私が春になったなと感じるのはツクシに出会ったとき
ミツバチなどが花で花粉を集めているとき
そして、風邪でもないのに急に鼻水が出たり、目がかゆくなったときです(^_^;
昨日、妹が帯状疱疹の二回目のワクチンを接種しました。
副反応は微熱(37度ほど)。
帯状疱疹の辛さに比べれば…
「はしか感染者相次ぐ 空気感染も ワクチン接種が必要な世代は…」(NHK 3月13日)
麻疹は、感染力がきわめて強く、マスクや手洗などでは防げません。
ワクチン接種が呼びかけられていますね…
ワクチンに対して不信感のある人や
麻疹にかかったかどうか分らない人は抗体検査を受けてみてはどうでしょうか。
私の年代では、ほとんどの人が抗体をもっていると思います。
それでも2018年に抗体検査を受けて陽性でした。
私の年代では、ほとんどの人が抗体をもっていると思います。
それでも2018年に抗体検査を受けて陽性でした。
ちなみに「三日ばしか(風疹)」と「麻疹(はしか)」は違います。
キネマ旬報ベスト・テンで主演女優賞を受賞されたのに
体調不良で表彰式を欠席したので心配していましたが
今朝のNHKあさイチ「プレミアムトーク 趣里」で元気な姿を見せてくれていました。
朝ドラ「ブギウギ」第24週「ものごっついええ子や」 (115)で
「ほれ お前には 特上だ。」と肉厚のカツ丼が出てきましたね(^。^)
「中華そば」「ライスカレー」の次は「カツ丼」について転記しますφ(.. )
関東大震災は、音楽だけでなく食文化にも変化をもたらしたようです。第5章 かつ丼の誕生
四 かつ丼の誕生
(一)かつ丼が売り出される。
とんかつをどんぶり飯の上にのせればかつ丼ができる。
かつ丼にも二種類あって、ソースかつ丼と玉子とじかつ丼がある。
ソースかつ丼は、どんぶり飯の上にとんかつをのせてソースを掛けるか、ソースにくぐらせたとんかつをどんぶり飯の上にのせるかしたもので、玉子とじかつ丼は、とんかつと玉葱などを甘辛い汁で煮て、玉子でとじ、それをどんぶり飯にのうえにのせたものである。
(『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼―日本五大どんぶりの誕生』飯野亮一 ちくま学芸文庫 2019年) かつ丼の誕生については諸説がある。
ソースかつ丼については、現在福井に本店を構えるヨーロッパ軒が大正2年に考案したとする説や、早稲田高等学院の学生だった中西敬二郎が大正10年に考案したとする説などがある。
玉子とじかつ丼ついては、早稲田の蕎麦屋三朝庵が大正7年に考え出したと主張していた。
いずれの説も当時の記録が残されているわけではなく、確かなことは分らないが、大正時代の終わりころにはかつ丼が誕生している。 五 かつ丼の普及
(一)蕎麦屋にかつ丼
一方、そば屋でも玉子とじかつ丼を売り始めた。
東京都麵類協同組合が組合創立五十年を記念して出版した『麵業五十年史』(昭和34年)には次のようにある。
「〔大正の大震災後〕銀座、浅草、新宿を始め盛り場という盛り場には、東京の虚に入った大阪式の飲食店が、大資本を擁して進出してきた。<略>そこで私たちの麵類が、古い歴史と庶民性をほこったとしても、所詮、同じ客を争う商店とすれば、私たちがこれに、対抗しなければならないと覚悟をすえたのは、当然の成り行きではないだろうか。そこで私たちの店々も、市内の殆どが、三和土(たゝき)に椅子テーブルの形態になった。勿論、郊外の非焼失区域では、まだ昔の半手打式の店が多かったが、少なくとも震災の焼失区域は、殆んど例外なくテーブル式を採用したばかりか、商う品物にも、ライスカレーやカツ丼などの濃厚食が登場したのは、恐らくこの頃、場所により店により、他への対抗上やむを得ず、始められたものに違いない」
関東大震災後に大阪の飲食店が大資本を擁して東京に進出してきた。
これに危機感を抱いた東京の蕎麦屋は、店舗を改築し、ライスカレーやかつ丼をメニューに加えて、生き残りを図っている。 蕎麦屋ではすでに天丼や親子丼を出していた。
天丼の天ぷらを揚げる技術や、親子丼の鶏肉を玉子とじする技術をとんかつに応用すればたやすくかつ丼が作れる。
そばつゆはかつ丼の煮汁に利用できる。
蕎麦屋がかつ丼を出す舞台は整っていたが、蕎麦屋にかつ丼が登場するのは関東大震災後のことのようだ。 蕎麦屋の数は多い。
震災直後の蕎麦屋が何軒あったか分らないが、昭和11年には「大東京蕎麦商組合」に「二千五百余名」の蕎麦屋が加盟していたという(『麵業五十年史』)。
老舗といわれるような少数の蕎麦屋ではどんぶり物を出さないが、ほとんどの蕎麦屋でかつ丼を売るようになって、かつ丼は日本人に馴染みのあるどんぶり物になっていった。
かつ丼の普及に蕎麦屋の果たした役割は大きい。 山本嘉次郎は『日本三大洋食考』(昭和48年)のなかで、
「安食堂や、そば屋で、カツどんを食うひとがかなりいる。その中の、三分の一くらいは、めしと、その上へかけるトンカツと玉子の煮たのを別々にしてもらって、それをおかずにめしを食っている。やってみると、これも割合に旨いのだ。カツどんより旨いくらいである。自分で味の調節ができるからであろう。その方式を「ワカレ」と呼んでいる」
といっている。
食堂やそば屋で出していたのは玉子とじかつどんなので、こうした食べ方もできた。
蕎麦屋や食堂などで玉子とじかつ丼を売り始めると、これがかつ丼の主流になっていく。 (三) かつ丼は和洋折衷料理の傑作
かつ丼が生まれる前には親子丼が生まれていたが、牛肉を玉子でとじたどんぶり物も作られていた。
『飯百珍料理』(大正2年)には「まゝ子丼飯の調理法」が載っていて、「これは親子丼飯に対する鶏肉の代用に牛肉を加へて使用するのでございます。又その一名を合いの子丼飯とも申します」とあって、小鍋で牛肉と玉葱を味醂と醤油で煮て、玉子とじ、「炊立(たきたて)の御飯を茶碗又は丼に八分めほど盛り、その上部(うへ)に載せて」供する料理法が紹介されている。 幕末の開国を迎え、日本人は牛肉と豚肉を本格的に食べるようになったが、好まれた食べ方は異なっていた。
牛肉は江戸時代の獣鍋やしゃも鍋の延長である牛鍋という食べ方が人気を得たのに対し、豚肉はイギリスから伝えられたカトレットという食べ方が人気を得た。
その結果、牛鍋の料理法からは牛丼が生まれた。
カトレットからはカツレツの名が生まれ、カツレツに天ぷらを揚げる技術が導入されて、厚切りの豚肉を揚げたとんかつが生まれた。
そして、とんかつに親子丼や「まゝ子丼飯」のような肉を醤油や味醂で煮て玉子でとじる料理法が応用されてかつ丼が誕生した。
かつ丼にはヨーロッパから伝来した玉葱も使われている。
かつ丼はヨーロッパ由来のカツレツや玉葱を日本の伝統的な調味料で調味した和洋折衷料理の傑作といえるが、蕎麦屋や食堂がメニューに取り入れることによって完全に和食化して今日に至っている。 牛丼は関東大震災を契機として第一次牛丼ブームが起こり、その後、吉野家のような牛丼チェーン店が生まれて第二次牛丼ブームが起こって全国版になっていった。
かつ丼にはそのようなエポックメイキングなブームは起こらなかったし、かつ丼専門店もつい最近まで生まれなかったが、そこそこの値段で、腹いっぱいになって、どこでたべてもそれほど当たりはずれがないどんぶり物として、日本人に愛されるようになっていった。
(『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼―日本五大どんぶりの誕生』飯野亮一 ちくま学芸文庫 2019年)今朝の父の一枚です(^^)/
誰が映っているかわかりますか(^_-)
シジュウカラ
ネクタイをしたバードテーブルの常連
庭先のバードテーブルに来る鳥たちの中で、最も数が多く、餌台を訪れる頻度も高いのがシジュウカラの仲間(カラ類)でしょう。
コガラ、ヤマガラ、ヒガラなど、このグループの鳥は種類も多く、可憐で人を恐れず、誰の目にも好感度の高い小鳥たちです。
中でもシジュウカラはその代表格で、全国どこもバードテーブルにシジュウカラがやってこない場所はないでしょう。
カラ類は何種類もいて同じように見えますが、実は彼らはきちんと棲み分けています。
それが同じ仲間に何種類もの鳥がいる理由です。
例えばヤマガラは常緑広葉樹林に多く、ヒガラは針葉樹林に多いといった具合です。
シジュウカラはどんなタイプの森にも棲み、住宅街の公園程度の緑地から山林まで幅広いタイプの森に適応しています。
カラ類の中でも一番棲み場所の広い鳥といえるでしょう。
シジュウカラが最も身近な野鳥である所以です。
コガラも多様なタイプの森に棲みますが、シジュウカラより少し体が小さいため餌昆虫の種類や採り方に違いがあり、両者は同じ森の中でも並存していけるのです。
(『庭で楽しむ野鳥の本』大橋弘一 山と渓谷社 2007年)
キネマ旬報ベスト・テンで主演女優賞を受賞されたのに
体調不良で表彰式を欠席したので心配していましたが
今朝のNHKあさイチ「プレミアムトーク 趣里」で元気な姿を見せてくれていました。
朝ドラ「ブギウギ」第24週「ものごっついええ子や」 (115)で
「ほれ お前には 特上だ。」と肉厚のカツ丼が出てきましたね(^。^)
「中華そば」「ライスカレー」の次は「カツ丼」について転記しますφ(.. )
関東大震災は、音楽だけでなく食文化にも変化をもたらしたようです。第5章 かつ丼の誕生
四 かつ丼の誕生
(一)かつ丼が売り出される。
とんかつをどんぶり飯の上にのせればかつ丼ができる。
かつ丼にも二種類あって、ソースかつ丼と玉子とじかつ丼がある。
ソースかつ丼は、どんぶり飯の上にとんかつをのせてソースを掛けるか、ソースにくぐらせたとんかつをどんぶり飯の上にのせるかしたもので、玉子とじかつ丼は、とんかつと玉葱などを甘辛い汁で煮て、玉子でとじ、それをどんぶり飯にのうえにのせたものである。
(『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼―日本五大どんぶりの誕生』飯野亮一 ちくま学芸文庫 2019年) かつ丼の誕生については諸説がある。
ソースかつ丼については、現在福井に本店を構えるヨーロッパ軒が大正2年に考案したとする説や、早稲田高等学院の学生だった中西敬二郎が大正10年に考案したとする説などがある。
玉子とじかつ丼ついては、早稲田の蕎麦屋三朝庵が大正7年に考え出したと主張していた。
いずれの説も当時の記録が残されているわけではなく、確かなことは分らないが、大正時代の終わりころにはかつ丼が誕生している。 五 かつ丼の普及
(一)蕎麦屋にかつ丼
一方、そば屋でも玉子とじかつ丼を売り始めた。
東京都麵類協同組合が組合創立五十年を記念して出版した『麵業五十年史』(昭和34年)には次のようにある。
「〔大正の大震災後〕銀座、浅草、新宿を始め盛り場という盛り場には、東京の虚に入った大阪式の飲食店が、大資本を擁して進出してきた。<略>そこで私たちの麵類が、古い歴史と庶民性をほこったとしても、所詮、同じ客を争う商店とすれば、私たちがこれに、対抗しなければならないと覚悟をすえたのは、当然の成り行きではないだろうか。そこで私たちの店々も、市内の殆どが、三和土(たゝき)に椅子テーブルの形態になった。勿論、郊外の非焼失区域では、まだ昔の半手打式の店が多かったが、少なくとも震災の焼失区域は、殆んど例外なくテーブル式を採用したばかりか、商う品物にも、ライスカレーやカツ丼などの濃厚食が登場したのは、恐らくこの頃、場所により店により、他への対抗上やむを得ず、始められたものに違いない」
関東大震災後に大阪の飲食店が大資本を擁して東京に進出してきた。
これに危機感を抱いた東京の蕎麦屋は、店舗を改築し、ライスカレーやかつ丼をメニューに加えて、生き残りを図っている。 蕎麦屋ではすでに天丼や親子丼を出していた。
天丼の天ぷらを揚げる技術や、親子丼の鶏肉を玉子とじする技術をとんかつに応用すればたやすくかつ丼が作れる。
そばつゆはかつ丼の煮汁に利用できる。
蕎麦屋がかつ丼を出す舞台は整っていたが、蕎麦屋にかつ丼が登場するのは関東大震災後のことのようだ。 蕎麦屋の数は多い。
震災直後の蕎麦屋が何軒あったか分らないが、昭和11年には「大東京蕎麦商組合」に「二千五百余名」の蕎麦屋が加盟していたという(『麵業五十年史』)。
老舗といわれるような少数の蕎麦屋ではどんぶり物を出さないが、ほとんどの蕎麦屋でかつ丼を売るようになって、かつ丼は日本人に馴染みのあるどんぶり物になっていった。
かつ丼の普及に蕎麦屋の果たした役割は大きい。 山本嘉次郎は『日本三大洋食考』(昭和48年)のなかで、
「安食堂や、そば屋で、カツどんを食うひとがかなりいる。その中の、三分の一くらいは、めしと、その上へかけるトンカツと玉子の煮たのを別々にしてもらって、それをおかずにめしを食っている。やってみると、これも割合に旨いのだ。カツどんより旨いくらいである。自分で味の調節ができるからであろう。その方式を「ワカレ」と呼んでいる」
といっている。
食堂やそば屋で出していたのは玉子とじかつどんなので、こうした食べ方もできた。
蕎麦屋や食堂などで玉子とじかつ丼を売り始めると、これがかつ丼の主流になっていく。 (三) かつ丼は和洋折衷料理の傑作
かつ丼が生まれる前には親子丼が生まれていたが、牛肉を玉子でとじたどんぶり物も作られていた。
『飯百珍料理』(大正2年)には「まゝ子丼飯の調理法」が載っていて、「これは親子丼飯に対する鶏肉の代用に牛肉を加へて使用するのでございます。又その一名を合いの子丼飯とも申します」とあって、小鍋で牛肉と玉葱を味醂と醤油で煮て、玉子とじ、「炊立(たきたて)の御飯を茶碗又は丼に八分めほど盛り、その上部(うへ)に載せて」供する料理法が紹介されている。 幕末の開国を迎え、日本人は牛肉と豚肉を本格的に食べるようになったが、好まれた食べ方は異なっていた。
牛肉は江戸時代の獣鍋やしゃも鍋の延長である牛鍋という食べ方が人気を得たのに対し、豚肉はイギリスから伝えられたカトレットという食べ方が人気を得た。
その結果、牛鍋の料理法からは牛丼が生まれた。
カトレットからはカツレツの名が生まれ、カツレツに天ぷらを揚げる技術が導入されて、厚切りの豚肉を揚げたとんかつが生まれた。
そして、とんかつに親子丼や「まゝ子丼飯」のような肉を醤油や味醂で煮て玉子でとじる料理法が応用されてかつ丼が誕生した。
かつ丼にはヨーロッパから伝来した玉葱も使われている。
かつ丼はヨーロッパ由来のカツレツや玉葱を日本の伝統的な調味料で調味した和洋折衷料理の傑作といえるが、蕎麦屋や食堂がメニューに取り入れることによって完全に和食化して今日に至っている。 牛丼は関東大震災を契機として第一次牛丼ブームが起こり、その後、吉野家のような牛丼チェーン店が生まれて第二次牛丼ブームが起こって全国版になっていった。
かつ丼にはそのようなエポックメイキングなブームは起こらなかったし、かつ丼専門店もつい最近まで生まれなかったが、そこそこの値段で、腹いっぱいになって、どこでたべてもそれほど当たりはずれがないどんぶり物として、日本人に愛されるようになっていった。
(『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼―日本五大どんぶりの誕生』飯野亮一 ちくま学芸文庫 2019年)今朝の父の一枚です(^^)/
誰が映っているかわかりますか(^_-)
シジュウカラ
ネクタイをしたバードテーブルの常連
庭先のバードテーブルに来る鳥たちの中で、最も数が多く、餌台を訪れる頻度も高いのがシジュウカラの仲間(カラ類)でしょう。
コガラ、ヤマガラ、ヒガラなど、このグループの鳥は種類も多く、可憐で人を恐れず、誰の目にも好感度の高い小鳥たちです。
中でもシジュウカラはその代表格で、全国どこもバードテーブルにシジュウカラがやってこない場所はないでしょう。
カラ類は何種類もいて同じように見えますが、実は彼らはきちんと棲み分けています。
それが同じ仲間に何種類もの鳥がいる理由です。
例えばヤマガラは常緑広葉樹林に多く、ヒガラは針葉樹林に多いといった具合です。
シジュウカラはどんなタイプの森にも棲み、住宅街の公園程度の緑地から山林まで幅広いタイプの森に適応しています。
カラ類の中でも一番棲み場所の広い鳥といえるでしょう。
シジュウカラが最も身近な野鳥である所以です。
コガラも多様なタイプの森に棲みますが、シジュウカラより少し体が小さいため餌昆虫の種類や採り方に違いがあり、両者は同じ森の中でも並存していけるのです。
(『庭で楽しむ野鳥の本』大橋弘一 山と渓谷社 2007年)