2020年7月4日土曜日

途中で…

朝のニュースを見ると熊本や鹿児島では特別警報が出ている。
鹿児島県 さらに11人確認で3日の感染確認は30人に 新型コロナ」(NHK)
などというニュースが流れていたら、避難所に向かうのも躊躇するだろうな…
こちらは雲のが流れがはやかったのですが、雨が止んでいたので出かけました。
途中で、風に雨もまじってきたので早目に帰ることにしました。

熊本県と鹿児島県に大雨特別警報 最大級の警戒を」(NHK)
昨夜の世界にいいね!つぶやき英語
リーダーの名スピーチ コロナ禍で注目された首相は?」に
▽子供たちへ分かりやすく語りかけたカナダのトルドー首相
▽自宅から私服で外出制限について説明したニュージーランドのアーダーン首相
▽冷静にイギリス国民の国民性について伝えたイギリスのエリザベス女王(94歳)
日本の首相の原稿を読むだけの会見は、新聞を読むだけで十分だけど
自分の言葉で語りかける姿に人柄がにじみ出ていていました。
そしてトルドー首相への記者の切り込み方も素晴らしいです。
日本では、記者が居眠りしているのかと思うほど緊張感がないです。
鳥飼玖美子さんも出演されていて懐かしかったです(*´▽`*)

再放送は07月10日午前10:25から

見逃し配信は7月10日(金) 午後9:55 まで
7月4日
 橘奈良麻呂は叛乱計画が発覚して捕らえられた。 757(天平宝字元)年

 聖武(しょうむ)天皇のあとに即位した女帝の孝謙(こうけん)天皇の時代は、光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が藤原仲麻呂(なかまろ<恵美押勝(えみのおしかつ)>)と結んで、政敵橘諸兄(たちばなのもろえ)をおさえ、政権をほしいままにしていた。
 これに対して、仲麻呂の専横(せんおう)を怒った諸兄の子橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、757年の6月ごろから大伴古麻呂(おおとものこまろ)・小野東人(おののあずまびと)等をはじめ多くの人々と密儀して仲麻呂打倒をはかった。
 だが密告により、7月2日東人が捕えられた。
きびしいとりしらべにたえかねた東人は計画を白状した。
それによって首謀者の奈良麻呂は、7月4日に捕らえられた。
史料には「杖下(じょうか)に死す」とあるから、きびし拷問で殺されたのだろう。
 この事件ののち、仲麻呂は朝廷の実権をにぎったが、やがて道鏡(どうきょう)と対立して挙兵(きょへい)、敗れて死んだ(764年の藤原仲麻呂の乱)。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の歴史3 奈良の都』より「杖下に死す」(橘奈良麻呂)と「覇者の末路」(恵美押勝)を転記しますφ(..)
前後を読まないと分からない点が多いと思います(^^ゞ
恵美押勝
 杖下に死す


 事件が起って十日の後、女帝(孝謙天皇)は平城京の朝堂院にゆき、官人のほか、とくに召集した京の坊令・坊長、畿内の郡司・郷長らを前に、事件の経緯を詳細に説明した宣命を読みあげさせた。
また仲麻呂が勧めだのだろう。
だがそのかなで、
 「叛徒たちの罪は国法によればみな死刑にあたるが、ともあれ温情をもって臨むことにして罪一等を減じ、氏姓や名を改めさせて遠流に処した」
といっている部分は、明らかにうそであった。

(「うそ」に傍点「、、」。以下同じ)
(『日本の歴史3 奈良の都』青木和夫 中央公論社 昭和40年)
 姓名はたしかに改めさせたらしい。
黄文(きぶみ)王がクナタブレ(気違いじみた馬鹿の意)、道祖(ふなど)王がマドイ(迷い者の意)、賀茂角足(かもつのたり)がノロシ(頭の回転がのろい意か)などとよばれたことが知られている。
叛徒にあだ名をつけるのは、四十歳で独身の女帝の趣味にふさわしかった。
 しかし訊問が終わって獄にもどった人々に対しては、陸奥の金の発見者従三位百済敬福(くだらのきょうふく)と皇太子大炊(おおい)親王の兄船(ふね)王ら5人の執行官が派遣された。
かれらは、緒衛府の武官や刑部省囚獄司(しゅうごくし)の物部(もののべ)たちが囚人たちを引きだしては、なにをこのうえ白状させるのか、「白状しろ」といいながら、杖(むち 笞)でたたきつづけるのを監督していた。
黄文王・道祖王・大伴古麻呂・多治比犢養(こうしかい)・小野東人・賀茂角足らはつぎつぎに絶滅していった。
 『続日本紀(しょくにほんぎ)』が「杖下(じょうか)に死す」と記したのは以上6人で、奈良麻呂の名がみえない。
だからかれは流刑だとの説が後世に生れたが、一件の首謀者が女帝と仲麻呂のもとで、生きられるわけがなかった。
後年、奈良麻呂の孫娘が嵯峨天皇に嫁して檀林(だんりん)皇后となって後、この忌まわしい記事のなかから祖父の名を削ったのであろう。
後の藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関する記事も、関係者一同の名誉回復後に一部分削られたことがある。
 また死んだのは6人だけでないことは、奈良麻呂がいないという強い疑いのほかにも、これにつづいて「その与党の人ら、あるいは獄中に死し、自外は悉(ことごとく)に法によって配流(はいる)せらる」とも記されていることから推定できる。
 配流つまり流刑になった人々には、安宿(あすか)王とその妻子、全成(またなり)の弟らしい信濃守佐伯大成(おおなり)、さきに土佐守に左遷されていた大伴古慈斐(こしび)、遠江守として事件当時にいなかった多治比国人(くにひと)らの名がある。
なお770年(宝亀一)太政官は、このときの死刑・流刑の合計を奈良麻呂以下443人と算定している。
 右大臣藤原豊成(とよなり)の邸へは、かれが訊問担当官からはずされて六日目に中納言藤原永手(ながて)らが行き、「三男の乙縄(おとただ)が事件の関係者と判明したからさしだすように」という勅を伝えた。
乙縄は後手に縄でくくられて連行された。
さらに三日後、乙縄は日向員外掾(いんがいのじょう)と発令され、豊成も「ひそかに賊に心を寄せ、叛乱の計画を知っているのに奏上せず、また叛徒の訊問を命ぜられたのに究明しなかった」という理由で、太宰員外帥(だざいいんがいのそつ)に左遷との勅があった。
 筑紫の大宰府でもそうだが、遠国の国司で定員外の官に任ずるといえば、流刑と同じである。
乙縄はその後8年を南九州で過ごしたが、豊成は難波(なにわ)まで行って病気と称し、難波京の別邸にとどまって動かず、やはり8年間、弟の栄達と急激な没落とを眺めていた。
政界に復帰してまもなく、765年(天平神護一)に死去したときの伝記には「大臣は生まれつき温厚で、衆望を集めていたため、弟の仲麻呂に隙(すき)をねらわれていたが、たまたま三男乙縄がひごろ橘奈良麻呂と親しかったため、それが連座左遷の口実とされてしまった」とある。
覇者の末路
 (764年)9月11日、高丘比良麻呂(たかおかのひらまろ)は女帝に密告した。
女帝はただちに少納言山村(やまむら)王を淳仁(じゅんにん)天皇のいる中宮院に派遣、駅鈴と天皇御璽を回収しようとした。
急報によって仲麻呂は、三男訓儒麻呂(くすまろ)らに山村王の帰途を襲わせた。
しかし山村王を護衛していた授刀(じゅとう)少尉坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)や同将曹牡鹿嶋足(しょうそうおじかのしまたり)らが応戦、訓儒麻呂を射殺した。
坂上苅田麻呂は有名な田村麻呂(たむらまろ)の父である。
 仲麻呂の邸へは勅使として授刀舎人(じゅとうとねり)の紀船守(きのふなもり)が派遣され、逆賊仲麻呂父子から官位・俸給いっさいを剥奪し、藤原と名のらせぬとの勅が宣言された。
邸内から中衛将監(しょうげん)の矢田部老(やたべのおゆ)が甲(よろい)を着、馬にのって戦いをいどんできたけれど、逆に船守らに射殺された。
その晩仲麻呂は、一家の者と部下をひきいて邸を脱出、宇治から近江の保良へいそいだ。
 だが女帝側は授刀衛を中核とする衛府の兵、漢(あや)氏・秦(はた)氏ら帰化人系の諸氏の武力、さらに藤原良継(よしつぐ)はもとより、仲麻呂に反感をもつ藤原氏をはじめ、他の諸貴族をことごとく動員した。
吉備真備(きびのまきび)が留学中に修めてきた戦略・戦術も活用された。
 たまたま近江へ造池使(ぞうちし)長官として出張していた淡海三船(おうみのみふね)は、太政官符により兵士を動員しようとしていた使者たちを、池を造るために徴集してあった役夫たちに命じて逮捕させた。
田原道(たわらみち)をとって急行した山背守日下部子麻呂(くさかべのこまろ)、衛門少尉佐伯伊太智(さえきのいたち)らは、勢多(せた)の長橋にさきに到着、これを焼いた。
東山道へ脱出する道を断たれた仲麻呂は、琵琶湖の西岸を北進、高島郡の前郡司の家に泊った。
近江は仲麻呂がこの20年間、国司の長官を勤めていた国である。
その夜、大きな流星が家のかなたの空に消えた。
 佐伯伊太智らはさらに馳せて越前に向かい、国司の辛加知(しかち)を斬って、愛発(あらち)関を固めた。
仲麻呂らは先発隊の精兵数十がすでに愛発で撃破されたのを知らず、本隊をひきいて船に乗り、琵琶湖東岸へ向かった。
しかし湖が荒れたために塩津(しおつ)から上陸し、山道を愛発へ進んだが、やはり撃退された。
 行先をすべてふさがれた仲麻呂らは、高島郡に引きかえし、古城のある三尾(みお)によって必死に応戦した。
激戦は昼から夕方までつづき、女帝の軍も疲労困憊した。
だが討賊将軍藤原蔵下麻呂(くらじまろ)のひきいる援軍が到着、水陸両方から攻撃を加えたので、勝野(かちの)へ退いて守った仲麻呂の軍もついに敗れた。
仲麻呂は妻子数十人と湖上に舟をだしたが、丘士石村石楯(いわれのいわたて)に襲われて斬殺された。
一味の三、四十人も、みな湖畔で処刑された。
近江への脱出以来九日目、9月19日のことであった。
 翌日から月末にかけて論功行賞があり、かつて仲麻呂の変えた官名も旧に復し、藤原豊成(とよなり)も右大臣の席に戻ったが、前年少僧都となったばかりの道鏡(どうきょう)は、一躍大臣禅師(だいじんぜんじ)として、政界に登場した。
(『日本の歴史3 奈良の都』青木和夫 中央公論社 昭和40年)
なお770年8月4日、称徳天皇没し(53歳)、白壁王(光仁)が立太子となると、道鏡は下野薬師寺別当に左遷されます。
772年4月頃、道鏡は死去したようです。

道鏡塚」(下野市)
今朝の父の一枚です(^^)v
風が強くて蓮の葉が大きく揺れていました。
 
4日にかけて激しい雨のおそれ」(えりの気象日記 7月3日)

今朝のサワコの朝「為末大」の中で為末さんが最後の方で提言として
五輪の代表権は一度取り消すべき
2週間だけ落ち込んだら次の目標を立てる
アフターコロナはスポーツができるのを当たり前とは思わないほうがいい
環境づくりについてアスリートも発言すべき
というのは、オリンピックは平和の祭典だと言ってきたけれど
地球環境がある程度安定していないとスポーツのイベントってできない
地球環境がよくなる方に声を出していくべき。

7月11日 07:29 まで無料動画を見ることができます。