2023年12月22日金曜日

冬至

今朝も風が冷たくて田んぼを見ると氷が張っていました(初氷かな?)。
長期予報では、暖冬なんだけど
気温が高い日が続いた後に一気に寒くなる。
気温の差が大きいと体調を維持するのは難しいです。

近畿厳しい寒さ 北部で再び雪強まるおそれ 交通影響十分注意」(関西NHK)
22日頃 冬至(とうじ)

 二十四節気の一つ。
大雪より15日目。
正午の太陽の高度が最も低く、昼間の時間が最も短い日。
暦の上でも冬も半ばで、これから春に向かうので、陰がきわまって陽が帰ってくるとして一陽来復とも呼ばれる。
しかし実際には寒さは厳しくなってゆくので、「冬至冬なか冬始め」などともいわれる。

  書記典主(でんす)故園に遊ぶ冬至かな 蕪村
(『京都歳時記』宗政五十緒・森谷尅久編集 淡交社 昭和61年)
 書記典主(でんす)故園に遊ぶ冬至哉(かな) 明和五句稿 

 (今日は一陽来復の冬至。書記も典主も、かつて痛棒(つうぼう)をくらった懐かしい僧堂に集まって、みんなのびのびと一日を遊び暮らしているよ。)

句稿に上五「禅僧の」を抹消して改作してある。
「書記典主」と禅家の役僧名を具体的に使って初めて親睦(しんぼく)の実情が活写された。
「故園」も禅家の道場を指す。

書記典主 書記は文章・記録を司(つかさど)る役。
典主(殿司)は仏殿の掃除・荘厳(しょうごん)等を司る役。
(『與謝蕪村集 新潮日本古典集成』清水孝之校注  新潮社 昭和54年)
第六章 モンペなんかはくものか
 一度だけステージで泣いた


「進め! 一億火の玉だ」などという勇ましい標語が作られ、声高に叫ばれていました。
いよいよ私も皇軍慰問を命令され、逃げられなくなってきました。
「命令を聞かなければ徴用する」というのですから、本人の意志や事情にはお構いなし、まあ人間扱いじゃないんです。
軍馬と同じようにしか思っていない。
私には南方に行けというんです。
で、どうせ拒めないものならと、かつて行ったことのある満州や上海を希望したら、それが通った。
昭和16年(1941年)に初めて長期慰問に派遣されてから戦争が終わるまで、中国に何度やらされたことか。
中支、北支、南支……ソ連国境に近いマンチュリーまで行きました。
満州には毎月のようにやらされていましたね。
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)
 内地では歌の規制が厳しくて、私はモンペを絶対はかなかったけれども、私の歌にはもうモンペをはかされたようなものだった。
でも外地はまだ規制がゆるやかで、兵隊さんのリクエストがあれば『別れのブルース』を歌っても不問に付されていたんですね。
 天津と済南の間に、張店という寒村の駅があり、たまたまそこに私たちの乗った列車が停車したんです。
すると青年将校がやってきて、「兵のために歌ってくれませんか? 歌を聞いてから八路軍討伐に出撃したいと思うのですが」と言うんです。
見ると、兵隊さんたちが武装を整えて、じっと座ってるんですね。
で、私は申し出を快く引き受けて歌うことにしたんです。
 プラットホームがステージなの。
黄塵の吹きすさぶ中で、私は『別れのブルース』など五曲も歌ったんです。
拍手がすごかった。
いつまでも鳴りやまなかったですね。
それで兵隊さんたちは、支給されたキャラメルなどを、食べてくれって私たちに差し出してくれたんですね。
 上海に慰問に行き、東京の兵隊さんたちの前で歌った時のこと。
外地ではまだかろうじて外国製の歌が歌えた頃でしたね。
タンゴやシャンソンを五十曲も歌ったんです。
東京の兵隊さんたちは私の持ち歌をよく知っていた。
『ドーニャ・マリキータ』を歌え、『ヴェニヴェン』を歌えって、私の好きな歌をリクエストしてくれるんです。
だからうれしかったですねぇ。
私も歌いたい歌が次第に歌えなくなってきてたから、欲求不満になっていました。
ですからここぞとばかりに次から次に歌ったんです。
 兵隊さんたちも喜んでくれた。
戦争のウサを一挙に晴らすみたいに熱狂してるんです。
そのうちに『別れのブルース』を歌え、『雨のブルース』を歌えってきかないの。
でも『別れ』も『雨』もすでにご法度だったんですね。
ステージで歌うことも禁止されてたの。
 最初は、歌うとまずいかな、なんて思ってたけど、あまりにも熱烈なリクエストを聞いていると、もう拒めないんです。
どうなってもいいや、歌っちゃえって気になってきたんですね。
それで罰を覚悟で歌い出した。
兵隊さんたちはポロポロ涙を流しながら聴いてくれてるんですよ。
監視の将校たちを見ると、居睡りするふりをしている人がいたり、そっと席を立って廊下に出る人がいたり。
みんな、見て見ぬふり、聴いて聴かぬふりをしてるんですね。
歌い終わって廊下に出ると、先ほど外に出た将校がそこで泣いているんですね。
私まで涙が出そうになりました。
 どんなに権力で歌を抑えつけようが、人の心の中にはしっかり歌は生きてたんですね。
軍の命令か政府の命令か知りませんが、国策に沿った歌だけを国民に押しつけようったって、人の心にまで浸透させることはできないんですよ。
歌ってそんなもんじゃない!
あれだけ宣伝しても国民歌謡はちっともはやらなしい、軍歌だって愛唱されるのは哀切な調子のものばかりじゃないですか。
まだ歌は死に絶えてはいませんでした。

…つづく…
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)
午後から今年最後の心臓リハビリでした。
先週は、掃除機を持った時にぎっくり腰になったので
トレッドミルの負荷を下げて時速3kmから始めて3.5kmまでにしていました。
今日は、少し痛みがあるけど時速35.kmから始めて4.0kmといつものメニューでした。
ヘェ~と思ったのが、パルスオキシメータで酸素飽和度を計ると99%とか98%だった。
いつもは96%たりです。