2020年7月10日金曜日

コロコロ変わる…

今朝は、むしむし湿度が高く、しとしと降っていると思ったら
曇り空になりセミが鳴きだしました。
顔見知りの方と、こんな雨の降り方が梅雨らしいですねと話していたのだけど
しだいに空が暗くなってきたので早めにリハビリ散歩を切り上げました。
帰りには「激しい雨」のメールが届くほどジャンジャカ大雨になりました。
とは言っても大阪は、被害が少ないですが…

「もうやめてくれ」4年続けて農地の被害を受けた農家は…福岡〟(NHK)
各地の被害を見ながら
アメリカ 日本へ戦闘機105機の売却決定 2兆4800億円」(NHK)
なんてニュースを見ると、失礼ですが、首相はネギをしょってトランプ大統領に会いに行って、大統領の再選の応援団になっている。

ロシア憲法改正 プーチン大統領 領土割譲禁止項目の意義強調」(NHK 7月4日)
などのニュースを見るたびに、どこが「外交の〇〇」だと自慢気に言えるのかなと思う。

また、
東京都 新たに224人の感染確認 過去最多 新型コロナ」(NHK)
PCR検査の件数を増やしたおかげで見つかっているだけの話で
今までに感染が広がっているのを症状がある人だけに検査していたので、
日本は感染者が少ないように思わせていたのではないかと思ってしまう。
熱中症予防に水分補給が大切なんですが、思わぬ所に落とし穴があります。 

「やかん」に入れたスポーツ飲料で食中毒 注意を 厚労省〟(NHK)

厚生労働省食品安全情報

ヤカンに入れたスポーツ飲料を飲んだことによる銅食中毒が発生しました。
金属製の容器(ヤカンや水筒)は酸性の飲み物と反応し、金属が溶け出すことがあります。
金属製の容器にジュースやスポーツ飲料を入れる時は、注意書きをよく確認しましょう!


発病前にスポーツジムで運動していた時は、スポーツ飲料を薄めて飲んでいました(三分の一程度)。
そのままだと糖分などを過剰に摂取することになる。
昨夜のEテレ「夏井いつきと壇蜜の 新しい日常×俳句」

俳句王国がゆく」で募集したら1997句も応募があり
その中からいくつかを紹介していました。
令和の万葉集だなと思いました。
最初の方で「マスク」は冬の季語なんですが、
夏井さんが「季語でなくなくなる日が来るかもしれないって想像してなかった。
COVID-19 は、俳句の世界にまで侵入しているのですね…

みなさんの句には、生活の実感が溢れていて、ユーモアさえ感じました。
後半、壇蜜さんと夏井いつきさんも自作の句を披露してくれています。
壇蜜さんの句は、そうだよねと共感しました。
どこか又吉直樹さんの生活感に通じるような感じをうけました。
ただ、又吉さんは猫と昼寝はできないのだけど(^_-)-☆
夏井さんの句に「新型体温計」という語が入っていました。
一年中、使用されるので季語にはならないだろうけど、
これから句の中に入ってくる言葉になるのだろうな…
昨日、夏井さんと同じ体験をしました(*´▽`*)

再放送は7月12日(日) 午前1:20~(11日の深夜)
見逃し配信は7月16日(木) 午後10:50 まで
昨日の記事で紹介した磯田道史さんの
武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』より「満八歳で天然痘に感染」を転記しますφ(..)
続けて、その中で紹介されている「若桜藩池田冠山の娘露姫」について
柴桂子さんの『江戸期に生きた女表現者たち』より
松平露~全国から寄せられた追悼(江戸)」を数回に分けて転記しますφ(..)
松平露の遺筆は
幼女遺筆」(国立公文書館)で一部を見ることができます。
第三章 武士の子ども時代
 満八歳で天然痘に感染


 ところが、手習い塾に通いはじめて九ヶ月。
成之は疱瘡にかかった。満八歳七ヶ月のときである。
疱瘡は天然痘。江戸時代の子どもの「天敵」であった。
体に痘のブツブツが出来はじめると十日ほどで死ぬ。
兄弟や友達の死をみているから、疱瘡にかかると、子ども達は死を覚悟した。
幕末の疱瘡については、帝塚山大学の川口洋教授が検討されている。
(『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』磯田道史 新潮新書 2003年)
 大名の子どももよく死んだ。
若桜藩池田冠山の娘露姫は満五歳で疱瘡にかかって死んだが、家族が知らないうちに遺書を書いていた。
ひらいてみると「お父さん(私が死んだら)お酒は飲まないで」と書いてあった。
 成之も早熟な子であったから、覚悟はしたに違いない。
発症したのは嘉永5(1852)年11月13日である。
猪山家としては、可愛い嫡男を死なすわけにはいかない。
この日から、救命大作戦がはじまっている。
 まず父直之が役所にいって借金をした。
その金で成之に「なし・みかん・たらこ」なんでも高価なものを買ってきて食べさせた。
「さじ一本」を買った記録があるから、木製スプーンで口に運んでやったのだろう。
医者は3人用意した。5回往診させている。
ただ、医者に治せるものではなく、当時の風習に従って神に祈った。
猪山家でも「赤紙二枚とお神酒二本」を用意して祭壇をつくり、疱瘡神を祭った。
 成之は天然痘と18日間闘い、そして勝った。生き残ったのである。
猪山家は神頼みもしているが、病気への処置が合理的であり、栄養のあるものを食べさせ、抵抗力を維持させたことが効を奏したといえる。
ここで成之が死んでいれば、本書が書かれることはなかったであろう。
ちなみに、成之の疱瘡にかかった費用「痘入用」は全部で銭2625文であった。
(『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』磯田道史 新潮新書 2003年)
松平露~全国から寄せられた追悼(江戸)
 追悼集や伝記の出版

 昭和63年(1988)から平成8年(1996)にかけて、松平露(まつだいらつゆ 1817~22)を追悼する詩歌書画を集めた『玉露童女追悼集(ぎょくろどうじょついとうしゅう)』という書物が、5巻の箱入りの立派な写真本となって、東京浅草の金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)より発行された。
それ以来、松平露の遺書や木彫像が郷土の鳥取や子供関係、誹諧関係の図録に多く取り上げられるようになった。
(『江戸期に生きた女表現者たち』柴桂子 NHK出版 2016年)

 露についての伝記は、すでに江戸期に2冊が木版刷りで出版され流布した。
一冊は文政(ぶんせい)7年(1824)、『応化菩薩辞世帖(おうかぼさつじせいちょう)』と題して伊勢国飯高(いいたか)郡上川(うえがわ)の浄土宗上林寺(じょうりんじ <三重県松阪市>)から版行された。
「惟是応化所為」と記された露の遺墨は、菩薩のふるまいであり、不朽のものであると讃えられている。
 もう一冊の『玉露童女行状(ぎょうじょう)』は露の父松平冠山(かんざん)が家臣の儒者服部脩蔵(はっとりしゅうぞう)に書かせて、文政7年に、冠山の菩提寺、向島(むこうじま<墨田区>)の黄檗宗弘福寺(おうばくしゅうこうふくじ)の鶴峯(つるみね)和尚の勧めで版行されたものである。
真名文の「浄観院玉露如泡大童女君行状(じょうかいんぎょくろにょほうだいどうじょくんぎょうじょう)」と仮名まじり文の「六(む)とせの夢」の2点から成っている。
 『玉露童女追悼集』5巻は、冠山が全国から寄せられた約千六百点の詩歌書画の追悼品を30巻の巻子に仕立て「玉露童女追悼集」と題して奉納したもののうち、欠けた第7巻を除く29巻を、改めて5巻にまとめて出版したものである。
六とせの夢・露の短い生涯

 露(都由子<つゆこ>)は文化14年(1817)11月2日に、因幡(いなば)国鳥取藩池田家分地・西舘若桜(わかさ)藩(鳥取県八頭<やず>郡)の藩主松平(池田)定常(さだつね<冠山>)の16女として、鉄砲洲(てっぽうず<東京都中央区>)の若桜藩上屋敷で生れた。
冠山は正室を置かず、多くの側室を持ち、8男16女の子沢山で、露は冠山51歳の時の子である。
母である側室柿沼(かきぬま)氏たえは、露の他に後に藩主となる定保(さだやす)ら3男7女を産み、冠山の寵愛を受けた。
 それまでの9回のお産と異なり、露のお産は胸の痛みもなく咳(せき)も出ず安産であった。
露2歳の夏頃から乳母(うば)たつの乳の出が悪くなり、別の乳母が雇い入れられたがなじまず、露は日に日に痩せて行った。
冠山は心を痛め、雑司ヶ谷(豊島区)の鬼子母神(きしもじん)に祈願したところ乳が出るようになった。
 三歳の夏、露は左右の指の間に瘡(かさ)ができ、医者の治療も効き目がなかったため、懇意の円明院法印行智(えんめいいんほういんぎょうち)が招かれ、准胝観音(じゅんでいかんのん)の護符(ごふ)で除病の祈願をした。
露が朝夕護符で撫でているうちに、いつしか瘡は治った。
露は他の来訪者にはなじまなかったが、弘福寺の鶴峯和尚が屋敷へ招かれると和尚や僧徒には親しく出迎え、共におはじきなどをして上機嫌であった。
 四歳の頃から姉たちに交じって泉岳寺(せんがくじ)の和尚の講義を、飽きることなく終わりまで聞き入った。
このようなことを伝え聞いたさる西国の大名夫人が賞嘆して、大切にしていた唐磁の観世音菩薩像を露に贈ったところ、露は毎日両手を合わせ、自らの手で茶菓を供えた。
絵本も聖賢や仏菩薩のあるものを好んだ。
 同腹の兄定保は四歳で藩主の座を継いだため、参勤交代で国元へ下る時は生母のたえが同行した。
そのため露は母と過ごす時間が少なく、乳母のたつと侍女のときにかしずかれて成長した。
幼い時には国元へ下ったたえを恋しがり、馬場で遊んでいる時も「ここで大声で叫べばたえに聞こえようか」と「たえ、たえ」と大声で叫んで皆の涙を誘った。
そのうち、侍女たちがたわむれになぜご一緒にお国へ参られないのかと露に尋ねると「つうさまは、おとうさまのおそばにいて、お伽(とぎ)をせねばならぬ」といようになった。
 露は菩提寺の弘福寺をはじめ浅草の浅草寺や雑司ヶ谷の鬼子母神など神社仏閣によく参詣した。
文政5年、六歳の秋が過ぎる頃、遊び相手の幼い者たちへ手遊びの品々を与え、母たえから貰った大切な鏡を自ら姉に届けた。
そんな頃、病気をしたことのない露が熱を出し床に就くようになった。
もがさ(疱瘡)と診断された。
露は姉たちに手紙を書き、ビロードで作ったかんざしを添えて手渡した。
乳母や侍女たちや多くの医者たちの寝食を忘れての看病にもかかわらず露の病は日増しに重くなった。
目はふさがり、口は乾き、声もかすかになり、ひどい苦しみの中にあっても、露は精神の乱れもなく、ただ、「早く雑司ヶ谷に行きたい、供はそろったか」と、それのみ口にした。
二十日ほど病に苦しみ、露は眠ったまま息を引き取った。
五歳と二十五日の短い生涯であった。
 冠山や姉たちによって丁寧に炭で埋められた棺は、浅草寺の門前で止り、供の者による本尊の代参を済ませた後、向島の弘福寺に向かった。

…続く…
(『江戸期に生きた女表現者たち』柴桂子 NHK出版 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
マルバハッカを写していました。
今日は、母の月命日。
母と一緒に歩いていた頃に蒸し暑いこの季節、
マルバハッカの葉を一枚いただいて香りをかいで暑さをしのいでいました。
除草の時にマルバハッカも一緒に刈られてしまうのですが
暫くするとまた元気に葉を繁らせてくれます。
生命力が強いのだなといつも感心していますp(^^)q

新型コロナの影響は奈良の鹿にも及んでいるようです。
観光客減で奈良のシカ野生化か」(関西 NHK)