2020年7月28日火曜日

風は気持ちいいのだけど…

青空が広がっていて暑かったけど、時折吹く風が気持ちよかったです。
風車の丘では、ヒマワリが刈られていました。
次の花の準備が始まるようです。
100分de名著「共同幻想論 吉本隆明
第4回「『個人幻想』とはなにか
この番組でいつも理解を助けてくれているのが伊集院光さんの言葉

これはうちのおじいちゃんが言っていた
戦争、負けるなと思ったのは
こんなに一生懸命やってるのに腹が減る
というのが道理に合わねっていう。

おかしいなと思ってたのは
一生懸命やるのに
腹が減って、腹が減ってしょうがないというのは
何か寸法がおかしいことがあるとは思ってたって。
今朝のニュースを見ていると、
アメリカでマスクを義務化した州は、31州。
フロリダ州議会で市民の意見を聞くと
・マスク着用を義務化し、私たちの自由や憲法上の権利を奪おうとしている
・神が与えたすばらしい呼吸というものをないがしろにするものだ
などの意見があり、
“「自由の尊重」に反する”
“宗教上の理由で反対”

「外出時にマスクを着用する」かという質問に
民衆党支持者→94%
共和党支持者→46%

ニュースを見ながら思ったのは、
私たちのつけているマスクは、息が漏れたりするのでウイルスを完全に防ぐことはできない。
マスクは、感染から自分を守るためではなく
マスクをすることで、周りの人々にウイルスをうつすことを軽減できる。
私のように心肺機能が低いとマスクをすると息苦しくなるので、
人との距離が2m以上取れる時は、マスクをずらしています。
それでも町中へ出る時は、我慢してマスクをしています。

湯川れい子さんのTwitter(7月28日午前0:12)

それでは、今夜最後の呟きです。
#布マスクもう要りません
7月28日
 岩崎弥太郎(いわさきやたろう)に台湾出兵の海運御用を命じた。 1874(明治7)年

 台湾に出兵することを決めた政府は、この日三菱商会を経営していた岩崎に海運御用を命じた。
この出兵は、遭難した日本人が台湾で現地人に殺されたのを理由にした。
しかし、じつは清国(しんこく)に琉球を日本の領土と認めさせ、征韓(せいかん)の中止で不満を持つ士族の目を外にそらすためであった。
 台湾への出兵には諸外国が反対した。
イギリスは自国の汽船の使用を拒否し、他の国々も局外中立(きょくがいちゅうりつ)を表明した。
このため船が不足し、政府は一時出動中止を指令した。
ところが、出動命令を受け長崎にいた陸軍中将の西郷従道(さいごうつぐみち)は、中止指令を無視して台湾に向かった。
やむなく政府は外国船を買い、民間船を動員して、岩崎に海運のいっさいをまかせた。
この戦役で岩崎は政府から13隻(せき)の船を譲りうけ、また巨額の利益を手にし、のちの三菱財閥のもとをつくった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
岩崎弥太郎――いわさき・やたろう
 1834~1885(天保5~明治18)
 ■出身地=土佐国(高知) ■父=岩崎弥次郎 ■母=小野慶蔵の女(むすめ)・美輪
 ■諱=敏 ■雅号=東山 ■墓=東京都豊島区・染井墓地

三菱財閥を築いた商傑一代
 岩崎弥太郎の父・弥次郎(やじろう)は、土佐・安芸(あき)郡井ノ口村一ノ宮に住む地下(じげ)浪人である。
 地下浪人とは土佐藩独特の制度で、40年以上郷士(ごうし)職にあった者がその郷士株を売却した場合をさす。
 つまり、岩崎家は少なくとも40年間以上は郷士として郷士として認められていたといえるが、困窮して株を売ったということであり、そのほかのことは史料が残されていない。
史料に記載されるほどの家柄ではないということである。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
 郷士株を売却したうえ、弥次郎は大酒飲みでほとんど働かなかった。
安芸町の医者・小野慶蔵の女(むすめ)・美輪を妻にむかえていたが、その美輪がせまい農地を耕していた。
 つまり、弥太郎は極貧のうちに育ったのである。
 だが、祖父の小野慶蔵が弥太郎をかわいがり、読み書きを教えた。
弥太郎は幼少時代から恐ろしいほど腕白であり、頭脳明敏(めいびん)で、12歳で儒者・小牧米山に弟子入りし、14、5歳になると詩才を発揮するようになったという。
 安政元年(1854)21歳のとき、藩士・奥宮(おくみや)周次郎(慥斎<ぞうさい>)の従者となって江戸に出ると、安積艮斎(あさかごんさい)の門人になった。
そして、帰国後は高知の西北の鴨田村に移り、近所の子供に経書(けいしょ)と算筆(さんぴつ)を教えて生計を立てた。
 また、この時期に吉田東洋(よしだとうよう)を知り、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と親しく交わることになった。
 出世委の糸口をつかんだということで、東洋が土佐勤王(きんのう)党に暗殺されると、弥太郎は下横目(したよこめ<刑事>)として犯人追補のために大坂へ出向いた。
 大坂では同じ下横目の井上佐一郎(いのうえさいちろう<岡田以蔵(おかだいぞう)に殺害された>)とともに犯人を探索し、尊攘(そんじょう)派の動きをさぐったが、同時に大坂では土佐の材木が市場に出まわっているのを知って帰国後は材木商となった。
ただし、これはすぐ失敗し、弥太郎は帰農せざるをえなかった。
 文久3年(1863)吉田東洋の甥(おい)である後藤象二郎を中心とする公武合体(こうぶがったい)派が勢いをとりもどすと、高知郊外に開成館(かいせいかん)が設立された。
 これは、土佐の特産物である半紙、樟脳(しょうのう)、材木、鯨、鰹節(かつおぶし)などを大坂・長崎で売りさばき、その金で軍艦・兵器を買う藩の富国強兵策を実行する機関であった。
 30歳になっていた弥太郎は、この開成館の国産方下役になった。
 しかし、身分が低すぎることに不満を感じ、差配役・山崎昇六に開成館経営上の意見を具申(ぐしん)すると、さっさと職を辞し、またしても帰農した。
 しかし、この山崎昇六によって認められ、弥太郎は象二郎とともに坂本龍馬の海援隊が背負いこんだ負債処理の仕事をやることになり、つづいて馬廻役(うままわりやく)、仕置(しおき)家老という役職につくことができた。
 鳥羽・伏見の戦いがはじまると、土佐藩も出兵し、江戸に向けて進撃することになった。
弥太郎はこのとき兵站(へいたん)部を担当させられた。
 だが、土佐藩は軍事費に窮していた。
その軍事費を捻出するため、藩は大坂・住吉(すみよし)の陣屋と長堀(ながほり)の藩邸の地下室で二分金の贋造(がんぞう)を行なった。
これをみた弥太郎は新しい藩札を発行することにした。
象二郎や板垣退助(いたがきたいすけ)らと共謀したインフレ発行である。
 当然のことながら、これはひどく評判が悪かった。
そこで弥太郎は正金20万両を工面して帰藩し、兌換(だかん)所を設けて信用を維持しようとした。
国際為替市場における自国通貨の買い支えと同じ理屈である。
 しかし、信用を買い支えることができず、土佐藩はほとんど破産状態となった。
 明治2年(1869)1月、版籍奉還(はんせきほうかん)
つづいて廃藩置県(はいはんちけん)
 これより先、弥太郎は「土佐商会」と呼ばれていた藩主・山内(やまのうち)家の商法所の経営も一任されていた。
これが「九十九(つくも)商会」さらに「三川(みつかわ)商会」に、廃藩置県後は「三菱商会」と改称されて弥太郎個人の所有となった。
 おそらく、藩の負債をひきうけるという条件で弥太郎が経営者になったものと考えられるが、山内家から弥太郎の手に移った経緯の詳細は史料的には不明である。
あるいは幕末維新のドサクサまぎれに、象二郎らとはかって、強引にのっとってしまったのかもしれない。
  多少の曲折はあるものの、弥太郎の事業が飛躍的に伸びたのは明治7年(1874)の台湾事変を境(さかい)としてである。
機を見るに敏な弥太郎は、大久保利通(おおくぼとしみち)、大隈重信(おおくましげのぶ)と接触し、政府が150万6800ドルという大金を投じて購入した汽船13隻と軍需輸送はすべて三菱商会に委託するという約束をとりつけた。
 三菱はここに政府御用を独占する海運業者のなったのである。
 さらに、明治10年(1877)に勃発(ぼっぱつ)した西南戦争。
三菱の所有する汽船はほとんど軍用船としてその需要を独り占めにした。
 西南戦争によって三菱が得た運輸代金は、実に1300万円という莫大な額にのぼった。
それだけではなく、戦争終了後の軍需品の処分でも大きく儲けた。
 三菱は八ヵ月にわたる西南戦争のあいだに、新しい汽船を購入するという名目で新政府から70万ドル(345万円)の補助金をうけた。
弥太郎はこの70万ドルに、社有の現金38万ドルを足して10隻の汽船を買い入れたが、戦争終了後これらの船はすべて三菱に下附(かふ)されたのだ。
 結局、このドサクサでも弥太郎は1500万円の利益をあげたことになる。
 西南戦争に対して新政府は戦費総額4150万円を支出した。
三菱の得た利益は、この戦費総額の約三分の一という莫大なものであった。
 西南戦争における官軍将兵の死者6843名。
西郷隆盛軍の死者7276名。
合計1万4119名の死者が三菱の基礎をきずきあげたといえるだろう。
 しかし、その4年後の明治14年(1881)三菱の最大の保護者であった大隈重信が失脚し、弥太郎は三井家の背後にいる井上馨(いのうえかおる)を敵にまわして共同運輸会社と死闘を演じることになる。
 が、健康に衰えが出てきて、同18年(1885)2月7日に没した。
52歳であった。
 岩崎家に男爵の位があたえられ、財閥になったのは二代・弥之助(やのすけ)の代になってからである。
 そのエネルギッシュで不敵な顔にあらわれているように、我のつよい弥太郎の人生は傲岸(ごうがん)不屈、商傑一代と呼ばれるにふさわしい波瀾の生涯であった。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
今朝の父の一枚です(^^)v
場所が違えば、これから咲き出すヒマワリが見つかります。
岩崎弥之助については、別の機会に紹介できたらと思います。