2021年8月26日木曜日

蒸し暑さで…

途中で出会った方が
「自転車で公園に向かう途中、風が吹いていたのに眼鏡が曇った」と今朝の蒸し暑さにビックリされていた。
〝まいにち養老先生、ときどき…「2021 夏」〟(BSプレミアム 8月21日)

60年前、インターン時代に進路を迷っていた時に奄美大島の加計呂麻島
フィラリアの検査を行っていたことを話しておられました。
養老孟司さんが解剖学を選んだ理由は、患者が亡くなるのを診るのが耐えられないというようなことを話しておられた。
新型コロナウイルスの治療に携わっている医療従事者が激務に燃え尽き症候群になるかもしれない…

燃え尽き症候群について」(獨協医科大学 精神神経医学講座)
八 寄生虫との長いつきあい
 6 フィラリア症と陰嚢水腫


 ところで、『今昔物語』(巻第二十八 第三十九)で医師が即座に寸白(すばく)と診断したのは、全身が腫れていたからであるが、腫れる寸白を象徴する病が象皮病であった。
象皮病とは皮膚が象のようになり、ぶくぶく腫れる病であった。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
『栄花物語(えいがものがたり)』の「とりべ野」に出てくる女院、東三条詮子(ひがしさんじょうせんし)は寸白で悩んだ。
女院の寸白は象皮病であったかもしれない。
女院は医師に診せることを拒み、物の怪(け)と信じてひたすら修法を尽くしたのであった。
鎌倉時代の絵巻物『奇疾絵巻(きしつえまき)』に象皮病を病んだ高貴な女性の絵がある。
両足が象皮病で、それを見て嘆いている(次ページの図<省略>)。
  同じく『奇疾絵巻』に大きな大きな陰嚢(いんのう)に悩む男の姿を描いたものが2点ある。
これもフィラリア症であるが、大きな陰嚢はしばしば人目にさらされていた。

(「探幽縮図(たんゆうしゅくず) 奇疾図巻(きしつずかん)」京都国立博物館)
 葛飾北斎(かつしかほくさい)にもフィラリア症の陰嚢水腫の男を描いた絵がある。
東海道を下って、三島までやって来たときに、群衆が二人連れを囲んでヤンヤと囃(はや)したてている。
何ごとかとのぞいてみると、大陰嚢水腫の男がそれを見せ物にしていた、
見せ終わると、陰嚢水腫を布にくるんで棒に結びつけて、二人で担いで去っていった。
 江戸時代の『新撰病草紙』にも、陰嚢見せ物が描かれている。
 西郷隆盛もフィラリア症の陰嚢水腫で、そのために馬に乗れないことは鹿児島では有名な話であった。
西南戦争で最期を迎えた西郷の遺体には首がなかった。
立派な駕籠(かご)の側に倒れていた遺体が見つかったが、それが影武者であるかもしれない。
陰嚢水腫が影武者でなく、本人であることの決め手になったのである。
 寄生虫学者の藤田紘一郎氏のよると、西郷は一時、奄美大島に流されたことがあったが、そのときフィラリア症にかかったと推測している。
 象皮病はいまもアフリカ、東南アジア、中南米などにたくさん見られる。
ネッタイイエカが媒介するバンクロフト糸状虫の寄生虫病(フィラリア症)であることがわかっているが、日本では、戦前まで全国的に発生していた。
戦後は九州南端部や沖縄に限られていたが、それも1978年以降、完全に姿を消している。
生活水準が上がり、蚊が駆除され、フィラリア患者の治療が徹底的に行われたからであった。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
稲の花が咲き出しました。

稲の開花と受精」(総合)