2021年8月14日土曜日

雨が降る前に…

天気予報を見ているといつも歩いている時間(1時間ほど)は、
なんとか雨が止んでいるみたいなので出かけました。
歩いている時は、少し小雨が降った程度でした。
駐車場に着く寸前に風が強くなり、大粒の雨が降り出しました。
台風なら1日で通り過ぎるのに…

ニュース特設 大雨情報(8月)」(NHK)

近畿地方 中部に発達した雨雲 災害の危険性高まる 警戒を」(関西NHK)
 稲葉剛さんのTwitterに

拡散希望
メンタリストDaiGo氏のYouTubeにおけるヘイト発言を受けた緊急声明

生活困窮者支援団体の連名で声明を発表しました。
昨夜の「謝罪・反省」動画の問題点も書いています。
ぜひご一読ください。


保山耕一さんのTwitterに

私は生活保護を受けてはいませんが、後遺症のある体で勤まる仕事はない。
収入を失い、数ヶ月後に追い込まれるであろう時、どうすれば良いのか、考える事からも逃げている。
そんな時、DaiGoの生活保護発言での炎上。
醜いヘイトに対してYouTubeはアカウント停止にすらしない。
それが日本の現実だと愕然。
8月14日は「京橋駅空襲被災者慰霊祭」(総務省)

第67回(正当第77回忌)京橋駅空襲被災者慰霊祭」(妙見閣寺)

戦争終局期の空襲
 8.14大空襲

(前略)

 8月14日午前10時45分から開かれた宮中防空壕内の御前会議で、昭和天皇の決断が下った。
御前会議が終わったのは正午であった。
こうして、ポツダム宣言受諾が最終的に決定した。
翌15日正午、天皇の録音放送で、3年8か月に及んだ太平洋戦争は終結した。
 ところが、8月14日午後、145機のB29が大阪陸軍造兵廠をおそった。
和平交渉が日本側によって引き延ばされているとみたアメリカ軍は、「第二次世界大戦での爆撃作戦の最終シリーズ」の目標として、大阪陸軍造兵廠、光海軍工廠(山口県)、伊勢崎市(群馬県)を選んだのであった。
(『大阪にも空襲があった~語り継ごう大阪空襲~』小山仁示 ピースおおさかブックレット 1991年)
  大阪の街が焼野原となったのに、大阪陸軍造兵廠は生き残っていた。
それ故に、8月14日、最後の空襲の目標となった。
 この日、大阪陸軍造兵廠爆撃に向かったB29は161機、そのうち145機が午後1時16分から2時1分まで、6700メートルないし7700メートルの高度から、2000ポンド通常爆弾(1トン爆弾)と1000ポンド通常爆弾(500キロ爆弾)をあわせて706.5トン投下したと、アメリカ軍は記録している。
この爆撃には硫黄島基地のP51とリパブリックP47が援護出撃した。
 すでに述べたように、大阪陸軍造兵廠は、現在の大阪城公園、ビジネスパーク、森ノ宮電車区の全域を占めた面積1.18平方キロの巨大な陸軍直轄工場であった。
これが日本の降伏が決定したあとの8月14日午後、完全に壊滅した。
 城東線(環状線)森ノ宮・京橋間の線路沿いのコンクリート塀がことごとく吹っ飛び、西側も東側も、無数と思える工場の鉄骨があめ細工のようにひん曲り、1トン爆弾の大きな穴がこれまた無数にあいていて、戦争というものの残酷さをもののみごとに見せつけていた。
 明治以来の日本陸軍を支えてきた大阪陸軍造兵廠はこうして壊滅し、大日本帝国の敗北とまさしく運命をともにした。
この日の空襲で、1トン爆弾が京橋駅を直撃した。
二百数十人の生命が失われた。
翌日の正午になると、もう空襲の恐怖がなく、平和な日々を過ごせることを知らないで数多くの尊い生命が奪われた。
日本が降伏したため、その死者は数えられもしなかった。
もっとも悲惨な、もっとも不幸な空襲が終戦の前日にあった。
(『大阪にも空襲があった~語り継ごう大阪空襲~』小山仁示 ピースおおさかブックレット 1991年)
(『鎮魂歌』 「<お絹の声>」つづき)

 おんみたちの死は僕を戦慄させた。
死狂ふ声と声とはふるさとの夜の河原に木霊しあつた。
  真夏ノ夜ノ
  河原ノミヅガ
  血ニ染メラレテ ミチアフレ
  声ノカギリヲ
  チカラノアリツタケヲ
  オ母サン オカアサン
  断末魔ノカミツク声
  ソノ声ガ
  コチラノ堤ヲノボラウトシテ
  ムカウノ岸ニ ニゲウセテユキ
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
 それらの声はどこへ逃げうせて行つただらうか。
おんみたちの背負されてゐたギリギリの苦悩は消えうせたのだらうか。
僕はふらふら歩き廻つてゐる。
僕のまはりを歩き廻つてゐる無数の群衆は……僕ではない。
僕ではない。僕ではない。
僕でなかつたそれらの声はほんたうに消え失せて行つたのか。
それらの声は戻つてくる。
僕に戻つてくる。
それらの声が担つてゐたものの荘厳さが僕の胸を押潰す。
戻つてくる、戻つてくる、いろんな声が僕の耳に戻つてくる。
  アア オ母サン オ父サン 早ク夜ガアケナイカシラ
 窪地で死悶えてゐた女学生の祈りが僕に戻つてくる。
  兵隊サン 兵隊サン 助ケテ
 鳥居の下で反転してゐる火傷娘の真赤な泣声が僕に戻つてくる。
  アア 誰カ僕ヲ助ケテ下サイ 看護婦サン 先生
 真黒な口をひらいて、きれぎれに弱々しく訴へてゐる青年の声が僕に戻つてくる、戻つてくる、戻つてくる、さまざまな嘆きの声のなかから、
  ああ、つらい つらい
と、お前の最後の声が僕のなかできこえてくる。
 さうだ、僕は今漸くわかりかけて来た。
僕がいつ頃から眠れなくなつのか、何年間僕が眠らないでゐるのか。
……あの頃から僕は人間の声の何ごともない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた。
面白さうに笑ひあつてゐる人間の声の下から、ジーンと胸を潰すものがひびいて来た。
何ごともない普通の人間の顔の単純な姿のなかにも、すぐ死の痙攣や生の割れ目が見えだして来た。
いたるところに、あらゆる瞬間にそれらはあつた。
人間一人一人の核心のなかに灼きつけられてゐた。
人間の一人一人からいつでも無数の危機や魂の惨劇が飛出しさうになつた。
それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。
それらはきびしく僕に立ちむかつて来た。
僕はそのために圧潰されさうになつてゐるのだ。
僕は僕に訊ねる。
救ひはないのか、救ひはないのか。
だが、僕にはわからないのだ。
僕は僕の眼を捩ぎとりたい。
僕は僕の耳を截り捨てたい。
だが、それらはあつた、それらはあつた。
僕は錯乱してゐるのだらうか。
僕のまはりをぞろぞろ歩き廻つてゐる人間……あれは僕ではない。
僕ではない。
だが、それはあつた。
それらはあつた。
僕の頭のなかを歩き廻つてゐる群衆……あれは僕ではない。
僕ではない。
だが、それらはあつた、それらはあつた。
 それらはあつた、それらはあつた。
と、ふと僕のなかで、お前の声がきこえてくる。
昔から昔から、それたはあつた、と……。
さうだ、僕はもつともつとはつきり憶ひ出せて来た。
お前は僕のなかに、それらを視つめてゐたのか。
僕もお前のなかに、それらを視てゐたのではなかつたか。
救ひはないのか、救ひはないのか、と僕たちは昔から叫びあつてゐたのだらうか。
それだけが、僕たちの生きてゐた記憶ではなかつたのか。
だが救ひは。
僕にはやはりわからないのだ。
お前は救はれたのだらうか。
僕にはわからない。
僕にわかるのは救ひを求める嘆きのなかに僕たちがゐたといふことだけだ。
そして僕はゐる、今もゐる、その嘆きのなかにつらぬかれて生き残つてゐる。
そしてお前はゐる、今もゐる、恐らくはその嘆きのかなたに……。
 救ひはない、救ひはない、と、ふと僕のなかで誰かの声がする。
僕はおどろく。
その声は君か。
友よ、友よ、遠方の友よ、その声は君なのか。
忽ち僕の眼のまへに若い日の君のイメージが甦る。
交響楽を、交響楽を、人類の大シンフオニーを夢みてゐた友よ。
人間が人間とぴたりと結びつき、魂が魂と抱きあひ、歓喜が歓喜を煽りかへす日を夢みたゐた友よ。
あの人類の大劇場の昂まりゆく波のイメージは……。
だが(救ひはない、救ひはない)と友は僕に呼びつづける。
(沈んでゆく、沈んでゆく、一切は地下に沈んでゆく。それすら無感覚のわれわれに今救ひはないのだ。一つの魂を救済することは一つの全生涯を破滅させても今は出来ない。奈落だ、奈落だ、今はすべてが奈落なのだ。今はこの奈落の底を見とどけることに僕の眼を磨ぐばかりだ。)
友よ、友よ、遠方の友よ、かなしい友よ、不思議な友よ。
堪へて、堪へて、堪へ抜いてゐる友よ。
救ひはないのか、救ひはないのか。
……僕はふらふら歩き廻る。
やつぱし歩き廻つてゐるのか。
僕のまはりを歩きまはつてゐる群衆。
僕の頭のなかの群衆。
やつぱし僕は雑沓のなかをふらふら歩いてゐるのか。
雑沓のなかから、また一つの声がきこえてくる。
ゆるいゆるい声が僕に話しかける。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…