの船は長崎と対馬にだけ来航していたため、麻疹の流行は西から東へと移動していた。
麻疹の流行は規則的ではなく、たまたま入港した船が持ち込んだ際に発生していた。
江戸の人口は享保年間には100万人を超えていた。
それでも麻疹は常在することなく消失していた。 文久2年(1862)の流行の際に、和泉郡(現・大阪府和泉市)で発生した患者の年齢別の分布が、日本の医学史の研究家であるピッツバーグ大学史学教授のアン・ジャネッタによりまとめられている(図12「年齢別の麻疹発症率(和泉郡、1862)」)。
25歳以下では90パーセント前後が麻疹にかかり、26歳から30歳にかけて急激に患者数が減少している。
このグラフは、天保7年(1836)の流行から26年間、麻疹の流行がなかったことを示している。
30歳以上では10パーセント前後の患者が発生していたが、これは天保7年の流行を免れたものと考えられる。
江戸時代の日本では、輸入麻疹による発生に限られ、麻疹が常在することはなかったのである。
文久2年(1862)の流行での多数の死者の記述を除くと、江戸時代の麻疹での死亡率は、それほど高くなかったようである。
前述のように、宝永5年(1708)の流行の際に、香月牛山は530人あまりを治療して一人も死ななかったと書いていた。 岐阜県大野郡宮村(現在は高山市に併合)の往還寺(おうげんじ)は500年前に創建され、過去帳には享禄元年(1528)から約3000人の檀家人口について、物故者の記録が現在まで引き継がれている。
そのうち明和8年(1771)からは、死亡年月日、死亡年齢、性別が記録されているので、民族衛生学の貴重な資料になっている。
岐阜高山市の医師・須田圭三の調査によると、明和8年(1771)から嘉永5年(1852)までの82年間における麻疹による死亡は34名だけで、すべての死亡者の0.004パーセントに過ぎない。
前述の新大陸やフィジーで発生した麻疹では多数の死者が出ていたのとは、対照的である。
江戸時代の日本では、約20年置きに麻疹が発生したため、人口の約三分の一は免疫を持っていて、看護にあたることができた。
また、錦絵のような情報システムが存在していた。
そのため、患者の多くが助かったと考えられる。
江戸などの大都市とは異なり、飛騨の山村では、流行は短期間に終わっていた。
安永5年(1776)、享和3年(1803)、天保7年(1836)の流行はいずれも三ヶ月で終息した。
同じ村で、天然痘は2、3年間は続いており、それと対照的であった。
麻疹ウイルス、天然痘ウイルスともに強い伝播力を持っているが、麻疹ウイルスはエンベロープを持ったウイルスで、常温で数時間以内に死んでしまう。
一方、天然痘ウイルスは乾燥状態では長い間生きている。
1970年代には、かさぶたの中のウイルスが5年間も感染力を保っていたこともある。
そのため、流行が収まっても、寝具や衣服などに付着したウイルスが生きていて、散発的な発生が繰り返されたのである。 明治時代に入って、海外との往来が盛んになった結果、麻疹は常在することになった。
しかし明治13年(1880)に制定された伝染病予防規則は、コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフス、天然痘の6種類をあげていて麻疹は対象になっていない。
明治30年(1897)には、この規則に、パラチフス、猩紅熱、流行性脳脊髄炎、ペストが加えられて、伝染病予防法(*)になったが、ここにも麻疹は入っていない。
麻疹は、軽い病気という誤った認識により、除外されたのであろう。
* 伝染病予防法は、1998年に感染症予防法に改訂され、麻疹は5類感染症として直ちに届け出ることになった。
(『はしかの脅威と驚異』山内一也 岩波科学ライブラリー265 2017年)
「改正感染症法について(令和5年4月1日施行分)」(厚生労働省)
今朝の父の一枚です(^^)/
モズ くちばしが武器の小さな猛禽
秋の里山で、棒くいの先にとまった一羽のモズが長い尾をゆっくりと回しながら獲物を物色しています。
突然、一直線に地面へ飛び降りたかと思うと、口にカマキリをくわえて戻ってきました。
モズが狙うのは大型の昆虫やトカゲなど地上を這う生き物です。
カエル、ムカデ、そしてネズミ類からカワラヒワなどの小鳥までがメニューに加わります。
ツグミなど、自分より大きな鳥まで捕まえることもあります。
こうした食性に加え、獲物を枝などに刺しておく「はやにえ」を作ることから、「小さな殺し屋」とも呼ばれています。
獰猛な性質は猛禽のようですが、ワシタカ類は太く力強い足で獲物をつかむのに対し、モズはくちばしで獲物を襲います。
くちばしを武器にするところがスズメ目の鳥らしいところです。
モズのくちばしは上下にかみ合うノコギリの歯のような構造になっています。
さらに不格好に見えるほど大きな頭と相まって、想像以上に強い力で肉をちぎり骨を砕くことができるのです。
小さくても大きな相手を恐れず立ち向かうモズ。
その孤高ともいえる性質は剣豪・宮本武蔵に愛され花鳥画「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」の題材となったことで知られています。
(『庭で楽しむ野鳥の本』大橋弘一 山と渓谷社 2007年)
「紙本墨画枯木鳴鵙図〈宮本武蔵筆/〉」(文化遺産オンライン)
今朝の父の一枚です(^^)/
モズ くちばしが武器の小さな猛禽
秋の里山で、棒くいの先にとまった一羽のモズが長い尾をゆっくりと回しながら獲物を物色しています。
突然、一直線に地面へ飛び降りたかと思うと、口にカマキリをくわえて戻ってきました。
モズが狙うのは大型の昆虫やトカゲなど地上を這う生き物です。
カエル、ムカデ、そしてネズミ類からカワラヒワなどの小鳥までがメニューに加わります。
ツグミなど、自分より大きな鳥まで捕まえることもあります。
こうした食性に加え、獲物を枝などに刺しておく「はやにえ」を作ることから、「小さな殺し屋」とも呼ばれています。
獰猛な性質は猛禽のようですが、ワシタカ類は太く力強い足で獲物をつかむのに対し、モズはくちばしで獲物を襲います。
くちばしを武器にするところがスズメ目の鳥らしいところです。
モズのくちばしは上下にかみ合うノコギリの歯のような構造になっています。
さらに不格好に見えるほど大きな頭と相まって、想像以上に強い力で肉をちぎり骨を砕くことができるのです。
小さくても大きな相手を恐れず立ち向かうモズ。
その孤高ともいえる性質は剣豪・宮本武蔵に愛され花鳥画「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」の題材となったことで知られています。
(『庭で楽しむ野鳥の本』大橋弘一 山と渓谷社 2007年)
「紙本墨画枯木鳴鵙図〈宮本武蔵筆/〉」(文化遺産オンライン)