少し、ポツポツと降ってきたりしましたが
日が射すと暑いと思うほど…
ソメイヨシノなんだけど外からは分からなかった
こんなに空洞ができていたのですね…
桜は「腐朽しやすい木」なんだそうです。
「桜の保護・植替え」(目黒区)「ロシア 派兵で戦死の兵士急増 サハリンで慰霊碑の除幕式」(NHK 12月11日)
息子を亡くした母親は「息子を誇りに思います。家族や祖国を守るために戦ったのです」と話し、
兄弟を亡くした女性は「この痛みをことばで表すことはできません」などと話していました。
朝ドラ「ブギウギ」で描かれている戦時中の日本と重なる。
靖国神社や忠魂碑などに祀られているように。 一銭五厘たちの横丁
…前略…
三十年前の下谷小学校で、母親はかなり気丈な顔つきで写っていた。
上車坂町の「橋本ポンプ屋の奥さん」は、もう七十五歳になっていた。
母の傍らで写っている妹は、ちょうどその母の年齢になっていた。
いま、この母を訪ねると、消火器を販売する店の奥で、家事に追われていた。
突然さし出された昔の写真に、母はギクッとし、想い出したくない話を、あがりはじめた雨あしのように、間をおいて話しはじめた。
(『一銭五厘たちの横丁』児玉隆也 著、桑原甲子雄 写真 岩波現代文庫 2000年) 橋本いいのさんには、三人の子があった。
中でも、すでに当時夫を失っていた家の大黒柱は、長男の芳郎さんだった。
中学を出ると家業のポンプ屋を継いで働いていた。
長男が出征したのは、十七年二月のことだった。
二十一歳の、眼鏡をかけてはいるが丈夫な子であった。
部隊が移動するという連絡を受け、母親はその日がいつだったかはもう忘れているが、駆けつけた品川の駅頭は一生忘れられようか。 「大勢の兵隊さんの中に、芳郎がいないかと、一生懸命になって探していたんです」
もう会えないかと思っていると、遠くのホームから出発しようとしていた列車の窓のカーテンがあがり、息子が手を振っている。
母は人ごみをかきわけて必死の思いで車窓にたどりつき、おハギを手渡した。
「そのオハギの入った紫色の風呂敷に包んだ重箱をかざし、息子は私にニッコリと笑ってくれたんです。それが――最後でした」
いいのさんは暗い土間の上りがまちで、声をつまらせ、細くなった目から光るものが糸になった。
現役で召集された芳郎さんを「三年たったら必ず帰ってくる」と信じて待っていた母は、三年たった二月になると、毎日、浦賀まで輸送船の出迎えに通った。
だが、最後の船にも息子の姿はなかった。
昨日の船で帰ってきたという息子の戦友と、母は帰り道でバッタリと逢った。
その戦友は、芳郎さんの部隊がニューギニアで、ほとんど全滅の状態だったことだけを告げると、母を不憫だと思い、それ以上は告げずに去った。 「どうしよう、あの子の弟と妹に、何ていってやればいいんだろうと思いました。上野に着くと家には帰れなくて、上野の山をうろうろと歩いていました。涙も出ませんでした。ただどうしよう、どうしようと思って歩いていただけでした」
夕方、暗くなって家に帰った母は、玄関に見なれぬ靴を見た。
泥にまみれた軍靴であった。母は
「芳郎かい!!」
と叫んで駈けあがった。 だが――、
そこに座っていたのは、見知らぬ軍服の人だった。
彼は目を伏せて、
「私は、息子さんの戦友であります」
といった。
戦友は、正座した膝の前に、小さな白木の箱を置いていた。
母は、すべてを察した。
「開けると、白木の箱には、息子の右手の親指の骨だけ入っていました」 戦死の公報もなかった。
どんな状態であの子が死んだのかもわからなかった。
お母さん! といって死んだのか、それもわからなかった。
ただ「もう還っては来ない」それだけが、わかった。
母は区役所に催促し、やっと公報をもらった。 一片の戦死公報には、ただニューギニアで戦死したということのほかは、何もわからない。
母はそれから息子の直属の上官や戦友の間を、北海道まで訪ねて歩いた。
訪ね歩いた人の数は六人である。
一人ひとりのいうことは全部くい違っていた。
母はそのたびに、
「あー、そうですか」と聞いているしかなかった。
「土民に撃たれて死んだとか、空襲で死んだとか、今さら追求したってはじまらないから、あきらめるしかないんですねェ」
…つづく…
(『一銭五厘たちの横丁』児玉隆也 著、桑原甲子雄 写真 岩波現代文庫 2000年)
こんなに空洞ができていたのですね…
桜は「腐朽しやすい木」なんだそうです。
「桜の保護・植替え」(目黒区)「ロシア 派兵で戦死の兵士急増 サハリンで慰霊碑の除幕式」(NHK 12月11日)
息子を亡くした母親は「息子を誇りに思います。家族や祖国を守るために戦ったのです」と話し、
兄弟を亡くした女性は「この痛みをことばで表すことはできません」などと話していました。
朝ドラ「ブギウギ」で描かれている戦時中の日本と重なる。
靖国神社や忠魂碑などに祀られているように。 一銭五厘たちの横丁
…前略…
三十年前の下谷小学校で、母親はかなり気丈な顔つきで写っていた。
上車坂町の「橋本ポンプ屋の奥さん」は、もう七十五歳になっていた。
母の傍らで写っている妹は、ちょうどその母の年齢になっていた。
いま、この母を訪ねると、消火器を販売する店の奥で、家事に追われていた。
突然さし出された昔の写真に、母はギクッとし、想い出したくない話を、あがりはじめた雨あしのように、間をおいて話しはじめた。
(『一銭五厘たちの横丁』児玉隆也 著、桑原甲子雄 写真 岩波現代文庫 2000年) 橋本いいのさんには、三人の子があった。
中でも、すでに当時夫を失っていた家の大黒柱は、長男の芳郎さんだった。
中学を出ると家業のポンプ屋を継いで働いていた。
長男が出征したのは、十七年二月のことだった。
二十一歳の、眼鏡をかけてはいるが丈夫な子であった。
部隊が移動するという連絡を受け、母親はその日がいつだったかはもう忘れているが、駆けつけた品川の駅頭は一生忘れられようか。 「大勢の兵隊さんの中に、芳郎がいないかと、一生懸命になって探していたんです」
もう会えないかと思っていると、遠くのホームから出発しようとしていた列車の窓のカーテンがあがり、息子が手を振っている。
母は人ごみをかきわけて必死の思いで車窓にたどりつき、おハギを手渡した。
「そのオハギの入った紫色の風呂敷に包んだ重箱をかざし、息子は私にニッコリと笑ってくれたんです。それが――最後でした」
いいのさんは暗い土間の上りがまちで、声をつまらせ、細くなった目から光るものが糸になった。
現役で召集された芳郎さんを「三年たったら必ず帰ってくる」と信じて待っていた母は、三年たった二月になると、毎日、浦賀まで輸送船の出迎えに通った。
だが、最後の船にも息子の姿はなかった。
昨日の船で帰ってきたという息子の戦友と、母は帰り道でバッタリと逢った。
その戦友は、芳郎さんの部隊がニューギニアで、ほとんど全滅の状態だったことだけを告げると、母を不憫だと思い、それ以上は告げずに去った。 「どうしよう、あの子の弟と妹に、何ていってやればいいんだろうと思いました。上野に着くと家には帰れなくて、上野の山をうろうろと歩いていました。涙も出ませんでした。ただどうしよう、どうしようと思って歩いていただけでした」
夕方、暗くなって家に帰った母は、玄関に見なれぬ靴を見た。
泥にまみれた軍靴であった。母は
「芳郎かい!!」
と叫んで駈けあがった。 だが――、
そこに座っていたのは、見知らぬ軍服の人だった。
彼は目を伏せて、
「私は、息子さんの戦友であります」
といった。
戦友は、正座した膝の前に、小さな白木の箱を置いていた。
母は、すべてを察した。
「開けると、白木の箱には、息子の右手の親指の骨だけ入っていました」 戦死の公報もなかった。
どんな状態であの子が死んだのかもわからなかった。
お母さん! といって死んだのか、それもわからなかった。
ただ「もう還っては来ない」それだけが、わかった。
母は区役所に催促し、やっと公報をもらった。 一片の戦死公報には、ただニューギニアで戦死したということのほかは、何もわからない。
母はそれから息子の直属の上官や戦友の間を、北海道まで訪ねて歩いた。
訪ね歩いた人の数は六人である。
一人ひとりのいうことは全部くい違っていた。
母はそのたびに、
「あー、そうですか」と聞いているしかなかった。
「土民に撃たれて死んだとか、空襲で死んだとか、今さら追求したってはじまらないから、あきらめるしかないんですねェ」
…つづく…
(『一銭五厘たちの横丁』児玉隆也 著、桑原甲子雄 写真 岩波現代文庫 2000年)