風があまり吹かなかったので助かりました。
ここしばらく雨が降っていないので公園では、散水作業をしていました。
一方、
「日本海側中心に雪 札幌で積雪増 27日夜遅くにかけ十分注意」(北海道NHK)今年も残すところあと数日、京都の知恩院では、
「京都 知恩院で除夜の鐘の試しづき」(NHK)
昨日は、午前中はリハビリ散歩、午後からは風呂掃除をしていました。
でも、洗剤がなくなったのでまだ終わっていませんし、他の所も…(^^ゞ
blogの更新を時々、休んで掃除をすることになりそうです……
12月27日は大津皇子(おおつのみこ)の姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)が亡くなった日です(41歳)。
大津皇子が謀反の罪で死罪になったのに
大伯皇女が亡くなった日が『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記録されています。
巻第二 文武天皇 大宝元年(701)
12月27日 大伯内親王が薨じた。天武天皇の皇女である。
(『続日本紀(上) 全現代語訳』宇治谷孟 講談社学術文庫 1992年)
万葉集の歌の中で、好きな歌と聞かれた時に大伯皇女の歌が一番先に浮かびます。
大伯皇女の歌が好きなこともあって二上山によく登っていました。
2011年7月31日大津皇子の墓をお参りした時、
ズボンにヒカゲチョウが止まってくれたのを覚えています。
帰宅後、心筋梗塞を発症しました。
ちなみに二上山(にじょうざん)を「ふたかみやま」と呼ぶ方が好きです。
「二つの神の山」(雄岳、雌岳)と勝手に思っています。
奈良を歩いていた時に参考にしていた本から
二上山と大津皇子
山背大兄(やましろのおおえ)王も長屋(ながや)王も、身分が高く、才能があることが仇(あだ)となって、かえって身をほろぼした。
古代の政界ではその例がすくなくないが、天武天皇の皇子大津は典型的な一人であろう。
父が天皇であるだけでなく、母は天智天皇のむすめの大田皇女(おおたのひめみこ)である。
当時の政界ではこれ以上の血統はない。
その能力がすぐれていたことは、正史である『日本書紀』が、大津皇子が謀反の罪によって死を賜ったことを叙したつぎに、
容止墻岸(しやうがん<威儀がりっぱで>)、音辞俊朗なり。天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智)の愛する所となる。長ずるに及び、弁にして(わきまえがあって)才学有り。尤も文筆を愛(この)む。詩賦の興るは、大津より始まれり。
と賞揚していることでわかる。
(『奈良―古代史への旅―』直木孝次郎 岩波新書 1971年) 『懐風藻』にある大津皇子の伝には、より一層ほめたたえる。
状貌魁梧(くわいご<大きくりっぱ>)にして器宇峻遠(しゆんゑん)、幼年より学を好み、博学にしてよく文を属(つく)る。壮に及びて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。
姿は男らしく、大人物の器(うつわ)で、学問ができるえに武術も秀でている、というのである。
さらにつづけて
性頗(すこぶ)る放蕩(はうたう)、法度に拘(かかは)らず、節を下して士を礼す。是によりて人多く付託す。
性質は自由かってで規則に拘束されない、ざっくばらんに人とつきあうので、人気がある、と述べている。
このすぐれた男が、天武天皇の皇子であったばかりに、そうして兄である皇太子の草壁皇子と一つしか年がちがわないために、本人の意志と無関係に草壁皇子のライバルの地位に立たされ、草壁皇子の母で天皇の皇后の鸕野(うの)皇女に命をねらわれるのである。 危機は天武14年(685)9月天皇が病床に伏して以来深まった。
翌朱鳥元年のはじめ、病いは一時回復したが、5月ごろからまた悪くなった。
かつて近江の朝廷で、あの権勢ならびなかった天智天皇が死ぬと、半年あまりののちに、たちまち壬申の乱がおこり、天智天皇の皇太子大友皇子が戦いに敗れて自殺する光景が、鸕野皇后の脳裏に明滅したことであろう。
明敏にして実行力がある皇后――彼女もまた天智の皇女である――は考える、先手をうたなければならない。 大津皇子の母大田皇女は、早くなくなり、皇子の頼ることのできる肉親は、姉の大伯皇女ただ一人である。
しかしその姉は、天武3年以来遠く伊勢の斎宮(いつきのみや)にあって、伊勢大神に仕えている。
このとき23歳の若い皇子は、どんなにか姉のことを思っただろう。
朱鳥元年の夏をすぎても、天皇の病いは重くなるばかりである。
大津皇子が思いを決して大伯皇女のもとに行ったのは、その秋も深いころであったらしい。
このような時期に大津皇子のような人物が都をはなれることは、疑惑を呼ぶ危険な行為である。
百も承知のうえでの伊勢行きであろう。
不幸なめぐりあわせの姉弟のあいだにどのような会話がかわされたかは、知るすべはないが、別れにのぞんで大伯皇女が作った歌は、悲痛なしらべをたたえて、私たちの心を打つ。
わが背子を大和へやると小夜(さよ)ふけて暁(あかとき)露にわが立ちぬれし (『万葉集』105番)
二人行けど行きすぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ (『万葉集』106番) その後の経過はよく知られている通りである。
9月9日、天皇逝去、10月2日、大津皇子の謀反発覚、そうして早くも翌3日、皇子は訳語田(おさだ<磐余の付近>)で死を賜わる。
死にのぞんで作った漢詩一章(金烏<きんう>西舎に臨み、鼓声<こせい>短命を催<うなが>す、泉路賓主<ひんしゅ>なく、この夕<ゆふべ>家を離れて向かう)と和歌一首は、『懐風藻』と『万葉集』におさめられ、詩才のすぐれていることを示している。 大津皇子とともに、一味三十余人が捕えられたが、そのなかから新羅僧行心(こうじん)が飛騨へ、皇子の従者礪杵道作(ときのみちつくり)が伊豆へ流されたほかは、皆赦免された。
このことは、このいわゆる謀反事件が、大津皇子一人をねらいうちにするためにデッチあげられた一大疑獄であることを思わせる。 皇子の墓は、奈良盆地の西に美しい曲線をえがいてそびえる二上山の雄岳(おだけ)の上にある。
皇子の死をいたんで作った大伯皇女の歌、
うつそみの人なる吾や明日よりは二上山(ふたかみやま)を同母弟(いろせ)とわが見む (『万葉集』165番)
の詞書(ことばがき)に、「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬るの時」とあるが、このときに二上山の頂上のいまの場所に墓が作られたかどうかはわからない。
非命にたおれた皇子の霊をいたみ恐れる後人の手になったのではなかろうか。
皇子が死後悪竜となって、雲に騰(のぼ)り毒を吐き、天下を騒がせたという伝えが、鸕野皇后のちの持統天皇の建立した薬師寺の縁起(平安中期撰述の『薬師寺縁起』)にみえるのは、興味が深い。
のち奈良に移ったこの寺に、鎌倉時代ごろの大津皇子の木像がある。
持統天皇にかわって薬師寺の僧たちは、皇子の霊を丁重に祭りつづけたのであろう。
(『奈良―古代史への旅―』直木孝次郎 岩波新書 1971年)
「斎王大伯皇女と弟大津皇子」(「歴史の情報蔵」三重県)
「鳥谷口古墳(とりたにぐちこふん)」(葛城市)