2021年8月22日日曜日

この蒸し暑さは…

雨の心配をせずに歩けたけど蒸し暑い(^^;
もう台風12号の湿った空気が流れてきているのかな?

台風12号 昼すぎかけて先島諸島に最接近へ 暴風や高波に警戒を」(NHK)
1944年8月22日に
学童疎開船「対馬丸」撃沈から77年 那覇市で慰霊祭〟(沖縄NHK 8月18日)

安田菜津紀さんのTwitterに

77年前の今日、9歳だった平良啓子さんを乗せた対馬丸は雷撃で沈没、800人近くの児童が犠牲に。
沖縄地上戦前、軍の食料確保などのため、既に戦場だった海を越えての疎開が進められた。
「沖縄に”寄り添う”っていうけど、何に寄り添うのか。”押しつける”ことに寄り添うのか」


 戦場だった海、「生き残ってしまった」罪悪感- 平良啓子さんインタビュー(2020年6月24日)
8月20日の記事で国立公文書館のTwitterを紹介しました。

今日(8/20)はモスキートデー(蚊の日)。
1898年8月20日にイギリスの細菌学者ロナルド・ロスが、ハマダラカ類の蚊の胃からマラリアの原虫を発見したことにちなんでいます。
この発見により、マラリアの予防・治療法が前進しました。


父は、マラリアに感染したことがあります。
戦後、戦地からの復員兵によってもたらされたようです。

はやり病あれこれ 瘧/マラリア」(国立国会図書館)

世界では、今でもマラリアによって多くの人々が亡くなっています。
年間42万人以上が命を落とす感染症、マラリアとは」(Malaria NO MORE japan)

現代の感染症』(品切れ)よりマラリアについて一部転記しますφ(..)
動物や昆虫を介する感染症
 1 マラリア
  歴史記録に残る病気


 マラリアは人類の歴史とともに存在したことが記録されている重要な疾患です。
 まず、古代(紀元前6世紀)のバビロン文書にその記録があります。
この病気が世界の歴史に大きな影響を与えた例として、マケドニアのアレキサンダー大王(紀元前4世紀)の例があげられます。
大王は世界制覇寸前にマラリアで倒れたのです。
もし、アレキサンダー大王がマラリアで死ななかったら、世界の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
また、エジプトのクレオパトラもマラリアで苦しんでいたと記録されています。
(『現代の感染症』相川正道、永倉貢一 岩波新書 1997年)
 日本にも土着のマラリアがありました。
701年の『大宝律令』11巻に「瘧(おこり)」の名前ではじめて記載されています。
984年の『医心方』に「和良波夜見(わらわやみ)」という言葉でマラリアが記述され、『源氏物語』の光源氏が「和良波夜見」で苦しんだことが書かれています。
平清盛も1181年にマラリアによって死亡したといわれています。
歴史を語るときに「もし……だったら」は禁句なのですが、マラリアの存在は世界史を変えるくらいの大きな意味をもっていました。
  蚊が媒介する

 マラリアは熱帯・亜熱帯地域の103カ国に分布し、21億人を感染の危険にさらし、年間の推定患者数2億6700万人、推定発症者数1億700万人、推定死亡者数150万~300万人に達する、感染性の高い世界有数の原虫性疾患です。
 マラリアの名前はイタリア語の「悪い空気」( mal=悪い、 araia=空気の意味)に由来しています。
その昔は「沼地にいき、悪い空気を吸った」のが原因と考えられていました。
それもとうぜんで、沼地には蚊が多く、そこでマラリアに感染したのです。
しかし、蚊がマラリアを媒介することを証明したのは、前述のように(2章 病原微生物と媒介者の発見)、イタリア人グラシ(1890年)とイギリス人ロス(1897年)です。
  蚊がマラリアを媒介することを応用して、はじめて病気のコントロールをおこなったのはアメリカ人軍医ゴーガスでした。
かれはキューバのハバナで、その当時の住民の90%が感染していたマラリアを、1908年までに、じつに1.9%までに減少させました。
 フランスは19世紀末からパナマ運河を建設中でした。
しかし、マラリアや黄熱病のために、建設は遅々としてすすまず、放棄寸前でした。
アメリカ政府はパナマ運河の権利をフランスから買いとりましたが、やはり黄熱病の洗礼を受け、パナマにいたアメリカ人の三分の二が帰国してしまいました。
そこで、まずゴーガスにこの二つの病気のコントロールを命じました(1901年)。
 ゴーガスがしたことは一大清掃運動でした。
毎朝、消毒のための七つ道具をかかえた4000人の衛生部隊が街にくりだし、軒から軒へ薬をまき、汚水には油をまき、ネズミを追かけまわし、町の衛生状態を改善したのです。
その結果は驚くべきもので、前年まで206件あった黄熱病が1902年にはわずか1件に激減し、以後運河が完成するまで黄熱病は完全に一掃されました。
 マラリアは黄熱病ほど劇的な変化をしめしませんでしたが、1906年に82%だった住民のマラリア感染率が毎年着実に減少して、運河が完成した1913年には7.6%になりました。
病気のコントロールがパナマ運河の完成をうながしたのです。
アメリカ政府は、かれの偉業をたたえてパナマ市にゴーガス記念病院をつくりました。
現在もこの病院はマラリア研究のために活動しています。
  耐性マラリア原虫があらわれた
 
 キナの樹皮には天然アルカロイドのキニーネがふくまれ、南米では粉にしてマラリア治療薬として用いており、ヨーロッパ人はアメリカ・インディアンからこのことを教わったとの記録があります。
キナの樹皮を最初にヨーロッパにもち帰ったのは、スペインの牧師ベネガスで、1632年のことです。
その後、キナの樹皮はヨーロッパで広く用いられました。
1820年、フランスの科学者がキナ樹皮からキニーネを抽出しました。
キナの需要が高まるにつれ、南米からの輸入ではまかないきれなくなり、オランダはその植民地であるジャワ島で、イギリスはマドラス島でキナの栽培をはじめました。
 このようにキニーネの需要は高まる一方でしたが、抗マラリア剤の化学合成の研究もさかんになり、1934年にクロロキンが化学合成されました。
クロロキンは第二次世界大戦でさかんに使用され、多くの人々の命を救いました。
第二次世界大戦で約500万の日本人兵士が命を落としたといわれています。
しかし、戦闘で命を落とした兵士の数は三分の一くらいで、残りの人たちはじっさいは栄養不良、赤痢やジアルジア性下痢による消耗、マラリアで死亡していたのです。
連合軍は、クロロキンや開発されたばかりの抗生物質という治療薬をもち、十分な体制で戦争にのぞみ、かたや食料や治療薬をもたずに、がむしゃらに戦線を拡大した日本軍。
勝敗は戦う前に決まっていたのです。
  しかし、クロロキンがその威力を発揮できたのは1960年頃まででした。
マラリア原虫がクロロキンにたいして耐性をもちはじめたのです。
クロロキン耐性マラリア原虫は、はじめコロンビアで1959年に発見されました。
ついで、タイでも見つかり、急速に他の国々にひろまっていきました。
その原因はベトナム戦争です。
南ベトナムを共産軍の侵入から守るために、アメリカをはじめ他の諸国が多くの兵士を東南アジアに派遣しました。
これらの兵士が、マラリア予防のために、クロロキンを濫用したためです。
 クロロキンがマラリアの特効薬でなくなったため、世界の学者たちは新しい抗マラリア剤の開発にとりかかりました。
その結果、合成されたのがメフロキンです。
また、クロロキンほど効果がないために無視されていた、他の抗マラリア剤の再検討がなされました。
このような薬剤に、プログアニールやアモダイアキンなどがあります。
いずれにしても、これら薬剤にたいしても、現在、耐性原虫の出現が確認されています。
  クロロキンがひじょうに効果的であったために、キナの樹の栽培は少なくなっており、特効薬キニーネの生産が追いつかなくなくなっていました。
このような状況下、1971年に中国からよニュースが入りました。
よもぎの一種の青菁(アルテミシア・アンヌア)という植物が抗マラリア剤として効果がある、との報告でした。
2000年前の中国の記録に、青菁の汁がマラリアに効くとの記述があります。
その後、多くの国々で青菁素(チンハオスー)の効果が調べられ、青菁素やその誘導体が、マラリアとくに脳性マラリアに効果的であることが一般的に認められました。
この青菁の栽培が各国ですすみましたが、中国およびその周辺地域で栽培された青菁以外からは良質の青菁素はえられていません。
また、青菁素とその誘導体の化学合成が試みられていますが、高価になり実用化されていません。
 青菁素にたいする評価が高くなると、マラリアにかかりたくないためにこれを予防的に内服する人たちがでてきます。
その結果、この理想的な治療薬にたいしても耐性をもつマラリア原虫が出現してきました。
耐性マラリア原虫の出現を考慮して、現在、青菁素と他のマラリア剤との併用による治療がなされています。
現在、多剤耐性をしめるマラリア原虫にたいする抗マラリア剤の開発が急がれています。
(『現代の感染症』相川正道、永倉貢一 岩波新書 1997年)