2021年8月9日月曜日

長崎平和祈念

出かけたときは、ほとんど雨が降りませんでしたが
帰る途中で、大粒の雨と強風。
家に帰って天気予報を見ると台風9号がなくなって…

台風9号 温帯低気圧に 島根 広島で大雨 土砂災害など厳重警戒」(NHK)
昨夜の閉会式を見ていないのだけど…

 「橋本会長、バッハ会長の登場で選手ら続々退場 五輪閉会式」(産経新聞 8月8日)

閉会式 NHK総合 バッハ会長挨拶ブチッ→台風情報放送 ネット「NHKやるじゃん」〟(デイリー)

そして田中均さんのTwitterに

五輪が終わり収支は開示されねばならない。
無観客とコロナ対策での大幅な赤字を税金で補填されることは明らか。
これだけの感動を生んだのだから値すると考えるのか、
コロナ禍で多くの反対者がいる時に強行した訳で税金の使い方として誤りだ、と断じるか。
東京都や政府は説明を回避してはならない。


一方IOCの収入は民間企業からもたらされています。
産経新聞8月7日
長崎 原爆投下から76年 浦上天主堂で早朝ミサ 犠牲者に祈り」(NHK)

中満泉さんのTwitterに

8月9日、長崎原爆の日の朝。
台風は通り過ぎ雨は止んでいます。
犠牲者を悼み平和を祈る 11時2分には、青空が見えますように。

( 画像 )

渡邉英徳さんのTwitterに

76年前の今日。
1945年8月9日11時2分、長崎原爆投下。
写真は投下から20分後、香焼島において
松田弘道が撮影したきのこ雲
ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。
原爆忌(げんばくき)
  <原爆の日・広島忌・八月六日・長崎忌>晩夏・初秋 行事

 広島忌は8月6日で夏の季語、長崎忌は8月9日で秋の季語である。
 1942(昭和17)年12月8日、日本の理化学研究所で仁科芳雄(にしなよしお)が原子爆弾の研究活動を開始した。
米国のマンハッタン計画も1942年に開始された。
 1945年8月6日、広島にリトルボーイが自動投下され、43秒後に核分裂を起こした。
広島の原爆死没者名簿に2020年8月6日現在、32万4129名が記載されている。
 1945年8月9日、長崎の上空9600メートルで投下された爆弾が、高度500メートルで核分裂を起こした。
自然には少ないプルトニウム239が巨大プラントで生産されて使われ、18万5982名が死亡した。
 終戦の日にラジオで仁科が原子爆弾を解説した。
1945年7月16日のトリニテイ実験以来、今までに、大気圏外、大気圏内、水中、地下で2379回の核実験が、多くの国家によって行われてきた。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)

  広島平和記念資料館が管理する原爆、平和関連の資料をデータベース化した平和データベースがり、例えば資料館が所蔵する「被爆資料」を検索すると、原爆の犠牲になった方が身につけていた服や時計、熱線で焼けた瓦、火災で溶けて変形したガラス瓶や茶碗、硬貨のかたまりなど、被爆の惨状を伝える資料が公開されていることがわかる。
配給の衣料切符や防空頭巾(ずきん)など当時の生活を物語る資料もある。
現物を保存することで、被爆の実態が後世に伝わる。
 一方、原子力発電所は、2020年現在、世界に437基あるという。
核燃料物資は、核分裂や核融合でエネルギーを利用するが、ときに大災害をもたらす。
このような核物資を子孫に残さないために、それらの生産をまずやめて、核物資を安全なものにする技術を確立することが今なすべきことではないだろうか。

  草も木も空も大地も原爆忌  尾池和夫

  広島忌振るべき塩を探しをり 櫂未知子
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)

広島平和記念資料館 平和データベース

ながさきの平和
鎮魂歌

  <お絹の声

 わたしはあの時から何年間夢中で走りつづけてゐたのかしら。
あの時わたしの夫は死んだ。
わたしの家は光線で歪んだ。
火は近くまで燃えてゐた。
わたしの夫が死んだのを知つたのは三日目のことだつた。
わたしの息子はわたしと一緒に壕に隠れた。
わたしは何が終つたのやら何が始つたのやらわからなかつた。
火は消えたらしかつた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
二日目に息子が外の様子を見て戻つて来た。
ふらふらの青い顔で蹲つた。
何か嘔吐してゐた。
あんまりひどいので口がきけなくなつてゐたのだ。
翌日も息子はまた外に出て街のありさまをたしかめて来た。
夫のゐた場所では誰も助かつてゐなかつた。
あの時からわたしは夢中で走りださねば助からなかつた。
水道は壊れてゐた。
電燈はつかなかつた。
雨が、風が吹きまくつた。
わたしはパタンと倒れさうになる。
 足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追越してゆく。
またパタンと倒れさうになる。
足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追越してゆく。
息子は父のネクタイを闇市に持つて行つて金にかへてもどる。
わたしは逢ふ人ごとに泣ごとを云つておどおどしてゐた。
だがわたしは泣いてはゐられなかつた。
泣いてゐる暇はなかつた。
おどおどしてはゐられなかつた。
走りつづけなければ、走りつづけなければ……。
わたしはせつせとミシンを踏んだ。
ありとあらゆる生活の工夫をつづけた。
わたしが着想することはわたしにさへ微笑されたが、それでもどうにか通用してゐた。
中学生の息子はわたしを励まし、わたしの助手になつてくれた。
走りつづけなければ、走りつづけなければ……。
わたしは夢のなかでさへさう叫びつづけた。
 突然、パタンとわたしは倒れた。
わたしはそれからだんだん工夫がきかなくなつた。
わたしはわたしに迷はされて行つた。
青い三日月が焼跡の新しい街の上に閃いてゐる夕方だつた。
わたしがミシン仕事の仕上りをデパートに届けに行く途中だつた。
わたしは雑沓のなかでわたしの昔の愛人の後姿を見た。
そんなはずはなかつた。
愛人は昔もう死んでゐたから。
だけどわたしの目に見えるその後姿はわたしの目を離れなかつた。
わたしはこつそり後からついて歩いた。
どこまでも、どこまでも、この世の果ての果てまでも見失ふまいとする熱望が突然わたしになにか囁きかけた。
そんなはずはなかつた。
わたしは昔それほど熱狂したおぼえはなかつた。
わたしはわたしが怕くなりかかつた。
突然、その後姿がわたしの方を振向いてゐた。
突き刺すやうな眼なざしで、……ハツと思ふ瞬間、それはわたしの夫だつた。
そんなはずはなかつた。
夫はあのとき死んでしまつのだから、突き刺すやうな眼なざしに、わたしはざくりと突き刺されてしまつてゐた。
熱い熱いものが背筋を走ると足はワナワナ震へ戦いた。
人ちがひだ、人ちがひだ、とパツと叫んでわたしは逃げだしたくなる。
わたしはそれでも気をとりなほした。
わたしを突き刺した眼なざしの男は、次の瞬間、人混みの青い闇に紛れ去つてゐた。
後姿はまだチラついたが……。
  人ちがひだ、人ちがひだつた、わたしはわたしに安心させようとした。
後姿はまだチラついたが……わたしはわたしの眼を信じようとした。
わたしはハツキリ眼をあけてゐたかつた。
水晶のやうに澄みわたつて見える、そんな視覚をとりもどしたかつた。
澄みきつた水の底に泳ぐ魚の見える、そんな感覚をよびもどしたかつた。
だけど、わたしはがつかりしたのか、ひどく視力がゆるんでしまつた。
怕しい怕しいことに出喰はした後の、ゆるんだ視覚がわたしらしかつた。
わたしはまはりの人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いた。
後姿はまだチラついたが……。
 わたしはそれでも気をとりなほした。
人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いて、何処へ行くのか迷つてはゐなかつた。
いつものやうにデパートの裏口から階段を昇り、そこまで行つたが、ときどき何かがつかりしたものが、わたしのまはりをザラザラ流れる。
品物を渡して金を受取らうとすると、わたしは突然泣けさうになつた。
金を受取るといふ、この世間並の、あたりまへの、何でもない行為が、突然わたしを罪人のやうな気持にさせた。
そんな気持になつてはいけない、今はよほどどうかしてゐる。
わたしはわたしを支へようとした。
今はよほどどうかしてゐる、しつかりしてゐないと、何だか空間がパチンと張裂けてしまふ。
何気なく礼を云つてその金を受取ると、わたしは一つの危機を脱したやうな気がしたものだ。
それからわたしは急いで歩いた。
急がなければ、急がなければ、後から何かが追かけてくる。
わたしは急いで歩いてゐるはずだつたが、ときどきぼんやり立どまりさうになつた。
後姿はまだチラついた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v
父が「土砂降りでなかったら散歩に行こうか」と声をかけてきました。
と言うのも明日は、私の2回目のワクチン接種なので大人しくする予定ですし、水曜日は、休養日にします。
父は、土曜日から散歩に行っていないので歩きたかったと思います。

朝、目が覚めた時に気分が悪いなと思って、携帯を見ると気圧が1000hpaを切っていました。
心筋梗塞を発症して以来、気圧の変化が体調に影響します。
台風9号(→温帯低気圧)が明日でなくてよかったです。