2021年8月2日月曜日

今日から…

今日から大阪に「緊急事態宣言」が出ました。
前回のように駐車場が閉鎖されるのか心配になり、
昨日、パークセンターに問い合わせをすると正式な通知は来ていないけど利用できるとの返事。
巣もごりにかかせない百貨店の書店も今回は利用できるようです。

2日から大阪に「緊急事態」兵庫 京都に「まん延防止措置」〟(関西NHK)

 俵万智さんのTwitterに

ちぐはぐな
パッチワークを見るように
五輪のニュース、
コロナのニュース
 安田菜津紀さんのTwitterに

「感染拡大と五輪開催を結びつける意見があるが、筋違いだろう」
「原因を五輪に求めるのは、選手たちにも失礼」という社説。
「懸念の声=選手に失礼=悪」なのか。
批判を許さない空気をメディアが作ることで、社会にどんなリスクをもたらすのかを省みる必要があるのでは。


緊急事態拡大 緩みは五輪のせいではない」(読売新聞 7月31日)
テレビをチラッと見たら台風の予想進路が東北地方を襲う設定になっていた(「おかえりモネ」)。

2016年8月の時点では、東北の太平洋側(岩手・宮城・福島)に上陸した台風は、(実際にも)統計的には一つも無かったからです。
海水温の上昇により、台風が発達しやすくなっていることは、地球温暖化の影響があるそうです。

「おかえりモネ」ドラマの中の台風8号は実在していた 台風コースに異変があるのか〟(森田正光 YAHOO!ニュース)
 Ⅲ 孤独の章

  鎮魂歌


……
 「群像」八月号に掲載された「鎮魂歌」は、「僕」という一人称で語られる。
被爆体験、その後の東京での暮らし、妻との思い出などが描かれるが、それらは断片として途切れ途切れに読者の前に提示され、もはや小説としての結構を持たない長大な散文詩のような作品になっている。
 「僕」の耳に聴こえてくるさまざまな声と言葉。
一瞬の幻のように立ち現れては消えてゆく父や姉、妻、友人、原爆の死者たちの姿――。
原が死を選ぶに至る過程を見ていくときに欠くことのできない作品だが、主情的かつ難解であり、発表当時の評判はよくなかった。
 「夏の花」で抑制的に描かれた原爆の死者たちは、ここでは原自身の魂に突き刺さり、存在を根底から揺さぶるものとして、饒舌に語られる。
……
(『原民喜 死と愛と孤独の肖像』梯久美子 岩波新書 2018年)
 NHKで放送された「悲しみから逃げない ~没後70年 原民喜の言葉~」でも取り上げられていた『鎮魂歌』
私のように注意散漫な人間は、途中でどこを読んでいるのかわからなくなります(^^;
そんな私が中学生のころから工夫していた方法は、本を読むとき鉛筆でなぞっていました。
ですから私が読む本は、古本屋さんに売ることができません(^^ゞ

これから『鎮魂歌』を転記したいと思いますが、きっと途中で文章を飛ばしたりすると思います。
また、いつものことですが勝手に行替えをしています。
文庫本などに収録されていますので手に取って読んでください。
  鎮 魂 歌

 美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。
深い空の雲のきれ目から湧いて出てこちらに飛込んでゆく。
僕はもう何年間眠らなかつたのかしら。
僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる。
息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は、ここもたしかに宇宙のなかなのだらうか。
かすかに僕のなかには宇宙に存在するものなら大概ありさうな気がしてくる。
だから僕は何年間も眠らないでゐることも宇宙に存在するかすかな出来事のやうな気がする。
僕は人間といふものをどのやうに考へてゐるのかそんなことをあんまり考へてゐるうちに僕はたうとう眠れなくなつたやうだ。
僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる、息をするもひだるいやうな、このふらふらの空間は……。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
  僕は気をはつきりと持ちたい。
僕は僕をはつきりとたしかめたい。
僕の胃袋に一粒の米粒もなかつたとき、僕の胃袋は透きとほつて、青葉の坂路を歩くひよろひよろの僕が見えてゐた。
あのとき僕はあれを人間だとおもつた。
自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に繰返し繰返し云ひきかせた。
それは僕の息づかひや涙と同じやうになつてゐた。
僕の眼の奥に涙が溜つたとき焼跡は優しくふるへて霧に覆はれた。
僕は霧の彼方の空にお前を見たとおもつた。
僕は歩いた。
僕の足は僕を支へた。
人間の足。
驚くべきは人間の足なのだ。
廃墟にむかつて、ぞろぞろと人間の足は歩いた。
その足は人間を支へて、人間はたえず何かを持運んだ。
少しづつ、少しづつ人間は人間の家を建てて行つた。
  人間の足。
僕はあのとき傷ついた兵隊を肩に支へて歩いた。
兵隊の足はもう一歩も歩けないから捨てて行つてくれと僕に訴へた。
疲れはてた朝だつた。
橋の上を生存者のリヤカーがいくつも威勢よく通つてゐた。
世の中にまだ朝が存在してゐるのを僕は知つた。
僕は兵隊をそこに残して歩いて行つた。
僕の足。
突然頭上に暗黒が滑り墜ちた瞬間、僕の足はよろめきながら、僕を支へてくれた。
僕の足。僕の足。僕のこの足。恐しい日々だつた。
滅茶苦茶の時だつた。
僕の足は火の上を走り廻つた。
水際を走りまはつた。
悲しい路を歩きつづけた。
ひだるい長い路を歩きつづけた。
真暗な長いひだるい悲しい夜の路を歩きとほした。
生きるために歩きつづけた。
生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかつて訊ねてみた。
自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。
僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。
僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。
お前たちは花だつた。
久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。
僕は歩いた。
僕の足は僕を支へた。
僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。
  人間の眼。
あのとき、細い細い糸のやうに細い眼が僕を見た。
まつ黒にまつ黒にふくれ上つた顔に眼は絹糸のやうに細かつた。
河原にずらりと並んでゐる異形の重傷者の眼が、傷ついてゐない人間を不思議さうに振りむいて眺めた。
不思議さうに、不思議さうに、何もかも不思議さうな、ふらふらの、揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、おそろしいものに視入つてゐる眼だ。
水のなかに浸つて死んでゐる子供の眼はガラス玉のやうにパツと水のなかで見ひらいてゐた。
両手も両足もパツと水のなかに拡げて、大きな頭の大きな顔の悲しげな子供だつた。
まるでそこへ捨てられた死の標本のやうに子供は河淵に横はつてゐた。
それから死の標本はいたるところに現れて来た。
 人間の死体、あれはほんたうに人間の死骸だつたのだらうか。
むくむくと動きだしさうになる手足や、絶対者にむかつて投げ出された胴、痙攣して天を掴まうとする指……。
光線に突刺された首や、喰ひしばつて白くのぞく歯や、盛りあがつて喰みだす内臓や……。
一瞬に引裂かれ、一瞬にむかつて挑まうとする無数のリズム……。
うつ伏せに溝に墜ちたものや、横むきにあふのけに、焼け爛れた奈落の底に、墜ちて来た奈落の深みに、それらは悲しげにみんな天を眺めてゐるのだつた。
 人間の屍体。
それは生存者の足もとにごろごろと現れて来た。
それらは僕の足に絡みつくやうだつた。
僕は歩くたびに、もはやからみつくものから離れられなかつた。
僕は焼けのこつた東京の街の爽やかな鈴懸の朝の鋪道を歩いた。
鈴懸は朝ごとに僕の眼をみどりに染め、僕の眼は涼しげなひとの眼にそそいだ。
僕の眼は朝ごとに花の咲く野山のけはひをおもひ、僕の耳は朝ごとにうれしげな小鳥の声にゆれた。
自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。
僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせゐだ。
僕のなかで鳴りひびく鈴、僕は鈴の音にききとれてゐたのだが……。
 だが、このふらふらの揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、ふらふらの、今もふらふらと揺れかへる、この空間は僕にとつて何だつたのか。
めらめらと燃えあがり、燃え畢つた後の、また燃えなほしの、めらめらの、今も僕を追つてくる、この執拗な焔は僕のとつて何だつたのか。
僕は汽車から振落されさうになる。
僕は電車のなかで押つぶされさうになる。
僕は部屋を持たない。
部屋は僕を拒む。
僕は押されて振落されて、さまよつてゐる。
さまよつてゐる。
さまよつてゐる。
さまよつてゐるのが人間なのか。
人間の観念と一緒に僕はさまよつてゐる。
  人間の観念。
それが僕を振落し、僕を拒み僕を押つぶし僕をさまよはし僕に喰らひつく。
僕が昔僕であつたとき、僕がこれから僕であらうとするとき、僕は僕にピシピシと叩かれる。
僕のなかにある僕の装置。
人間のなかにある不可知の装置。
人間の核心。
人間の観念。
観念の人間。
洪水のやうに汎濫する言葉と人間。
群衆のやうに雑沓する言葉と人間。
言葉。言葉。言葉。
僕は僕のなかにある ESSAY ON MAN の言葉をふりかへる。
  死について  死は僕を生長させた。
  愛について  愛は僕を持続させた
  孤独について  孤独は僕を僕にした
  狂気について  狂気は僕を苦しめた
  情欲について  情欲は僕を眩惑させた
  バランスについて  僕の聖女はバランスだ
  夢について  夢は僕の一切だ
  神について  神は僕を沈黙させる
  役人について  役人は僕を憂鬱にした
  花について  花は僕の姉妹たち
  涙について  涙を僕を呼びもどす
  笑について  僕はみごとな笑がもちたい
  戦争について  ああ戦争は人間を破滅させる 
 殆ど絶え間なしに妖しげな言葉や念想が流れてゆく。
僕は流されて、押し流されてひとひとになつてゐるらしい。
僕は何年間もう眠れないのかしら。
僕の眼は突張つて、僕の空間は揺れてゐる。
息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間に……。
ふと、揺れてゐる空間に白堊の大きな殿堂が見えて来る。
僕はふらふらと近づいてゆく。
まるで天空のなかをくぐつてゐるやうに……。
大きな白堊の殿堂が僕に近づく。
僕は殿堂の門に近づく。
天空のなかから浮き出てくるやうに、殿堂の門が僕に近づく。
僕はオベリスクに刻られた文字を眺める。
僕は驚く。
僕は呟く。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v
スズメの朝ご飯はカマキリ(ハラビロカマキリ?)。
カマキリに会いたいなと探すのですが、
スズメの眼力にはカナイマセン!

鳥が虫に食べられることだってある
 生態系はピラミッド構造をしています。
タカが小鳥を食べ、小鳥が虫を食べ、虫が植物を食べて生活しています。
小鳥たちをねらうのはタカばかりではありません。
山野ではキツネやイタチなどの肉食哺乳類が、農耕地ではモズが、町中ではカラスが襲ってきます。
小鳥たちは常に捕食者の目にさらされているといってよいでしょう。
 とはいえ、小鳥たちもピラミッドの下位にいる虫などを食べているわけですから、お互い様です。
この確固たるピラミッド構造が生体系を支えており、より下位にいる種は上位の種の食物になることが大切な役割となるのです。
 しかし、ときにハエトリグサが昆虫を捕らえるように下剋上が起こることもあります。
なんと、シジュウカラがオオジョロウグモの巣にかかって食べられたり、オオカマキリが小鳥を捕らえたり、ふだんは食物として侮っている相手に逆襲されることがあります。
いやはや〝窮虫鳥を噛む〟とは油断できません。
 敵は陸上だけではありません。
サギが魚を食べているそばで、スッポンが小鳥を水中に引きずりこんだり、ヨーロッパではオオナマズがハトを丸飲みしたりすることもあります。
この世界は危険に満ちており、絶対の安全などありません。
こうなるとスズメがタカを返り討ちする日が来ないかと期待してしまいます。
くちばしを赤く濡らしたスズメがいたら、それは新たなクーデターのはじまりかもしれません。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)