2023年12月21日木曜日

風に押されて

風が背後から吹いてくると後押ししてくれるみたいだけど
向かい風だと……
晴れて青空、向こうの山では雪が降っているのかも?

日本海側中心に降雪 土曜日ごろにかけ警報級の大雪のおそれ」(NHK)
ぎっくり腰は、かなり楽になりました。
座っていて起ち上がる時に痛みます。
昨日、診察までの待ち時間があったので杖を持って行きました。

呼ばれた時に起ち上がるのに時間がかかった姿を見て
主治医の先生が痛み止めを処方しようかと言ってくれました。
でも、痛み止めを服用すると、胃が弱くすぐにお腹を下すので遠慮しました。
入院中も必要なら飲んでくださいと言われた痛み止めは、できるだけ我慢しました。
現役の頃は、仕事ができなくなるので整形外科とか接骨院で治療を受けていましたが、
今は、「日にち薬」だと思っています。
ただ、前にも書きましたが、しつこい腰痛は、内科的な病気が潜んでいるかも知れないので受診をすすめます。
今朝の朝日新聞「天声人語」

…前略…

▼国が進める施策について、累次にわたって司法が認める。
その事実は重い。
重いとはわかりつつ、ここに至るまでの20年以上にわたる沖縄県民の「否」を思えば、なんと冷たい政治であり、司法であることか。
▼どんなに計画が時代遅れるになろうと、どんなに工費がかさもうと、日米安保でいったん国が決めたことには逆らえない。
判決が意味するのは、つまりそういうことだ。
政府は、中国を念頭に各地で防衛力を強化している。
ことは沖縄に限るまい。
▼辺野古の少し北側に小さな丘がある。
そこの立てば、軟弱地盤があるという湾が一望できる。
いまはまだ深く青い輝きは、この判決によってきえてしまうのだろう。
沖縄の人々の胸の中で、何かが折れる音が聞こえる。
 「辺野古改良工事 県に対し承認命じる判決 福岡高裁那覇支部」(沖縄NHK)
判決は予想できました。
辺野古基地については、工事が始まっても何年も国民の税金を湯水の如く注ぎ込むことになるでしょう。
中国を念頭にするなら、中国にとって沖縄に米軍基地が集中していることは都合がいいと思う。
沖縄に攻撃を集中すれば一気に叩くことができる。
中国や北朝鮮を脅威に感じるなら、基地を分散するほうが理に適っていると思うのは素人考えだろうか。
北朝鮮のミサイルが不安なら、東京、大阪などの大都市にミサイル迎撃の基地を設置すればいい。

裁判所が国におもねる判決は、辺野古基地だけではない
財務省文書改ざん 2審も元局長の賠償責任認めず 大阪高裁」(NHK大阪 12月19日)
これからも元首相への忖度は続くのだろうなぁと思う。
アメリカのように開示されることなく、真っ黒に塗りつぶされるかシュレッダーで処分される。
日米自動車摩擦 ブッシュ大統領 宮沢首相に異例懇願 外交文書」(NHK)
 「太平洋戦争で出征の家族へ 終戦直後のはがき約400通 米で保管」(NHK 12月20日)

見つかったはがきには、どれも連絡が取れなくなった、夫、父親、それに親しい友人に無事の確認と自身の近況を知らせようとして思いをこめた内容がしたためられていました。

1945年8月15日で戦争が終わったのではない。
何年も、帰りを待ち続けた家族がいます。
大陸からの引き揚げ船」(小学6年)
(「戦争に負けますよ」つづき)

 まあ、留置場に入れるぞって、なんべん言われたかわからない。
でも、怖くなかったですね。
こんな戦争じゃ、どうせ生きてはいられない、いつか死ぬんだと覚悟決めてましたからね。
捨て身だから何も怖いものはない。
なんと言われようと、ドレスを着て、口紅つけて、エナメル塗って、歌ってたんですから。
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)
 もう半ばやけくそですから、したいことはしたようになんでもやる。
周りもあきれていましたね。
 あの時代が私の生涯の中でももっともふてくされていた時代だったのではないでしょうか。
フン! てなものでしたね。
命投げ出して開き直っちゃったから、なんも怖かない。
軍の脅しや、軍国調一色の世の中に、できるだけ抵抗しましたね。
だってくやしいじゃありませんか、いやいやながらでも、自分の意志に反することを、言われたからってその通りにやるなんて。
だからおしゃれひとつにしたって、「贅沢は敵だ」ってビラを幾度つきつけられようが、何枚始末書書かされようが、不自由ながらもおしゃれをし通したんです。
これは私の〝戦争〟でした。
たったひとりの戦争だったんです。
 だから私は、最後までステージにはドレスを通したし、モンペなんか一度だってはかなかった。
防空頭巾だったかぶらない。
死んだっていいんだから。
爆弾が落ちて死んだ時にモンペはいていたんじゃ、私の美意識が許さない。
反抗に反抗を重ねていました。
若いからできたんでしょうね。
それに私、〝じょっぱり〟でしょ。
言いたいことを言うから、すぐ「ちょっと来い」。
私は「どこへでも行くわよ」って、こうでしたね。
 女がひとりで誰の力も借りずに、十年間歌ひとすじにやってきたんだって自負もあったんです。
すぐに「仲間」をつくってなれあう日本人の人間関係のあり方が私は大嫌いなんです。
だから私は、孤立してもいいからやりたいことをやる。
仕事でもそう。
仕事でも、私はほとんどひとりでやってきました。
十周年記念のコンサートの時だって、自分で演出したんです。
世の中が戦争で騒々しくなってきたし、いつ歌えなくなるかもしれませんでしたから、自分の考えた通りに、好きなように歌いたくて、自分で演出した。
戦時中のステージだって、交渉から演出まで自分でやりましたよ。
 大きな組織や大物の人物の庇護下に入って、手足を縛られるなんて、だいたい私の性分に合わない。
私はいつでも独立して自由でありたい。
そうして十年間歌い続けてきたのを、世の中が変わったからって、大勢に迎合して自分の生き方を捨てられますか!
 軍国調の世の中になった途端に長いものに巻かれろで、ステージで宮城遙拝して軍歌を平気で歌い出す歌手がぞろぞろ出てきたのには開いた口がふさがりませんでした。
その人たちは私を不謹慎だ、生意気だと批難しましたが、私に言わせれば、すぐに豹変していとも簡単に節を曲げることのほうがもっとも恥ずかしいことじゃありませんか。
私には、私のこれまでの歌ひとすじの道を否定してしまような、そんな真似は絶対できないことでした。
 敗戦後、戦争犯罪人の公職追放が各分野で進められましたが、歌謡界からは誰ひとり追放されず、戦争犯罪人のうわささえされなかったんです。
あれだけ軍部に協力した人たちがいたのに責任は追及されない。
ほんとうに不思議な世界だと思ったものです。
 こう、言葉にしてしまうと、戦時中に私があれこれ考えて抵抗したように聞こえるかもしれませんが、私はあまり面倒なことを考えるタイプじゃない。
ただ、いやなものはいやだ! ってことだったんです。
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)
朝ドラ「ブギウギ」
インタビュー 茨田りつ子役 菊地凛子さん

Q. 「ブギウギ」に出演することが決まったときのお気持ちは?
…前略…

淡谷のり子さんがモデルの役ということで、淡谷さんの著書や資料を読み、調べれば調べるほど偉大な女性だとわかり、腰が引けてしまいましたが、誠意を持って演じたいと思います。
淡谷さんのお墓参りに行って「一生懸命やるのでどうか怒らないでください」とご挨拶もしました。
今朝の父の一枚です(^^)/
朝ご飯は、何かな?

第3章 人類に随伴するスズメ
 2 スズメの食生活を読み解く
 スズメの嘴と砂のう


 スズメの「食生活」を支えているのは特徴的な嘴に負うところが大きい。
「太く、短く、頑丈」な嘴を用いて、雑草や穀物などの硬い種子を難なく食べることができる。
また、春~夏の繁殖期には昆虫やクモなどの動物質の餌を雛に与える。
ドッグフードやキャットフード、あるいはパンやビスケットなどの人工食品をはじめ、生ゴミ、動物園や養鶏場の餌も失敬する。
何でも食べる雑食性である。
 スズメは体長14.5cmと小さく、1回に食べる餌の量は少量である。
都市環境の特徴の一つは、公園や空地、道路端などに多種多様な餌が少量、分散していることだ。
スズメの雑食性や小さな体は食物が分散している都市で暮らすのに適している。

…後略…
(『都会の鳥の生態学』唐沢孝一 中公新書 2023年)