「近畿地方厳しい暑さ 猛烈な暑さになるところも 熱中症警戒を」(関西NHK)
「防ごう熱中症(大阪)」(NHK)東京も熱中症に気をつけないといけないのだけど…
「防ごう熱中症(東京)」
「渋谷 ワクチン接種会場 29日も早朝から数十人の列」(NHK)
若者たちがワクチン接種で苦労している。
高齢者がネットでの予約で苦労していたのに
若者が並んでいる姿はどう考えたらいいのかな。
都知事は、若者が感染拡大を招いているかのように発言していたと思う。
「野戦病院」でなく「大規模臨時コロナ対応病院」などといえばいいのに!
橋下氏は8月6日のTwitterで「野戦病院」についてむきになって否定していたのに
知事がいいだすとコロッと態度を変えている。
知事は「野戦病院」をどうイメージして発信したんだろう。
戦争末期、沖縄での日本軍の野戦病院では、
この映像が、日本の首都東京で起きていることは世界中に流れているだろう。
そう言えば大阪の知事はまた刺激的な言葉を使っている。「野戦病院」でなく「大規模臨時コロナ対応病院」などといえばいいのに!
橋下氏は8月6日のTwitterで「野戦病院」についてむきになって否定していたのに
知事がいいだすとコロッと態度を変えている。
知事は「野戦病院」をどうイメージして発信したんだろう。
戦争末期、沖縄での日本軍の野戦病院では、
まともな薬や包帯などがなく傷口に蛆がわいたり
脚などの切断手術をするのに麻酔がないので女学生が体を押さえたりしていた。
部隊が移動するときに動けない兵士に青酸カリなどを与えたとも言われている。
そんな悲惨な状況しか思い浮ばない。
脚などの切断手術をするのに麻酔がないので女学生が体を押さえたりしていた。
部隊が移動するときに動けない兵士に青酸カリなどを与えたとも言われている。
そんな悲惨な状況しか思い浮ばない。
吉村知事はかつて「トリアージ」をやると発言していた。
〝大阪知事「病床トリアージやる」 重症者増加で方針〟(産経新聞 2020.11.19)
8月29日元和5年(1619.10.6) 幕府、京都七条河原でキリシタンを処刑(舜旧記)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
今は京都の町歩きを我慢しているのですが
2014年12月29日の記事などに「元和キリシタン殉教の地」を紹介しています。第四章 鎖国への道
元和(げんな)の大殉教
1620年(元和6)7月、キリシタン弾圧を加速させる事件が起きた。
この月の4日、台湾近海でマニラから宣教師二人を乗せた平山常陳(ひらやまじょうちん)の朱印船(しゅいんせん)が、イギリス・オランダ防御艦隊に拿捕(だほ)された。
この船は、渡航朱印状を所持していたが、二人の外国人が宣教師ではないかと疑いをかけられ、平戸(ひらど)まで曳航(えいこう)され、松浦隆信(まつらたかのぶ)に引き渡された。
アウグスチノ会とドミニコ会の二人の宣教師は、松浦隆信の、ついで長崎奉行長谷川権六(はせがわごんろく)らの拷問を交えた尋問にも容易には白状しなかった。
しかし、イギリス・オランダ側からの証拠の提出、棄教したキリシタンの証言、そして言語に絶する拷問によって捕縛されてから2年後に白状に追い込まれた。
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年) 1622年7月、幕府は、この二人の宣教師と船頭平山常陳を火刑に、同乗していた商人と水夫12人を斬首(ざんしゅ)し、翌8月、これまでに捕らえられていた宣教師ら21人とその宿主と家族ら34人、合計55人を長崎西坂(にしざか)で処刑した。
元和の大殉教と一般には呼ばれている事件である。
翌年10月には江戸においてイエズス会の宣教師や家康の家臣であった原主水(はらもんど)ら50人も処刑された。
(「17. カルディム 『日本殉教精華』 ほか・1646年」放送大学附属図書館) こうした宣教師の潜入を防ぐために、1622年の暮れから翌年春にかけて長崎に入港する外国船への監視が強化された。
その効果があったのか、1623年から1628年(寛永<かんえい>5)までのあいだに宣教師の密入国は一人もなかったといわれている。 さらに幕府は、1623年にはポルトガル人が日本に定住することと日本船の航海士になることを禁止し、また日本人のフィリピンへの渡航とキリシタンの出国とを禁止した。
翌年にはスペイン船の日本渡航を禁止し、ポルトガルに対しても乗船者名簿の提出を命じる措置をとった。 こうして日本人とヨーロッパ人との接触の機会を削減し、日本人の海外渡航に制限を加えていった。
そうした動向は、この年から日本船への渡航朱印状の発行が減少していることにも反映されている。 その後、キリシタンへの弾圧は日増しに強まっていった。
1626年、長崎奉行となった水野守信(みずのもりのぶ)は、長崎の住民に対し棄教令を出すとともに、雲仙(うんぜん)地獄での拷問を取り入れ、キリシタン弾圧を開始した。
そして、3年後の1629年に長崎奉行となった竹中重義(たけなかしげよし)は、弾圧をいっそう強化し、多くのキリシタンを転ばせた。
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年)第4章 キリシタンの道
災害と迫害
ところで「二十六聖人」の洛中引き回しは、京都が文禄の大地震にみまわれて間もない時期に展開した。
すなわちこの四カ月前の(1596年)閏七月十三日、京都および畿内を、マグニチュード7.5以上、マグニチュード8に近い規模の大地震が襲っている。
寒川旭氏の研究によれば、この地震は、有馬-高槻断層帯、および淡路島東岸の複数の活断層・先山(せんざん)断層の活動により発生したもので、京都盆地、大阪平野東部、六甲山地周辺、兵庫津、淡路島など、各所で液状化現象の痕跡が確認されたという。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年) この地震によって、秀吉のいた伏見城は倒壊し、多数の死者が発生した。
また山科言経(ときつね)の日記によれば、京都市街地の被災状況も、「近代是程の事無し」と「古老」に言わしめるほどの状況であり、下京の本願寺寺内町で300人、また「四条町」(現在の下京区新町通四条下ル「四条町」をさすか)では280人余りの死者が発生したという(『言経卿記』文禄五年閏七月十三日条)。
言経はまた、東寺の諸堂が倒壊した様子や、東山大仏の胸部から下が破損したこと、三十三間堂が歪んだことなども記している。
さらに市外へと目を転じれば、山崎でも家屋が倒壊し多くの死者が出ており、八幡においても家屋の倒壊がみられ、兵庫でも火災が発生し死者多数という状況であったといい、大坂では城は無事でも城下の町家の多くが倒壊し、数えきれないほどの死者が発生したという(『言経卿記』同日条)。
そして、翌年の2月27日まで余震の記事が続いている。
このような被災状況をふまえるならば、「二十六聖人」は、復興の途上にある洛中および大坂を目にしながら長崎へと向かっていったことになる。
この翌年には、第二次朝鮮出兵が行われており、秀吉の専制は地震によっていっそう強化されていったかのようにみえる。
サンフェリペ号事件の発生と地震の発生が、ほぼ同じ時期に起きたことは偶然であったといえ、被災地における修道者への迫害は、社会不安に対する権力の統制強化を、洛中の人々にまざまざと見せつける効果をもったのではなかろうか。 「二十六聖人の殉教」後も、京都および日本においてキリスト教を信仰し続ける人々は絶えることがなかった。
豊臣政権に続いて成立した徳川政権は、いっそう激しい禁教と弾圧を加えている。
『京都の歴史』(京都市編、第4巻桃山の開花、学芸書林、1969年)によれば、慶長18年(1613)には、「俵責め」による転宗の強制が信者たちになされたという。
首だけ出した状態で米俵に詰め込まれた信者たちは、そのまま転がされ、なおも転宗しない場合には、鴨河原に俵ごと積み重ねられ、圧迫される苦痛に耐えねばならなかったという。さらに元和5年(1619)には、「元和の大殉教」とよばれる凄惨な迫害がなされ、幼児や妊婦を含む52名のキリシタンが七条河原で火あぶりの刑に処せられ殉教している。
現在、七条河原の地に、1994年(平成6)に建てられた「元和キリシタン殉教の地」と彫られた石碑がある。
杉野榮氏によると、碑の下には、52名の名前を記したリボンと、寄付者の名簿、中山正美筆・バチカン美術館秘蔵の殉教図の絵葉書、長崎日本二十六聖人記念館館長・結城了悟氏の著書『京都の大殉教』、殉教の地を示すケンペルの地図が納められているという。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)