2021年7月31日土曜日

7月も終わりだけど…

今日で7月も終わり…
昨日2回目のワクチン接種をした方に出会いました。
もう歩いておられるので「熱はないのですか?」とお聞きすると
「計ってないけど、ないと思う」と仰っていました。
注射をした左肩が痛いのは、1回目と同じだと話しておられた。
副反応の程度も人によって様々です。

歩いていると実が落ちていました。
実がなるのは早い気がするのだけどと、見上げると…
血流をよくする イチョウ

 2億年以上前から地球上に存在する樹木

 イチョウは、公園や道路わきなど、至るところで見ることができますが、2億年以上前に誕生した古い種類の樹木です。
 そのため、植物では珍しく、精子による生殖を行うという原始的な繁殖方法をとります。
イチョウは、雄花と雌花が別々の雌雄異株(しゆういしゅ)で、秋の初めにギンナンの中で子孫を残す営みが行われます。
 イチョウの原産は中国で、明の時代に書かれた薬草辞典『本草綱目(ほんぞうこうもく)』にも登場します。
けれども、これまで薬用に用いられてきたのは、もっぱら実のほうでした。
 イチョウの葉に、薬効成分があることを突き止めた国はドイツです。
血の巡りがよくなるため、ほとんどの老化現象によい効果をもたらします。
血流障害によって引き起こされる手足のしびれ、視力減退、神経痛、高血圧、めまい、また、脳溢血(のういっけつ)や心筋梗塞(しんきんこうそく)、心臓病、それらの後遺症にもよいでしょう。
(後略)
(『体の不調を自分で治す 薬草図鑑 』北條真由美編集 マキノ出版 2021年)
 道野久人さんのTwitterに

「随分と子どもを甘やかして、全く」。旅先で息子を負ぶっていた時、そう言われた。
息子は心臓が悪く、その頃はもう歩けなかった。
人は、他人からは分からない事情や想いを秘め、懸命に生きている。
息子の命日を終え、その時の息子の言葉を思い出す。
「みんな違う心の色があって頑張っているのにね」。


添えられていた画像1 、 画像2
  御崎町
……
 この家での最初の仕事は『黄金風景』で、太宰は待ちかまえていたように私に口述筆記をさせた。
副題の「海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて」を書かせて、どうだ、いいだろう、と言った。
……
(『回想の太宰治』津島美知子 人文書院 昭和53年)

太宰治」(甲府市)

『黄金風景』を転記しますφ(..)
 黄金風景
   海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖にむすばれて
         ――プウシキン――

 私は子供のときには、余り質のいい方ではなかつた。
女中をいぢめた。
私は、のろくさいことは嫌ひで、それゆゑ、のろくさい女中を殊にもいぢめた。
お慶は、のろくさい女中である。
林檎の皮をむかせても、むきながら何を考へてゐるのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持つたまま、いつまでも、ぼんやりしてゐるのだ。
足りないのではないか、と思はれた。
(『太宰治全集 第二巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)
台所で、何もせずに、ただのつそりつつ立つてゐる姿を、私はよく見かけたものであるが、子供心にも、うすみつともなく、妙に疳にさはつて、おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思つても背筋の寒くなるやうな非道の言葉を投げつけて、それでも足りずに一度はお慶をよびつけ、私の絵本の観兵式の何百人となくうようよしてゐる兵隊、馬に乗つてゐる者もあり、旗を持つてゐる者もあり、銃担つてゐる者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を鋏でもつて切り抜かせ、無器用なお慶は、朝から昼飯も食はず日暮頃までかかつて、やつと三十人くらゐ、それも大将の鬚を片方切り落したり、銃持つ兵隊の手を、熊の手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、さうしていちいち私に怒鳴られ、夏のころであつた、お慶は汗かきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしよびしよ濡れて、私は遂に癇癪をおこし、お慶を蹴つた。
たしかに肩を蹴つた筈なのに、お慶は右の頬をおさへ、がばつと泣き伏し、泣き泣きいつた。
「親にさへ顔を踏まれたことはない。一生おぼえてをります。」うめくやうな口調で、とぎれ、とぎれさういつたので、私は、流石にいやな気がした。
そのほかにも、私はほとんどそれが天命でもあるかのやうに、お慶をいびつた。
いまでも、多少はさうであるが、私には無智な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ。
 一昨年、私は家を追はれ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよひ、諸所に泣きつき、その日その日のいのち繋ぎ、やや文筆でもつて、自活できるあてがつきはじめたと思つたとたん、病を得た。
 ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さな家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかひ、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きてゐるよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹桃の花が咲いたのを、めらめら火が燃えてゐるやうにしか感じられなかつたほど、私の頭もほとほと痛み疲れてゐた。
 そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、痩せて小柄のお巡りが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精髯のばし放題の私の顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは……のお坊ちやんぢやございませんか?
さう言ふお巡りのことばには、強い故郷の訛があつので、
「さうです。」私はふてぶてしく答へた。
「あなたは?」
 お巡りは痩せた顔にくるしいばかりにいつぱいの笑をたたへて、
「やあ。やはりさうでしたか。お忘れかも知れないけれど、かれこれ二十年ちかくまへ、私はKで馬車やをしてゐました。」
 Kとは、私の生れた村の名前である。
「ごらんの通り、」私は、にこりともせずに応じた。
「私も、いまは落ちぶれました。」
「とんでもない。」
お巡りは、なほも楽しげに笑ひながら、「小説をお書きなさるんだつたら、それはなかなか出世です。」
 私は苦笑した。
「ところで、」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶がいつもあなたのお噂をしてゐます。」
「おけい?」すぐに呑みこめなかつた。
「お慶ですよ。お忘れでせう。お宅の女中をしてゐた――」
 思ひ出した。
ああ、と思はずうめいて、私は玄関の式台にしやがんだまま、頭をたれて、その二十年まへ、のろくさかつたひとりの女中に対しての私の悪行が、ひとつひとつ、はつきり思ひ出され、ほとんど座に耐へかねた。
「幸福ですか?」
ふと顔をあげてそんな突拍子ない質問を発する私のかほは、たしかに罪人、被告、卑屈な笑ひをさへ浮べてゐたと記憶する。
「ええ、もう、どうやら。」
くつたくなく、さうほがらかに答へて、お巡りはハンケチで額の汗をぬぐつて、「かまひませんでせうか。こんどあれを連れて、いちどゆつくりお礼にあがりませう。」
  私は飛び上がるほど、ぎよつとした。
いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、私は言ひ知れぬ屈辱感に身悶えしてゐた。
 けれども、お巡りは、朗かだつた。
「子供がねえ、あなた、ここの駅につとめるやうになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末の子が八つでことし小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんといふか、まあ、お宅のやうな大家にあがつて行儀見習ひした者は、やはりどこか、ちがひましてな。」
すこし顔を赤くして笑ひ、「おかげさまでした。お慶も、あなたのお噂、しじゆうして居ります。こんどの公休には、きつと一緒にお礼にあがります。」
急に真面目な顔になつて、「それぢや、けふは失礼いたします。お大事に。」
(『太宰治全集 第二巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)

つづく…