2020年7月30日木曜日

急に天気が変わり…

今日は曇り空だなと思っているとしだいに暗くなってきた。
そんなにひどい雨ではなかったけど早目に帰りました。
梅雨明けのニュースが届いていますが
もうしばらくは天候の急変に気をつけなくていけないようです。

九州北部 四国 中国地方で梅雨明け 猛暑日の予想 熱中症に注意」(NHK)
咲くのを楽しみにしているのが、クサギの花。
今日か明日咲きそうな蕾を見つけました。
明日は、父が歯科通院なので散歩に来ることができませんが、
父の話では、クサギの葉を食べたことがあるそうです。

以前、コロナで歯科への通院をためらい虫歯を悪化させる人が多いと報道されていました。
コロナで虫歯の悪化が相次ぐ」(関西 NHK 7月23日)
プロフェッショナル「闘いは、始まったばかり~感染症専門医・笠原敬~
よく取材を受け入れたなと思いました。
国内で初めて感染した日本人患者が搬送された奈良県立医科大学附属病院

情報が、人を動かす
この緊迫感とかこの状況を、もっと隠すのではなくて出さなあかん

(無症状の陽性患者が入院していたことが分かった。)

隠さずに、伝える
(対応について)やりすぎたんじゃないですかって思っている人が多いんじゃないかなと思うですけど
一時的に何か文句言われても、心ない言葉をかけられたとしても、あんまり関係ないかなっていう
やらないことのリスク、やらなかったときに生じたことに関する責任とかって
すごい軽視されているなっていうのがあって

笠原敬さんが作成したお知らせ
新型コロナウイルス感染者の発生について

(「診療縮小による赤字は2か月で15億円の見込み」という病院長の話に政府の愚策、無駄遣いで病院が経営崩壊しかけていると思う。)

まだ、始まり
まだ始まりというか、
(第一波が)収束してからのほうが怖いですよね、どっちかっていったら。
みんなの感覚がまひして、また元に戻っていくっていうのが
普通に考えたら第一波よりも、第二波のほうが増加のペースは早い。
あるいはコントロール不可能
学校で感染して家に持ち帰るパターンは、ライブハウスと同じような話なので
ストップかけて間に合うのが、どのタイミングかっていうとこですよね。

笠原さんが危惧した事態が東京だけでなく大阪でも起きています。
再放送8月3日(月)午後11時45分~
7月30日
 明治天皇が死去した。 1912(明治45)年

 天皇重態の知らせに、二重橋(にじゅうばし)前は、詰めかけた人々で埋まっていた。
病状を気づかう人々のおもいもむなしく、この日午前零時43分、明治天皇は59年にわたる生涯を終えた。
すぐに官報の号外が出され、当日の朝刊はいっせいに天皇の死を報道し、町には新聞の号外がとびかった。
 天皇死去のニュースは、海外にも伝わり、外国の新聞でも報じられた。
イギリスの新聞『タイムズ』は、その社説で、天皇の死と日本の将来について、「近代日本の最盛期はこの天皇一代をもって終るであろう」と予言した。
 天皇の死は、大きな波紋を描いていった。
陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)は天皇の葬儀(そうぎ)がおこなわれた9月13日に、自室で天皇の写真を前に自殺した。
乃木の自殺を聞いた小説家の志賀直哉(しがなおや)は、その日の日記に「馬鹿な奴だ」と書いていた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
晩年と死後
 1890年代末以降には、天皇の身体も徐々に衰えが見え始めた。
99年には、運動不足により肥満となっていた天皇の肉体に対して、侍医が警告を発した。
1904年には、糖尿病が発見されたのに加えて、慢性の腎臓病も患うようになる。
それでも天皇は、侍医が勧めた京都滞在も、皇太子のために作られた御用邸などでの避暑や避寒も一切せず、東京での公務に専念し続けた。
その意味でこの天皇には、大正天皇、昭和天皇と異なり、「私」というものがなかった。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 12年7月19日、天皇は夕食時に突然、「目がくらむ」と言ったまま意識を失い、それからわずか10日後の29日に死去した(公式には30日と発表)。
しかし徳富蘆花(とくとみろか)に代表されるように、「神」となった天皇に死はあり得ず、明治は永久に続くと考えていた当時の人々は少なくなかった。
8月、追号は初めて元号をとり、「明治」が贈られた。
9月に青山練兵場で「大喪の儀」が行われ、天皇の亡きがらは京都郊外に新たに造営された伏見桃山陵に葬られた。
天皇は死後ようやく、京都に帰りたいというかねてからの望みをかなえることができたのである。
20年に東京に作られた明治神宮は、天皇陵を京都にとられた東京市民による、せめて明治天皇を祭神とする神社を東京に建てたいという熱烈な思いの現れであった。
こうして天皇は死後、文字どおり「神」となった。
 昭和になり、再び天皇のカリスマ性が強まるとともに、明治天皇に対する再評価の気運が高まりを見せる。
天皇の誕生日だった11月3日には明治節として祝日となり、雑誌『キング』では「明治大帝」の特集が組まれる。
明治天皇が全国を回ったときに宿泊したり滞在したりした場所を「聖蹟」として顕彰する文部省のキャンペーンが始まるのも、昭和初期である。
明治天皇から「次の次」として期待を託された昭和天皇は、その期待に応えるべく、人々に大正を忘却させ、「偉大なる明治」を指導した明治天皇の再来として認識されなくてはならなかった。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)

アイボに、「これ以上国の無策の中、感染者が増えるのは我慢できない。
言いたいことを明日の記者会見でぶちまけていいか」と尋ねたら、
「どんどんやれ」と言われたので、ピース・サインで返しました。
明日の15:00からの東京都医師会の記者会見、注目してください。