2023年12月30日土曜日

12月30日

今朝も穏やかな天気でしたが、
これから複数の低気圧が近づいてきて、しだいに崩れるみたいです。
明日は、雨で会えないかも知れないからと「よいお年を」と挨拶を交わしました。
 朝ドラ「ブギウギ」スズ子と愛助が住んでいる所が「三鷹」と聞いてすぐ反応してしまった(^_-)

太宰治は昭和14(1939)年9月に三鷹の住民となり、
昭和23年6月に亡くなるまで三鷹村(町)で過ごしていました。
(「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」三鷹市美術ギャラリー)

スズ子たちと太宰治が出会ったら面白のだけど…
脚本家が三鷹を選んだのは、何か意図があるのかな?
明治6年(1873)に太陰太陽暦に替わるまで12月30日が「おほつごもり(大晦日)」でした。
(「江戸から明治の改暦」国立国会図書館)

巻六 慎病
 大晦日には


 大晦日(おおみそか)には、父祖の神前を掃除し、家の内とくに寝室のちりを払って、夕方には灯をつけて、翌朝にいたって家内を照明し、香を所々にたいて、かまどで爆竹をならし、火をたいて陽気を補うがよい。
大晦日は、家族と炉を囲んで和気あいあいとして、人と争わず、家のものを叱ったりののしったりしてはいけない。
父母と目上の人にお祝いを述べ、家内の老幼・上下がいっしょになって屠蘇(とそ)を入れた酒を飲んで、喜び楽しみ、夜通しして旧い年を送り、新しい年を迎え朝に至る。
これを守歳(しゅさい)という。
(『養生訓』貝原益軒著 松田道雄訳 中公文庫 1977年)
巻五
 四 長久
(ちょうきゅう)の江戸店(えどだな)

 天下泰平、国土安穏(あんのん)の御時世であるから、人々は江戸での商売を志してそれぞれ出店を出し、諸国からの荷物は海路はもとより、陸路を馬方が毎日(*1)数万駄(だ)を問屋に送り届ける。
この豪勢な有様を見ると、世の中は金銀があふれているのだが、これをもうける工夫がつかないのは、商人(あきんど)と生まれてくやしいことである。
(『現代語訳・西鶴 世間胸算用』暉峻康隆 小学館ライブラリー27 1992年)
 さて(*2)十二月二十五日からの日本橋通町(とおりまち)の繁盛は大したもので、世間で宝の市(いち)というのは、ここの事であろう。
日常の品物を売る店のほうはさておき、この年の市で正月用品を売る店の様子を見ると、(*3)京羽子板や毬打(ぎっちょう)など、子どもの玩具(おもちゃ)に金銀の箔(はく)を使い、破魔弓(はまゆみ)などは一挺(ちょう)を小判二両で買う人もある。
諸大名の子息にかぎらず町人までがこれを買うのは、万事につけて江戸の人々は太っ腹だからである。
 通り筋の中央に小屋がけの店を出して商売にひまなく、銭は水のように流れ、白銀(しろがね)は雪のように積もっていく。
富士はゆたかにそびえ、日本橋を通る人の足音は、百千万の車が轟(とどろ)くように聞こえる。
日本橋(*4)船町(ふなちょう)の魚市場の、毎朝の売上げ帳の金高は莫大(ばくだい)なもので、四方を海に囲まれている国とはいいながら、浦々によくも魚の種が尽きないものだと人々は噂(うわさ)するのであった。
神田須田町(かんだすだちょう)の青物市場へは、毎日大根を田舎(いなか)の馬につけて数万駄も運びこむが、その様子はまるで畑が歩いているようだ。
底の浅い半切桶(はんぎりおけ)に入れて並べた唐辛(とうがらし)は、大和(やまと)の紅葉の名所竜田山(たつたやま)の盛りを、武蔵野で見るようである。
 さてはまた日本橋(*5)瀬戸物町(せとものちょう)や麹町(こうじまち)の鳥屋に並んでいる雁(がん)や鴨(かも)は、さながら黒い雲を地にたなびかせたようにうず高い。
同じく日本橋本町(ほんまち)の軒に並べている呉服屋に飾ってある五色の京染や武家の女性好みの散らし模様は、四季の風景を一度に眺(なが)めるようで、美人の色香をしのばせる。
また(*6)伝馬町(でんまちょう)の綿問屋の店にある綿は、吉野の雪の曙(あけぼの)の山々のようであり、夜ともなれば提灯(ちょうちん)が続いて道は明るい。
 さて、大晦日(おおみそか)の夜となると、家々では一夜千金の大商いがはじまる。
ことに足袋(たび)と雪駄(せった)は、職人どものが買物の最後に調えることになっているので、元日の夜明けまで買いにくる。
ある年江戸中の店に、雪駄一足、足袋が片方でさえなくなったことがあった。
たとえいく万の人がはくからといって、一足もなくなるとは、日本で一番人の集まる所だからである。
 宵(よい)の口には一足(*7)銀七、八分(ぶん)の雪駄が、夜半(よなか)過ぎには一匁二、三分となり、夜明け方には二匁五分になったが、買う人ばかりで売る者はなかった。
またある年、神棚(かみだな)の竈(かまど)の上に掛ける縁起物の干鯛(ひだい)二枚が、十八匁したこともあった。
(だいだい)一つが(*8)金二歩(ぶ)したこともあったが、高いから買わないということはなかった。
 京、大坂では、相場ちがいの物は、たとえ祝儀用の品であっても、よういに買おうとしない。
そこで相場にかまわず買ってしまう江戸っ子の気前を、大名気質(かたぎ)というのである。
京、大坂に住み馴(な)れて気の小さい者も、江戸で暮らすようになると太っ腹になって、銭をいちいちかぞえたり、(*9)小判の目方を量(はか)るのに、(*10)厘揉(りんだめ)を使うような細かいことをしなくなる。
定量よりも軽い小判を受け取っても、またそのまま先へ渡す。
金は世の中の回り持ちの宝だからというわけで、誰も調べたりなどしない。
 毎月十七、八日までに上方(かみがた)へ行くことになっている(*11)金飛脚(かねびきゃく)の宿をのぞいたことがあるが、たくさんの金銀が色も変わらずに積んであった。
これらは金銀は東海道を行ったり来たり、一年にいくど道中することであろう。
世の中で金銀ほど苦労するものはほかにない。
これほど世間に多いものではあるが、江戸でも小判一両もたずに年を越す者もいる。
 さて、武家方の歳暮(さいぼ)贈答の御使者が、屋敷から屋敷へ持参する(*12)太刀の目録・御小袖(こそで)・樽肴(たるざかな)・箱入りの蝋燭(ろうそく)など、何を見てもめでたい万代(よろずよ)の春の色をたたえている。
町々に立ちならぶ門松は、松の生いしげる千代田城の麓(ふもと)かと思われ、なおその名もめでたい松の常磐(ときわ)を名とする(*13)常盤橋に輝く朝日は、ゆたかに静かに万民の上を照らし、人々は日本(にっぽん)晴れの新春を楽しんでいる。
(*1)数万駄 一駄四十貫を限度とした。
(*2)十二月二十五日 原文に十五日よりとあるは誤り。二十五日から三十日まで日本橋通町の年の市(江戸惣鹿子)。
(*3)京羽子板 胡粉を塗った上に殿上人や内裏女房を描き、金銀箔を押した京都製の羽子板。次の毬打は玉ぶりぶりと言い、六稜形の金銀箔を置いた槌で木製の玉を打ち合う新春の玩具。
(*4)船町の魚市場 船町は今の日本橋本町一丁目。大正の大震災当時まで魚市場があった。
(*5)瀬戸物町・麹町 今の日本橋室町二丁目と同本町二丁目のうちで鳥屋があった。また麹町(一番町から六番町)にも鳥屋があった。
(*6)伝馬町 今の日本橋本町二、三丁目に当たる大伝馬町一丁目には綿問屋が多かった。
(*7)銀七、八分 一分は一匁(約千八百円)の十分の一。
(*8)金二歩 一歩は一両の四分の一で約二万七千円。
(*9)小判の目方  四匁八分(18グラム)が定量。
(*10)厘揉 厘・毛までの少量をはかる秤。厘秤(りんばかり)
(*11)金飛脚 江戸・京都。大坂間の金銀輸送の金飛脚は民間では寛文11年に始まる。江戸では主として駿河町にあった。早便で6、7日、並便で9、10日かかった。
(*12)太刀の目録 進物に太刀を添える折紙(鑑定書)。
(*13)常磐橋 今の千代田区大手町と中央区日本橋本石二丁目を結ぶ、旧外堀(日本橋川)に架かっていた橋。
(『現代語訳・西鶴 世間胸算用』暉峻康隆 小学館ライブラリー27 1992年)

(「リンダメ(厘揉)」(みのかも文化の森)

世間胸算用大晦日ハ一日千金 」(国立国会図書館)
武家方の歳暮贈答の使者の一行。右下の荷台は贈り物の雁・鴨。左は先触れの徒侍(かちざむらい)
今朝の父の一枚です(^^)/
今日も会えないなと諦めかけた時に出会えて喜んでいました。

第4章 都市の河川や池の水鳥―カワセミ
 ✤後退と復活


 この魅力たっぷりのカワセミは、水系の微妙な環境変化に敏感に反応することからも、環境を知るバロメーターとして多くの人に注目されてきた。
 東京では、昭和初期はもとより、戦後も都心部の河川や池などで普通に見られ、繁殖もしていた。
ところが、東京オリンピックの開催された1964年ころより、都心部から急速に姿を消した。
農薬や工場排水などによる水質汚染が深刻化した時代と一致している。
多摩川では、1970年ころまでに上流の秋川合流点あたりまで後退してしまった。
 消滅した原因はいろいろ挙げられる。
水質汚染にともなって、エサである魚類が激減したこと。
岸辺の崖などに穴をほって繁殖する習性があるが、岸辺がコンクリート化したことで大きな打撃をうけたであろう。
せっかく子育てをしていても、休日には水辺にたくさんの人が繰り出し、繁殖の妨害になったことも考えられる。
 このままでは、東京からカワセミが完全に消滅するのも時間の問題ではあるまいか、と危惧されたのである。
筆者も執筆に参加した当時の高校の生物の教科書(三省堂『新生物Ⅱ』)には、後退していく多摩川水系のカワセミの図を掲載したくらいである。
 ところが、たいへん不思議なことに、我々の予想に反して、1980年代になると、多摩川の中流域でカワセミの繁殖が観察されるようになり、その後、1982年には杉並区の和田堀公園、1985年には葛飾区の水元公園などでも繁殖するようになり、1988~89年には港区の自然教育園でも繁殖に成功するなど、一時はまったく姿を消してしまった都心部に再びカワセミがもどってきたのである。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)