2020年7月22日水曜日

元気なのは…

昨日よりも少し気温が低いとの予報…
ほんの少し感じたけど、歩くのに精一杯(^-^;
元気なのはクマゼミくらい

21日ことしいちばんの暑さ この先徐々に落ち着く」(えりの気象日記 7月21日)
父は、朝一番で散髪に行きました。
帰ってから聞くと、まだシャッターが上らないうちにいったそうです(*´▽`*)
というのもオリンピックは延期になったが、明日から4連休の所もある…
そう言えば、昨日、散髪屋で読んでいた新聞に載っていた広告について

上丸洋一さんのTwitter

首相は7月2日、公邸で1時間にわたって雑誌「Hanada」の取材に応じた。
その「独占インタビュー」を掲載した「Hanada」の広告が今日の読売に載っている。
いわく「安倍総理、闘争宣言『闘う政治家』として必ず結果を出す!」。
結果はアベノマスクで既に出ている。
「逃走宣言」の間違いではないか。
7月22日
 富山県の漁師の女房たちが、米騒動に立ち上がった。 1918(大正7)年

 富山湾に面する魚津(うおづ)町の漁師の女房たちが、この日、井戸端会議でこんな話をした。
「米の値段は天井知らずにあがっとるのに、春からの不漁つづきね。これからの暮らしが思いやられっちゃ。米がこんなに高くなんのは、よその県に米を持ち出すからね。明日、港へ行って米を積み出さんように頼んでみねいか。」
翌朝、50人の女房たちが米の船積みを止めようと港に集まった。
たちまちにして騒ぎは全国に広がった。
米の値上がりで日々の生活に困った人々は、群れをなして鬨(とき)の声をあげながら米屋や金持ちの家をおそい、米の安売りを求めた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
米騒動」(中学・高校 動画) 

魚津でおこった米騒動」(魚津市教育委員会 Pdf)

日本の歴史23 大正デモクラシー』より「米騒動おこる」を転記しますφ(..)
米騒動おこる

 7月22日の夜、富山県下新川(しもにいかわ)郡魚津(うおづ)町で漁民部落の女房たちが井戸端会議を開いて、夏の不漁期にむかうのに米価が天井知らずにあがってはやりきれない、あすは米の積出しをやめてもらおうと話し合った。
当時の富山の小漁民の収入は一日平均五十銭ていどで、主婦たちの副業である米の船積み等の下働きの賃金は十銭から二十銭だった。
翌23日の朝には、警戒中の警察が海岸に集まった女房連を解散させたが、女房連はなおも集団で資産家や町役場に救済を哀願し、不穏な動きをただよわせた。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中央公論社 昭和41年)
 8月3日には、町民の大多数が出稼ぎ漁夫である中新川郡の西水橋(にしみずはし)町で、百七、八十名の女房連が資産家や米屋におしかけ、米を移出せずに廉売するよう哀願して気勢をあげた。
6日には東水橋と滑川(なめりかわ)町の町民千余名が米の積出しを実力で阻止し、町当局に時価より五銭安の三十五銭で米の廉売をおこなわせた。
こうして米騒動がはじまった。
 富山の米騒動は、地方新聞を通じて全国の新聞に「越中女一揆」として報道された。
8月7日の『高岡新報』は、

 「露国の革命はかまどから起った。独逸の軍国主義も昨今ようやくその国内のかまどから呪われている。東西水橋もしくは滑川町の窮民一揆によりて恐るべき社会的狼煙(ろうえん)はあげられた。警察力を以てこれを鎮圧するのは容易だとしても、かれらの絶叫に共鳴した思想はどうして鎮圧できる」

と論じた。
同日の『富山日報』も、「さながら昨年三月露都に起った食糧暴動を想起せしめる」と書いた。
 こうしたなかで米価はさらにはねあがった。
8月1日には大阪の正米相場が三十六円十銭になり、5日には四十円五十銭にあがり、9日には五十円をこえた。
8月10日になると米騒動は京都と名古屋に飛び火し、大中都市の米騒動がはじまった。
ここでは、米騒動や移出とりやめや安売りの哀願から米の値下げや寄付の強要、さらには打ちこわしへとすすんでいった。
 名古屋では鶴舞(つるまい)公園で米価問題の市民大会が開かれるとの噂がとび、10日夜には2万の市民が公園に集まった。
そこで米価引下げを要求する労働者・学生・商店員などの演説がはじまり、ついで群衆は巡査派出所などに投石しながら米屋町におしよせようとし、騒動をくりかえした。
 京都でもその夜、市内最大の被差別部落である柳原(やなぎはら)で騒動がはじまった。
群衆はまず町民の怨みのまとになっていた米の大商店におしかけ、表戸その他をこわしたうえ、警官の斡旋で一升五銭の値下げを承認させた。
ついで群衆は数隊に分かれ、途中で市民を加えながら各所の米屋を脅かして、「白米一升三十銭で売ります」という貼り紙を書かせた。
 民衆が直接米屋におしかけて強談(ごうだん)し、きかなければ打ちこわしをするとおどせば、確実に米の値下げを実現できることが現実にしめされると、こうした行動は町から町へ、市から市へとひろがっていった。
 11日には大阪の天王寺(てんのうじ)公会堂で、国民党大阪倶楽部主催の米価調節大阪市民大会が開かれたが、聴衆はすみやかに対策を実施するよう要求して立ち去らず、自主的に委員を選んで府知事に米価引下げの交渉にゆかせた。
聴衆の多くは街頭に押し出し、各所の米屋を襲って一升二十五銭で廉売させた。
13日朝には富豪連が会合して、住友・藤田・久原から二十万円ずつ、他をあわせて百万円の寄付を集め、米の廉売をおこなうことにしたが、その晩は数十万の民衆が街頭にあふれて全国最大の騒動となり、二十個中隊にのぼる軍隊が出動してようやく鎮圧した。
 神戸の米騒動も11日にはじまったが、12日には三菱造船所の労働者が構内で暴動をおこし、その晩には市中で大騒動がおこった。
『東京日日新聞』から特派された鈴木茂三郎(すずきもさぶろう)は、のちにつぎのようにしるしている。
  「その夜の神戸は、全市をあげて大動乱のなかにあった。栄町(さかえまち)通りは一団、二団、三団……群衆のいくつものかたまりが喚声をあげつつねり歩いていた。栄町四丁目の鈴木商店の元(もと)本宅が焼かれ、細民をいじめつけていた貸屋管理所の兵神館、鈴木の兵庫製米所が焼かれ、鈴木の代弁新聞『神戸新聞』の三層楼が焼け落ち、吹上脇(わき)の浜(はま)の神戸製鋼所、神戸信託も灰となった。もとグランド・ホテルの鈴木本店の焼打ちは、喚声と××のなかに決行された。
  焼打ちの翌日― 十三日朝―私が人力で山の手を走らせると、一団の群衆に車のかじ棒をおさえられた。一団の指導者らしい壮士風の男は素裸を白木綿でまいて、腰に一本日本刀をぶちこんで、『吾々が生活の叫びをあげ社会の悪鬼を征伐しつつあるとき、君が車に乗って歩くとはけしからぬ、おりろ』と、私を車上に見上げてどなったものだ。
  湊川(みなとがわ)公園に行くと、社前の自然木をかこんで、野天演説会が始っている。うしろ鉢巻(はちまき)、白縞(しろじま)の袴、日本刀を白日のもとに振り上げ振り上げ、『寺内内閣を倒せ、富豪を×××××。今夜は米俵をかくしている某寺に押し寄せるのだ』と、石ころの演台から熱弁をふるのである。群衆のうしろから、警察のスパイが、一人一人の背中に白墨で印をつけて行く」
 11日には東海・近畿・中国・四国の各地でも騒動がはじまった。
13日には東京でも、日比谷公園の市民大会に集まった群衆から騒動がおこり、関東各地にもひろがった。
大中都市の騒動は、13、4日に絶頂に達した。
騒動のはじまった順にみると、13日までは上述した大都市のほか、福島・豊橋・岐阜・大津・富山・高岡・金沢・福井・和歌山・堺・尼崎・姫路・岡山・尾道・呉・広島・鳥取・高松・丸亀・高知の各市でおこり、14日には浜松・岡崎・奈良・福山、15日には仙台・若松・横浜・横須賀・甲府・津・松山・門司、16日には下関・小倉、17日には新潟・長岡・長野、そして20日ごろに佐世保・熊本・松江・大垣の各市に波及している。
 17日以後には、騒動は地方の町や村に移った。
農村の米騒動はこれまで少ないといわれてきたが、実際には案外多い。
地主が米価の値上りで肥えふとるのと反対に、貧農とくに日傭(ひやとい)や職人などの不安定な労役者は生活難にあえいでおり、その怒りを爆発させたのであろう。
町村の騒動は、米屋よりも大地主・高利貸・質屋などの資産家を対象としたものが多い。
なかには小作人が地主の家を襲った例もある。
 同じ17日は、山口県の沖(おき)の山(やま)炭坑と福岡県の峰地(みねじ)炭坑で坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。
沖の山炭坑のある宇部(うべ)では、坑夫に付近の貧民を加えた数千名が炭坑主の本邸・別邸を破壊し、米屋・酒屋もこわしたうえ遊郭に放火した。
翌18日に出動した軍隊にたいしても、坑夫はダイナマイトで抵抗して死者13名、重傷者16名を出した。
これ以後米騒動は山口県と北九州の炭坑にひろがり、そのうち十ヵ所は暴動となった。
そして9月12日に三池(みいけ)炭坑の騒動がおわったのを最後に、50日間にわたって全国をおおった米騒動はおわった。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中央公論社 昭和41年)