雪は降らないけど冷たい風が吹いて体感温度がさらに低くなって震え上がりそうでした。
北海道で暮らす同級生が、昨日のクラスのLINEに
「でも我が家は今日は最高気温がマイナス6度で~す」
「日本海側は暴風雪警戒 留萌は記録的な大雪で市民生活に影響も」(北海道NHK)今朝もぎっくり腰の痛みはきついです。
ちょっとした姿勢でビリッと痛みが走りウッ!!!となります。
公園でよく出会う高齢のご夫婦。
女性は、両手に杖をついて歩いておられる。
母も圧迫骨折がありながらも歩いていました。
40年近く前、初めてぎっくり腰に襲われました。
ベテランの看護師さんに私の肩に両手をつきなさいと言われて
電車ゴッコのようにして診察室に向かうと
「男は、ダメね…、子どもを産んだことがないから」
とおばあさんたちが会話を交わしていたのが聞こえてきました。
産みの苦しみに比べたら…(^_^;朝ドラ「ブギウギ」では、
愛助が学徒動員される仲間と違って自分は兵役免除になったことを
「ごっつい申し訳ない気持ちがあるんです」
とスズ子に話していました。
おでん屋の伝蔵さんが物資不足で店を閉めていましたし
チズさんが闇市で玉子を手に入れたとたまご雑炊を作っていました。
今朝のニュースでは
〝旧日本軍開発「風船爆弾」 基地についての調査資料見つかる〟(NHK)
予告編でスズ子と愛助が逃げ惑う様子が映されていました。
東京大空襲だと思います。
昨夜の番組で
サイエンスZERO「関東大震災100年 映像記録と実験で迫る 飛び火火災」
関東大震災などの情報からアメリカ軍は、日本の家屋は木造なので
通常爆弾よりも焼夷弾が有効だと日本に火の雨を降らせました。今週は、登場しないのかな?
茨田りつ子のモデル、淡谷のり子さんが、「ぜいたくは敵だ!」という大号令に抗して
ドレス姿や化粧などを貫き通したことは知っていましたが
それが何故できたのか?分かりませんでした。
ただ〝じょっぱり〟というだけでは、一個人の主張を貫けなかった時代でした。
「戦争を進める政府のキャンペーン」(小学6年)
それが淡谷のり子さんの自伝を読むとわかりました。
転記する本は絶版になっていますが、発売予定の本があります。
『生まれ変わったらパリジェンヌになりたい』(河出書房新社 12月27日発売予定)
それまで古い本ですが、一部を転記したいと思いますφ(.. )第六章 モンペなんかはくものか
戦争に負けますよ
戦争はますます激しくなっていました。
昭和14年(1939年)、政府と軍部は中国大陸での戦争を拡大し、戦局はいよいよ泥沼の様相を呈し始めました。
戦争がひどくなるにつれて、歌詞から衣裳まで、ことごとく文句を言われるようになりました。
愛だとか恋だとか、さみしいとか、そういう歌詞は一切だめ。
だから歌詞を変えるんです。
花が咲いたとか月が出たとか、風景なら許されるからめちゃくちゃな歌詞つけて歌ってましたよ。
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年) 私の楽団はアルゼンチン・タンゴの『夜明け』という美しい曲をテーマ・ミュージックにして、最初と最後にやってたんです。
そしたら、それもいかんと。
『見よ東海の空あけて』で幕を開けろって。
で、『紀元は二千六百年』で幕閉めろって。
しかたがありませんから、「はいはい」って聞いて、前と後にご指定のをやりましたけど、幕開けるのと閉めるのはちゃんと『夜明け』をやった。
『紀元は二千六百年』も、私、「二千は紀元六百年」なんて間違えて歌っちゃいましてね。
そうすると、警官が警官席に座って、歌詞を見ながら検閲しているんですが、文句言われるんです。
そして始末書を書かされる。 男は国民服にゲートル、女はモンペ着用が奨励されていました。
「パーマネントはやめましょう」とか「ぜいたくは敵だ!」などという馬鹿げたスローガンが叫ばれていました。
世の中全部がヒステリックになっていたんですね。
戦争が思うように早く勝てないのはおまえたちのおしゃれのせいだとでも言うように、軍はいちいち干渉するんですからね。
マニキュアが赤すぎる、ハイヒールは非国民的だ、黒いドレスはエロチックだ……馬鹿馬鹿しくて聞いちゃいられませんよ。
ボサボサ髪でモンペはいてステージに立って、シャンソンなど歌えるもんですか。
私はもう意地になって、細く長く眉を引き、ますます濃く口紅を塗ったんです。 ある時、銀座の資生堂で化粧品を買い、外に出たところ、私の前にいきなりビラが突き出されたんですね。
「ぜいたくは敵だ!」ってビラには書いてある。
それを国防婦人会だかなんだか、タスキ掛けの中年の女が私の派手な化粧を批難するような目をして、ビラを突き出してるんです。
街を歩いているとよくあることでしたが、その時は私もいいかげんに腹にすえかねたもんですね。
そして、化粧した顔をことさらその女の前に突き出すと、こう言ってやったの。
「これ、私の戦闘準備なの。贅沢なんかじゃありませんよ!」 相手は一瞬びっくりしていましたが、やがて、私の背中で「あれ、淡谷のり子よ」と憎らしそうに言う声が聞こえていました。
ほんとうに、こんな不愉快なことばかりだった。
歌い手の仲間でも、みんな軍国主義のお先棒かついじゃって……。
ステージで皇居遙拝して、軍歌をうたってるモンペの歌手なんかもたくさんいましたよ。
私はそれをしないから、淡谷のり子は生意気だ、非国民だ、けしからんとなるわけですよ。
歌手仲間からさえ批難されるんですから。
でも、普通の者だったらおたおた同調するかもしれないけど、しません、私は。 昭和16年(1941年)にとうとうアメリカと戦争を始めてからは、ますますひどくなったんですね。
楽器だって、英語は敵国語だから日本語で言わなきゃいかんというお達しなんですよ。
ピアノは〝洋琴〟、ヴァイオリンは〝提琴〟でしょ。
ドラムは〝太鼓〟、アコーディオンが〝風琴〟、〝手風琴〟ですね。
それからサクソフォンが面白いんです。
〝金属製先曲り音響音出し器〟っていうんです。
トロンボーンが〝金属製伸縮自由なんとかかんとか〟。
そんなこと言ってられますか。
もうここまできたら漫画ですね。 私のバンドも名前を変えさせられちゃった。
〝淡谷のり子とその楽団〟の〝……とその……〟がいけないというんですね、外国ふうだと。
なんでも外国ふうはだめなんです。
それでバンマスの大山さんの名前を借りて〝大山秀雄楽団 歌手・淡谷のり子〟に改称したんですね。
そのうちに楽団員もつぎつぎに応召していきました。
ひとり減り、ふたり減りして、残った人がまた病死したり、楽団もやってられなくなったんです。
戦死した人もいるんです。
バンドネオンがふたり、それからピアニストがひとり。
肝心なパートがみんないなくなっちゃった。
ですから、戦後になっても楽団を再編成しようと思っても大事なところがみんな死んじゃって、それができなかったんですね。 私のレコードは昭和14年の『別れのブルース』を皮切りに、ほとんど発売禁止です。
「センチメンタルに過ぎる」「時局柄好もしからざるもの」という理由なんですね。
戦後、二葉あき子さんがレコードを出した『夜のプラットフォーム』、あれはもともと私の歌なんです。
これも私はレコーディングしたんですが、発売禁止。
マークラスってユダヤ人の作曲家がいたんです。
その人が私の歌が好きで、私のために十曲ほど書いてくれたんですね。
その中のひとつが『夜のプラットフォーム』だったの。
それをステージで歌ってたんですが、コロムビアのディレクターがレコーディングしようと言うんで吹き込んだんです。
でも発売禁止です。 日米開戦を機に、コロムビアの役員連中はアメリカにみんな引き揚げたんですね。
アメリカ資本の会社でしたから、マークラスさんもその時に帰られた。
だから『夜のプラットフォーム』はマークラスさんの私への置き土産だったんです。
アメリカ人がいなくなってからのコロムビアはひどいもんでしたよ。
ずいぶんいじめられましたね。
私に歌わせようとしないんですから。
私の歌は外国のものが多いんですね。
『人の気も知らないで』とか『暗い日曜日』とか……。
このあたりのレコードは全部、発売禁止。
でもレコードが発売禁止のうちはまだよかった。
ステージ禁止、ステージでも歌っちゃいけないってことにやがてなったんですね。 世の中が戦争で騒々しくなると、こんな事態はいずれ来るに違いないって直感的に思ってたんですね。
レコードでもステージでも歌いたい歌を歌えなくなるじゃないかって。
そうなったら歌手としては死んだも同然ですからね。
だから、軍部に迎合して日の丸の張られたステージで、国民服やモンペ姿で軍歌などを歌う歌手たちを尻目に、私はまだ歌える間にブルースやシャンソンを必死で歌おうと思ってたんです。
なにか死期を悟った人間のように、私は私の歌にしがみつき、それを守ろうとしていました。 でもやがて、歌いたい歌は歌えない、外国の歌はもちろんだめ、という事態になってしまったんです。
そして私は軍歌は絶対に歌いたくない。
私に歌えるのは日本の歌曲、たとえば『城ヶ島の雨』とか、そんなものしかない。
それもさびしいとか悲しいとかっていう言葉は使えませんから、歌詞を直して歌うんです。
こんなに情けないことはありませんでした。
…つづく…
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)