2020年7月7日火曜日

七夕だけど…

強風注意報が出ていてどうしようかと迷ったのですが、
小雨だったので出かけました。
写そうとすると風で傘が飛んでいきそうになった…
早目に帰ることにしましたが、帰る頃にはセミが鳴きだしました。
七夕に雨はつきもののようですね。
牽牛と織姫が逢っている所を見られたくないのかな?(*´▽`*)
七夕と雨」(こよみのページ)
小暑
 七夕は「しちせき」とも読む五節句の一つ。
「棚機(たなばた)」という日本の古い神事が変化したものともいわれ、今と違って昔は、梶(かじ)の葉に書いた和歌に願いを込めていたそうです。
 私にとって京都の七夕で身近なのは北野天満宮と白峯神宮(しらみねじんぐう)
天神さんでは、ご祭神の道真様が、七夕に歌をお詠みになったという伝えにちなんで神事とお祭りが、とり行われます。
また、球技や芸事上達の神様として有名な白峯神宮さんでは、精大明神(せいだいみょうじん)様に蹴鞠(けまり)と、西陣のかわいい小町さん達による「七夕小町をどり」が奉納されます。
(『京都のいちねん――私の暮らしの約束ごと』小林由枝 祥伝社 令和元年)
7月7日
 盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まった。 1937(昭和12)年

 盧溝橋(ろこうきょう)は北京郊外の永定河(えいていが)にかかる大理石の美しい橋で、近くに中国軍の駐屯地(ちゅうとんち)があった。
この夜、日本軍は橋のそばで夜間演習を行なっていた。
午後10時半ごろ、日本軍が中国軍陣地に向けて空砲を発射したところ突然中国側から実弾数発が飛んできた。
あわてた清水中隊長が点呼(てんこ)をとると、1名が行方不明と判明した。
実はこの兵隊は用を足しに、ちょっと隊を離れただけだった。
だが、その間に事態はどんどん拡大し、4時間後には大隊も到着した。
牟田口(むたぐち)連隊長の「断固戦え」の命令とともに、日中戦争の幕が切って落とされた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
七夕の夜に物騒な出来事…
加藤陽子さんが中学・高校生に授業した時の記録
それでも、日本人は「戦争」を選んだ』より
4章 満州事変と日中戦争」の導入部分、
当時の人々の意識 謀略で始まった作戦と偶発的な事件と」を転記しますφ(..)
4章 満州事変と日中戦争
 当時の人々の意識 
  謀略で始まった作戦と偶発的な事件と


 こんにちは。今日は、満州事変と日中戦争についてお話しします。
満州事変のほうは、1931(昭和6)年9月18日、関東軍参謀の謀略によって起こされたもので、日中戦争は、37年7月7日、小さな武力衝突をきっかけとして起こったものです。
ここで、満州事変には「起こされた」という言葉を使い、日中戦争には「起こった」という言葉を使ったことに注目してください。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子 朝日出版社 2009年)
 満州事変のほうは、2年前の29年から、関東軍参謀の石原莞爾(いしはらかんじ)らによって、しっかりと事前に準備された計画でした。
関東軍というのは、日露戦後、ロシアから日本が獲得した関東州(中心地域は旅順<りょじゅん>・大連<だいれん>です)の防備と、これまたロシアから譲渡された中東(ちゅうとう)鉄道南支線、日本側はこの鉄道に南満州鉄道と名前をつけましたが、この鉄道保護を任務として置かれた軍隊のことをいいます。
その鉄道線路の一部を自ら爆破し、それを中国側のしわざだとして、中国東北部(満州)のなかでも、遼寧(りょうねい)省の奉天(ほうてん<現在の瀋陽(シェンヤン)>)にあった張学良(ちょうがくりょう)の軍事的根拠地など、大切なポイントを一挙に占領してしまう。
 張学良は、このとき、東三省(遼寧省、吉林<きつりん>省、黒龍江<こくりゅうこう>省)の政治的軍事的な支配者であり、南京を首都とする国民政府の蒋介石(しょうかいせき)主席ともよい関係を築いていた若きリーダーでした。
9月18日の夜は、張は自らの陣営を離れ、北平(ほくへい<北京、南京に首都が移ってからの呼称>)にいました。
これも手が込んだ謀略で、日本の特務機関が、張に対する反乱を華北で起こさせ、反乱鎮圧のため、張が本拠地を留守にするようにしむけたのです。
張は自らの軍隊である東北軍の精鋭11万を率いて、万里の長城を越えて華北にいました。
満州にはいなかった。
 日本側は、なぜこのような手の込んだ謀略を行なったうえで、満州事変を起こしたのでしょうか。
それは、兵力の差ですね。
関東軍は、内地から2年交替で派遣されてくる師団と独立守備隊というものから構成されていましたが、合わせて約1万人余りしかいなかった。
それに対して張学良の率いる東北軍は約19万人もいました。
石原莞爾は戦後、極東国際軍事裁判所に提出した宣誓供述書(立会人の前で、ここで書かれている文章の内容は正しいですよ、ということを宣誓したうえで供述した文章)のなかで、装備が優れ、20万人ほどもいた張学良軍にくらべ、装備も劣り、1万人ほどしかいない関東軍が、いかにも心細い思いをしていたかとう点を強調して、満州事変が謀略であったことを隠していました。
石原の述べている兵力差は、19万を20万としているだけで、だいたい正確といえますが、東北軍のうち11万が満州にいなかった点、ここが実はいちばん重要なのですが、この点を正直に述べていない。
 ここで、石原のプロフィールについて簡単にご紹介しておきます。
彼は関東軍参謀として満州事変を計画した人ですが、自らが参謀本部の作戦部長であったときに起きた日中戦争に関しては拡大に反対して、さっさと作戦部長を辞して、関東軍の参謀副長として満州に行ってしまったという変わった経歴の持ち主なので当時も人気がありましたし、今もなお人気があります。
石原が生まれたのは、1889(明治22)年で、明治憲法発布の年、つまり彼は憲法の時代の子でもある。
そして、多感な頃にちょうど日露戦争がくる。
さて時は移り昭和になって、大人になった石原と満州で一緒に仕事をすることとなった内務官僚・武部六蔵(たけべろくぞう)という人が記した石原評は次のようなものでした。
  石原莞爾君は真崎(まさき[甚三郎(じんざぶろう)])大将の無罪の判決を無茶だと批評し、また、かかる判決をなす陸軍の上層部が色々訓示などを出すのは、紙だけ浪費だと食堂で話していた。
  彼の話しはいつでも皮肉であり、真相を握り、そして朗(ほがら)かだ。
  しかし、同時に扇動(せんどう)的な処(ところ)も多分にある。
 これは、1936(昭和11)年2月に起きた陸軍の反乱事件、二・二六事件の判決が下されたとき、満州の地で石原がどんな話をしていたか、食堂での石原の会話を、武部が書き留めたものです。
なんだか、石原という軍人のイメージがわいてきませんか。
まずは、二・二六事件の黒幕といわれた真崎大将に対して、陸軍が無罪判決を下すのはまちがっている、こう石原は批判する。
しかし、ユニークなのは、その表現ですね。
「無茶」の一言です。
そのうえで、このようなだめな判決を出す陸軍省が立派な顔をして訓示などを偉そうに送ってくるのは、「紙だけ浪費」だと。
武部は石原を、皮肉な話しぶりをするが、真相をとらえており、明るく、しかし、人を扇動するようなところがあると的確に評価しています。
 石原は陸軍中央をののしることが多かったために、反体制的な落ちこぼれの軍人であったと受けとられることもあるのですが、大変なエリートです。
12歳で陸軍幼年学校に入り、そこを首席で卒業し、陸軍士官学校、陸軍大学校をすいすいと通過し、陸大では2番だったといいます。
成績優秀ということで、天皇から軍刀をもらう。
のちの太平洋戦争中、石原は東条英機(ひでき)陸相からその言論に対して睨(にら)まれ、『戦争史大観』という、中央公論社から出されるはずだった著書を事実上、発禁にされてしまうなど、不遇な環境にも置かれる。
 さて、少し話を戻しましょう。
満州事変の計画性に対して、1937年7月7日に起きた日中戦争のほうは偶発的な事件、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけにしていました。
もちろん、事件がおきてもおかしくない、構造的な要因はずっと前から蓄積されていたのですが。
盧溝橋は、12世紀末につくられた、北京郊外の永定河(えいていか)に架けられた橋で、マルコ・ポーロが『東方見聞録』でその橋の美しさを称(たた)えたことで有名です。
この橋の北側の河川敷で夜間演習を行なっていた日本軍、当時は支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん)と呼ばれていたのですが、この軍隊と、中国側の第29軍との間で、小さな衝突が起こってしまいます。
 構造的な要因があるといったのは、次のようなことですね。
2章でお話しした1900年の北清(ほくしん)事変(清朝政府が、国民のなかから起こった義和団の排外主義運動に乗っかってしまって、列強に挑戦した事件)の解決のための北京議定書という条約によって、英仏独露などの列強とともに、日本は在留邦人保護を理由として、天津(てんしん)周辺に軍隊を駐屯させることを認められたわけです。
そして置かれたのが支那駐屯軍でした。
ですから、確かに条約上の根拠はある。
 ですが、盧溝橋事件の前年、36年6月、日本側だけが、これまで1771人であったものを、中国側との事前の協議なしに5774人に増強してしまった。
一挙に3倍に増やしたことの意味は大きいでしょう。
このときに新しくつくられた駐屯地、つまり軍隊が日々生活する場所ですが、そこが盧溝橋事件にかかわる豊台(ほうだい)の兵営だった。
豊台は重要な地点で、北京の西南郊外にあって鉄道の分岐(ぶんき)する場所でした。
豊台の隣には中国軍の兵営がありました。
そのような場所で模擬弾をつくって夜間の演習をやった。
これで事件が起らないほうが不思議でしょう。
 今日は、満州事変から日中戦争にいたる過程をお話ししますので、それを聞いてもらえればわかるはずですが、日本に対する憎しみ、抗日意識は中国の兵士のなかにもだんだんとたまってきていた。
マッチが擦(す)られれば、一気に燃えあがるだけの土台はできていたということです。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子 朝日出版社 2009年)

この後、授業になります。
教え込む授業ではなく、考えることの面白さ・大切さを教えてくれます。
今朝の父の一枚です(^^)v
ついこの前に咲き出したと思ったら、一気に咲きました。
きっと青空を見たいだろうなぁ

昨日は、出かけようとしたら急に体調が悪くなり、血圧を測ると147と99。
諦めて横になって休んでいると115と76になったので
眼科を受診して眼底検査を受けようと、出かける前に体温を測ると37度になっていました。
もしものことがあったらと思い、受診を諦め、ひたすら寝ることにしました。
そのおかげで昼には36.6度に下がっていました。
寝ている時にすごい雨音が聞えていました。
父や妹と夕食を食べながら
母が、散歩に出かけるのをやめときなさいと教えてくれたのかも知れないねと話していました。
大阪では、避難をするほどではないけど
九州豪雨 熊本中心に52人死亡 2人心肺停止 12人不明 捜索続く」(NHK)
コロナのことがなかったら、避難して助かった人がいるかもしれない。