2021年8月1日日曜日

8月となり…

ム~ッとする暑さで気分が悪くなりそうだから、できるだけ木陰を歩きました。
二日前に2回目のワクチンを受けた方の奥さんは、寝込むほどの副反応だったようで
それを見ていて自分も今日は、昨日よりしんどいと話されていました。
どちらかと言えばこの暑さのせいかも知れないですね…
この暑さに「熱中症警戒アラート」がでて危険だと実感できる。
一方、緊急事態宣言は、首相の呪文だけでは効果が薄まる一方だなと思います。
また、昔の人々に比べて情報は多いのだけど…

近畿 厳しい暑さ 熱中症に警戒を 昼過ぎからは激しい雨も」(関西NHK)
 国立公文書館のTwitterに(7月31日)

安政5年(1858)夏のコレラ大流行は江戸でも多くの死者を出しました。
画像の安政箇労痢(コロリ)流行記概略には、疫病流行は「妖怪変化のせい」等と書かれており
根本的な原因菌も予防法もわからない病と対峙する人々の不安が伝わってきます。
 (「黄金風景」つづき)

 それから、三日たつて、私が仕事のことよりも、金銭のことで思ひ悩み、うちにじつとして居れなくて、竹のステツキを持つて、海へ出ようと、玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のやうに美しく並んで立つてゐた。
お慶の家族である。
(『太宰治全集 第二巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)
  私は自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。けふ、私はこれから用事があつて出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においで下さい。」
 お慶は、品のいい中年の奥さんになつてゐた。
八つの子は、女中のころのお慶によく似た顔をしてゐて、うすのろらしい濁つた眼でぼんやり私を見上げてゐた。
私はかなしく、お慶がまだひとことも言ひ出さぬうち、逃げるやうに、海辺へ飛び出した。
竹のステツキで、海辺の雑草を薙ぎ払ひ薙ぎ払ひ、いちどもあとを振りかへらず、一歩、一歩、地団駄踏むやうな荒んだ歩きかたで、とにかく海岸伝ひに町の方へ、まつすぐ歩いた。
私は町で何をしてゐたらう。
ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえつちえつと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しくからだをゆすぶつては、また歩き、三十分ほどさうしてゐたらうか、私はふたたび私の家へとつて返した。
 うみぎしに出て、私は立止つた。
見よ、前方に平和の図がある。
お慶親子三人、のどかに海に石の投げつこしては笑ひ興じてゐる。
声がここまで聞えて来る。
「なかなか、」お巡りは、うんと力をこめて石をはふつて、「頭のよささうな方ぢやないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ。」
「さうですとも、さうですとも。」お慶の誇らしげな高い声である。
「あのかたは、お小さいときからひとり変つて居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた。」
 私は立つたまま泣いてゐた。
けはしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去つてしまふのだ。
 負けた。これは、いいことだ。さうなければ、いけないのだ。
かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与へる。
(『太宰治全集 第二巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)
 太宰治の甲府時代について

三鷹の一市民
 1―幸福な結婚
 旺盛な創作活動


 甲府市御崎町に、美知子と新居を構えるや否や、はたして太宰は、堰を切ったように諸作を相次いで執筆する。
「若草」二月号に『I can speak』、「文体」二、三月号に『富嶽百景』、「文学界」「文芸」「若草」の各四月号に、『女生徒』と『懶惰の歌留多』と『葉桜と魔笛』を発表し、同じく四月、『黄金風景』が国民新聞の短篇コンクールに、上林暁の『寒鮒』とともに当選して賞金五十円を得るのである。
(『恋と革命 評伝・太宰治』堤重久 講談社現代新書 昭和48年)
上掲の作品は、いずれも円ろやかな、優しさと悲哀とユーモアに充ちた名作で、中でも一女学生の一日の心裡の推移を独白体で記した『女生徒』、かつて自分に仕えた女中の、その後の親子三人の文字どおり黄金風景を語って読者の胸を打つ『黄金風景』、富士の百景に感応する太宰の心情の百態を、叙事と叙情のユーモアにくるんだ『富嶽百景』が有名である。
この『富嶽百景』は、富士の百景に感応した所産であると同時に、その百景がまた、太宰の心情に感応した所産であるというわけで、現実と観念を一挙に把握して、そこに新現実主義とでもいうべき手法を確立させたものである。
そのほか、『I can speak』という作品も、わずか原稿四、五枚の小品ながら、一読三嘆、たちまち涙を誘う名品で、ことに書出しの二行は、当時の太宰の心魂の有体を、みごとに表出してあますところがない。
「くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷(ろうこう)の内に、見つけし、となむ。」
  この甲府時代の創作活動は豊饒で、さらに書下しの創作集「愛と美について」(『秋風記』『新樹の言葉』『花燭』『愛と美について』『火の鳥』収録)を竹村書店から、「女生徒」(『満願』『女生徒』『I can speak』『富嶽百景』『懶惰の歌留多』『姥捨』『黄金風景』収録)を砂子書房から刊行し、『八十八夜』を「新潮」、『美少女』を「月刊文章」、『畜犬談』を「文学者」、「ア、秋」を「若草」各八月号に発表する。
そうして9月1日、甲府を引きはらい、東京府下三鷹村下連雀113番地に移って、太宰は中期の最盛期を迎えることになる。
(『恋と革命 評伝・太宰治』堤重久 講談社現代新書 昭和48年)