今朝は、曇り空で今にも雨が降りそうな風が吹いていました。
鶴見新山から北摂の山の方を見ると霞んでぼんやりとしか見えません。
鶴見新山から北摂の山の方を見ると霞んでぼんやりとしか見えません。
海の日は7月の第3月曜日なのですが、本来は7月20日。
来年は…?
海の日
国民の祝日の一つで、7月20日。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」として平成7(1995)年に「国民の祝日に関する法律」によって定められた。
それまでこの日は、海の関係者によって「海の記念日」とされていた。
明治9(1876)年に明治天皇が東北地方巡幸の帰途、軍艦ではなく汽船の明治丸にて横浜港に帰着されたのが7月20日であり、その日にちなみ、昭和16(1941)年に政府の次官会議において海事思想の普及と海洋精神の普及を目的に海の記念日に定めた。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
今朝の〝インタビュー ここから「野田洋次郎」〟
最近、気になっていた『ココロノナカ』をうたっている人なんだ。
動画は見つけられなかったけど
『新世界』のこの歌詞がすごいなと思った。
『当たり前』が戻ってきたとしても
それはもう 赤の他人
再放送は、明日、24日 午後11:50~
25分ほどの番組なんだけど、
野田洋次郎さんのTitterには
高瀬アナとたくさん話をさせてもらいました。
2時間以上話したけどどこが使われているのか、
ちゃんと伝わる言葉で話せたのか心配もありますが僕にとって有意義な時間でした。
朝早いですが、ぜひ。
ファンの方はノーカットで見たいでしょうね(*´▽`*)
追記:7月25日)気がつくのが遅かったけど、
ご本人もその相手の方も、”遺伝子”を残す「道具」ではありません。
国家という大きな力がそこに加わり、「命の選別」が行われてしまった歴史も。
アウシュビッツ博物館を案内下さった方が、国家ぐるみの「優生思想」は、街中で飛び交う言葉と結びついていたと教えてくれました。
だから見過ごしたくない。
と書かれています。
ファンの多い方が、ご自身の発言を冗談で済ますのはおかしい。
まして世界で演奏活動を計画しているのなら
人権感覚を研ぎすまさないと痛い目にあうと思う。
「NHKニュース おはよう日本 特集 新型コロナ・世界の知恵をご紹介」の中で
色々な国の知恵を紹介していました。
笑ったのが、
「マレーシア発驚きの外出自粛動画」(8:13頃/30:00~ 配信期限7月30日午前8時まで)
ムヒディン首相の会見の言葉「ke sana ke sini(外出自粛)」のフレーズがダンス音楽になってた♪
ヤマザキマリさんの言葉
色々な国の知恵を紹介していました。
笑ったのが、
「マレーシア発驚きの外出自粛動画」(8:13頃/30:00~ 配信期限7月30日午前8時まで)
ムヒディン首相の会見の言葉「ke sana ke sini(外出自粛)」のフレーズがダンス音楽になってた♪
ヤマザキマリさんの言葉
人類っていうのは想像力っていう機能を与えられていますよね。
だから今回、本当にこのパンデミックで、私たちはこの想像力をどう生かすか、
それしだいで、本当に支え合って生きていけるのか、それとも傷つけ合うのか、
すべてはそれしだいだなっていうことも感じられましたし、
もう、だからボランティアの気持ちもそうだし、
あと励まし合う気持ちもそうだし
踊るもそうだけでも、本当に来るだけの情報だけじゃなくて、
私たちはそれを受け止めて、どう自分たちの頭で考えていくか、
想像力がものすごく問われる機会っていう感じがしますね。
だから今回、本当にこのパンデミックで、私たちはこの想像力をどう生かすか、
それしだいで、本当に支え合って生きていけるのか、それとも傷つけ合うのか、
すべてはそれしだいだなっていうことも感じられましたし、
もう、だからボランティアの気持ちもそうだし、
あと励まし合う気持ちもそうだし
踊るもそうだけでも、本当に来るだけの情報だけじゃなくて、
私たちはそれを受け止めて、どう自分たちの頭で考えていくか、
想像力がものすごく問われる機会っていう感じがしますね。
先人たちの底力 知恵泉で2週続けて
「江戸の危機管理II」(前編)、「江戸の危機管理II」(後編)
そして
歴史秘話ヒストリアでは、
「病 災害 江戸の先人かく戦えり」
と江戸時代の先人たちの病や災害に対する知恵が紹介されていました。
今の日本政府には、ない知恵ばかりだったなぁとため息がでる。
「江戸の危機管理II」(前編)、「江戸の危機管理II」(後編)
そして
歴史秘話ヒストリアでは、
「病 災害 江戸の先人かく戦えり」
と江戸時代の先人たちの病や災害に対する知恵が紹介されていました。
今の日本政府には、ない知恵ばかりだったなぁとため息がでる。
7月23日
由井正雪らの謀反計画が密告された。 1651(慶安<けいあん>4)年
この日の夜、老中松平信綱(のぶつな)や北町奉行(きたまちぶぎょう)石谷貞清のところに、「由井正雪(ゆいしょうせつ)や丸橋忠弥(まるはしちゅうや)が謀反をたくらんでいる」との密告があいついだ。
槍の名人といわれていた丸橋は、その夜のうちにとらえられてしまい、駿府(すんぷ)に向かっていた正雪は、26日に、駿府茶屋の旅館梅屋で捕手(とりて)にかこまれ、自殺してしまった。
幕府の人相書には、「正雪は四十歳くらいの黒い総髪で、せいは低く色白、くちびるあつく、眼はくりくり」と書かれている。
「世の政治を乱している連中を追放するためにしばらく城の籠(こも)ろうとしたのだ」と正雪は書き残している。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
由井正雪らの謀反計画が密告された。 1651(慶安<けいあん>4)年
この日の夜、老中松平信綱(のぶつな)や北町奉行(きたまちぶぎょう)石谷貞清のところに、「由井正雪(ゆいしょうせつ)や丸橋忠弥(まるはしちゅうや)が謀反をたくらんでいる」との密告があいついだ。
槍の名人といわれていた丸橋は、その夜のうちにとらえられてしまい、駿府(すんぷ)に向かっていた正雪は、26日に、駿府茶屋の旅館梅屋で捕手(とりて)にかこまれ、自殺してしまった。
幕府の人相書には、「正雪は四十歳くらいの黒い総髪で、せいは低く色白、くちびるあつく、眼はくりくり」と書かれている。
「世の政治を乱している連中を追放するためにしばらく城の籠(こも)ろうとしたのだ」と正雪は書き残している。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
第2章 幕藩体制の社会と文化
2 武断から文治へ
かぶき者と牢人の反乱計画
水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)は、三千石の名門旗本だったが、病と称して江戸城に出仕せず、異様な風体の旗本奴(やっこ)「大小神祇(じんぎ)組」を率いて市中を横行し、町奴(まちやっこ)と競(きそ)った。
自邸を訪ねた町奴の頭、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)を殺したが、町人に対する無礼討(ぶれいうち)とされ、切捨御免(きりすてごめん)が適用された。
その後も水野の無法はやまなかったので、1664(寛文4)年、公儀は母親の実家の大名蜂須賀(はちすか)家に預けの処分を命じようとしたが、髪も結わず袴も着けず白衣で出頭したので、将軍への不敬として切腹を命じた。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
2 武断から文治へ
かぶき者と牢人の反乱計画
水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)は、三千石の名門旗本だったが、病と称して江戸城に出仕せず、異様な風体の旗本奴(やっこ)「大小神祇(じんぎ)組」を率いて市中を横行し、町奴(まちやっこ)と競(きそ)った。
自邸を訪ねた町奴の頭、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)を殺したが、町人に対する無礼討(ぶれいうち)とされ、切捨御免(きりすてごめん)が適用された。
その後も水野の無法はやまなかったので、1664(寛文4)年、公儀は母親の実家の大名蜂須賀(はちすか)家に預けの処分を命じようとしたが、髪も結わず袴も着けず白衣で出頭したので、将軍への不敬として切腹を命じた。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
水野に殺された幡随院長兵衛は、父親が仕えていた肥前唐津(ひぜんからつ)の寺沢(てらさわ)家が島原天草一揆の後で断絶になって牢人(ろうにん)となり、流浪中に死んだため、江戸の町人に養われた。
武家奉公ののち、町奴と呼ばれた任侠(にんきょう)集団の頭領になったという。
水野に殺されたのは長兵衛が遊山(ゆさん)を無理強いして口論となり、斬(き)られたともいう。
後に長兵衛は、武士を恐れず江戸町人の俠気を示した人物として、18世紀中頃から歌舞伎や浄瑠璃に登場するようになった。
武家奉公ののち、町奴と呼ばれた任侠(にんきょう)集団の頭領になったという。
水野に殺されたのは長兵衛が遊山(ゆさん)を無理強いして口論となり、斬(き)られたともいう。
後に長兵衛は、武士を恐れず江戸町人の俠気を示した人物として、18世紀中頃から歌舞伎や浄瑠璃に登場するようになった。
17世紀半ばにかけての「傾奇者(かぶきもの)」の盛行は、兵農分離を流れに士と農工商に分化させられながら、新しい社会秩序に組み込まれていく過程での、人々の不服従の噴出の現れであった。
旗本奴や町奴の裾野(すその)には、秩序の外へ押し出された牢人や浮浪・流入の者らがいた。
武家奉公人の中間(ちゅうげん)からは伊達(だて)者が生まれた。
このようなかぶき者は、盛り場をもつ江戸や大坂などの大都市で目立ったが、地方の城下町でも現れて藩の規制を受けた。
旗本奴や町奴の裾野(すその)には、秩序の外へ押し出された牢人や浮浪・流入の者らがいた。
武家奉公人の中間(ちゅうげん)からは伊達(だて)者が生まれた。
このようなかぶき者は、盛り場をもつ江戸や大坂などの大都市で目立ったが、地方の城下町でも現れて藩の規制を受けた。
秩序に馴染(なじ)めなかったのは、槍働(やりばたら)きの功名で、忠節の奉公の御恩として自家の知行(ちぎょう)を増やし子孫に余慶(よけい)を残すことを本懐(ほんかい)とした武士であった。
かぶき者ではないとしても、元亀天正(げんきてんしょう)の世を体験した武士の多くは、偃武(えんぶ)の秩序と自分の処遇に不満を募(つの)らせ、時流に取り残された。
大坂の陣の後、藤堂高虎(とうどうたかとら)の家臣渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ)は、主君を見限り、討手(うって)に備え家兵(かへい)に武装させて退却した。
大名の佐倉(さくら)藩主堀田正信(ほったまさのぶ)もその一人で、1660年、無断で帰国し、改易(かいえき)された。
かぶき者ではないとしても、元亀天正(げんきてんしょう)の世を体験した武士の多くは、偃武(えんぶ)の秩序と自分の処遇に不満を募(つの)らせ、時流に取り残された。
大坂の陣の後、藤堂高虎(とうどうたかとら)の家臣渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ)は、主君を見限り、討手(うって)に備え家兵(かへい)に武装させて退却した。
大名の佐倉(さくら)藩主堀田正信(ほったまさのぶ)もその一人で、1660年、無断で帰国し、改易(かいえき)された。
そういう古武士の旗本大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)は、1560(永禄<えいろく>3)年に三河の徳川譜代家臣の子に生れ、17歳の初陣(ういじん)以来、幾たびもの合戦に戦功をあげた。
大坂の陣では槍奉行、162(寛永9)年には旗奉行を命じられ、二千石を与えられた。
六十歳代の頃、自叙伝『三河物語(みかわものがたり)』を書いて、家康覇業(はぎょう)の功臣大久保一族の不遇を訴え、算勘(さんかん)の達者な者が重視される時勢を批判した。
島原天草一揆の際にも用兵や論功行賞について鋭い皮肉を浴びせるなど、戦国の遺風的な気骨を発揮し、後年、講談でその逸話が広まった。
大坂の陣では槍奉行、162(寛永9)年には旗奉行を命じられ、二千石を与えられた。
六十歳代の頃、自叙伝『三河物語(みかわものがたり)』を書いて、家康覇業(はぎょう)の功臣大久保一族の不遇を訴え、算勘(さんかん)の達者な者が重視される時勢を批判した。
島原天草一揆の際にも用兵や論功行賞について鋭い皮肉を浴びせるなど、戦国の遺風的な気骨を発揮し、後年、講談でその逸話が広まった。
そうした不満は、関ヶ原陣以来の多数の大名改易・減封によって牢人となり、農工商にもなれず仕官を望んで落魄(らくはく)した者にはもっとも切実であった。
由比正雪(ゆいしょうせつ)は、こうした牢人らの夢に挑(いど)んで散った。
正雪の経歴は伝説めいているが、駿河(するが)国の出身で、江戸で軍学を講じるようになった。
軍学(兵学)は、用兵や戦闘・戦略を研究する学問で、甲州流・北条流・山鹿(やまが)流など多くの流派が生まれた。
机上の学だったが、西洋軍学の時代がくるまで学ばれた。
家光が死んで次の将軍の就職が済んでいない1651(慶安4)年7月、牢人丸橋忠弥(まるばしちゅうや)が密告で召捕られ、正雪を首謀者とする駿府城占拠、江戸・上方(かみがた)挙兵による反乱計画が発覚した。
正雪は駿府で旅宿を包囲されて自刃(じじん)し、牢人60人ほどが親・妻子ともに処刑された(慶安事件)。
直前には、三河刈谷(かりや)藩主松平定政(さだまさ)が公儀を批判して入道(にゅうどう)し、江戸の町々を托鉢(たくはつ)した。
慶安事件の翌年にも、牢人の騒乱計画が発覚した(承応<じょうおう>事件)。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
由比正雪(ゆいしょうせつ)は、こうした牢人らの夢に挑(いど)んで散った。
正雪の経歴は伝説めいているが、駿河(するが)国の出身で、江戸で軍学を講じるようになった。
軍学(兵学)は、用兵や戦闘・戦略を研究する学問で、甲州流・北条流・山鹿(やまが)流など多くの流派が生まれた。
机上の学だったが、西洋軍学の時代がくるまで学ばれた。
家光が死んで次の将軍の就職が済んでいない1651(慶安4)年7月、牢人丸橋忠弥(まるばしちゅうや)が密告で召捕られ、正雪を首謀者とする駿府城占拠、江戸・上方(かみがた)挙兵による反乱計画が発覚した。
正雪は駿府で旅宿を包囲されて自刃(じじん)し、牢人60人ほどが親・妻子ともに処刑された(慶安事件)。
直前には、三河刈谷(かりや)藩主松平定政(さだまさ)が公儀を批判して入道(にゅうどう)し、江戸の町々を托鉢(たくはつ)した。
慶安事件の翌年にも、牢人の騒乱計画が発覚した(承応<じょうおう>事件)。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
今朝の父の一枚です(^^)v
元気に歌っていたクマゼミを写していました。
元気に歌っていたクマゼミを写していました。
もうじき雨が降り出すので、懸命に相手を探していたんだろうなp(^^)q
曇り空で風もあって歩きやすかったのですが、
大阪は感染確認が一気に増えている。
外出自粛を呼びかけるように天気は悪いようですね…
「4連休は連日雨 25日土曜日は大雨のおそれ」(えりの気象日記 7月22日)