2021年8月15日日曜日

「終戦の日」

目が覚めて外を見るとかなり雨が降っていました。
天気予報を見ると9時ごろには少し雨量が少なくなるようなので、時間を遅らせて出かけました。
途中で傘をたたんで歩けるほどになりました。
一方、各地で大雨の被害が出ています。

ニュース特設 大雨情報(8月)」(NHK)

近畿 大雨で地盤が緩む 引き続き土砂災害に警戒」(関西NHK)
今日は、「終戦の日」
政府主催の全国戦没者追悼式 およそ310万人の戦没者慰霊」(NHK)

「敗戦」を「終戦」という言葉に置き換えているといつも思っています。
軍部が「退却」を「転進」という言葉にすり替えたのと同じだなと思う。
いまだに日本は勝ったと世迷言をネット上で見るのはそのためではないかと思う。

8月15日に敗戦を迎えますが、その後、ちばてつやさんなど国策で外地にいた日本人は辛酸をなめるようにして帰国します。
8月15日の思い出 ちばてつやさん」(戦争証言アーカイブス)

一方、関東軍などの指導部は、部下や日本人を見捨ててさっさと帰国している。
本当の地獄 敗戦後だった」(朝日新聞群馬 2020年8月23日)

半藤一利さんの『昭和史 1926-1945』を読んでいると、先日閉会した東京オリンピックのゴタゴタと一緒です。
日本の指導者は、悲惨な歴史を繰り返す…同じ失敗をしても平気な顔をしている。
むすびの章 三百十万の死者が語りかけてくれるものは?
……
 と、いろいろ利口(りこう)そうなことを言いましたが、昭和史全体を見てきて結論としてひとことで言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人びとは、なんと根拠(こんきょ)なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。
こんなことを言っても喧嘩(けんか)過ぎての棒ちぎれ、仕方のない話なのですが、あらゆることを見れば見るほど、なんとどこにも根拠がなのに「大丈夫、勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意する」だのということを繰り返してきました。
そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です。
今日の日本人にも同じことが多く見られて、別に昭和史、戦前史というだけでなく、現代の教訓でもあるようですが。
 そういうふうにみてくれば、昭和の歴史というのはなんと多くの教訓を私たちに与えてくれるかがわかるのですが、先にも申した通り、しっかりと見なければ見えない、歴史は決して学ばなければ教えてくれない、ということであると思います。
 ……
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
 国立公文書館のTwitterに

今日(8/15)は終戦の日。
昭和20年(1945)8月15日正午に玉音放送が行われました。
当館HPでは、「終戦の詔書」など、昭和20年の様々な出来事に関する資料を紹介するデジタル展示
昭和二十年を公開しています。
この機会に戦後日本の原点となった一年を振り返ってみましょう。
TBS NEWSのTwitter(8月13日)に

【スリランカ女性死亡 一部開示の入管映像「看守の笑い声」が…遺族再現】
名古屋入管の施設でスリランカ人女性が死亡した問題で、収容中の監視カメラの映像が遺族に初めて一部開示されました。
遺族が再現しながら証言したのは看守が高笑いするなど、最終報告書には書かれていない内容でした。
  鎮魂歌
 
   <ゆるいゆるい声>


 ……僕はあおのときパツと剝ぎとられたと思つた。
それからのこのこと外へ出て行つたが、剝ぎ取られた後がザワザワ揺れてゐた。
いろんな部分から火や血や人間の屍が噴き出てゐて、僕をびつくりさせたが、僕は剝ぎとられたほかの部分から何か爽やかなものや新しい芽が吹き出しさうな気がした。
僕は医やされさうな気がした。
僕は僕のなかに開かれたものを持つて生きて行けさうだつた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
それで僕はそこを離れると遠い他国へ出かけて行つた。
ところが僕を見る他国の人間の眼は僕のなかに生き残りの人間しか見てくれなかつた。
まるで僕は地獄から脱走した男だつたのだらうか。
人は僕のなかに死にわめく人間の姿をしか見てくれなかつた。
「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵つた。
まるで何かわるい病気を背負つてゐるものを見るやうな眼つきで。
このことにばかり興味をもつて見られるかのやうに。
それから僕の窮乏は底をついて行つた。
他国の掟はきびしすぎた。
不幸な人間に爽やかな予感は許されないのだらうか……。
だが、僕のなかの爽やかな予感はどうなつたのか。
僕はそれが無性に気にかかる。
毎日毎日が重く僕にのしかかり、僕のまはりはだらだらと過ぎて行くばかりだつた。
僕は僕のなかから突然爽やかなものが跳ねだしさうになる。
だが、だらだらと日はすぎてゆく……。
僕のなかの爽やかなものは、……だが、だらだらと日はすぎてゆく。
僕のなかの、だが、だらだらと、僕の背は僕の背負つてゐるものでだんだん屈められてゆく。
   <またもう一つのゆるい声が

 ……僕はあれを悪夢にたとへてゐたが、時間がたつに随つて、僕が実際にみる夢の方は何だかひどく気の抜けたもののやうになつてゐた。
たとへば夢ではあのときの街の屋根がゆるいゆるい速度で傾いて崩れてゆくのだ。
空には青い青い茫とした光線がある。
この妖しげな夢の風景には恐怖などと云ふより、もつともつとどうにもならぬ郷愁が喰らひついてしまつてゐるやうなのだ。
それから、あの日あの河原にずらりと並んでゐた物凄い重傷者の裸体群像にしたところで、まるで小さな洞窟のなかにぎつしり詰め込められてゐる不思議と可憐な粘土細工か何かのやうに夢のなかでは現れてくる。
その不気味な粘土細工は蠟人形のやうに色彩まである。
そして、時々、無感動に蠢いてゐる。
あれはもう脅迫などではなささうだ。
もつともつとどうにもならぬ無限の距離から、こちら側へ静かにゆるやかに匍ひ寄つてくる憂愁に似てゐる。
それから、あの焼け失せてしまつた家の夢にしたところで、僕の夢のなかでは僕の坐つてゐた畳のところとか、僕の腰かけてゐた窓側とかいふものはちよつとも現れて来ず、雨に濡れた庭石の一つとか、縁側の曲り角の朽ちさうになつてゐた柱とか、もつともつとどうにもならぬ侘しげなものばかりが、ふはふはと地霊のやうにしのび寄つてくる。
僕と夢とあの惨劇を結びつけてゐるものが、こんなに茫々として気が抜けたものになつてゐるのは、どうしたことなのだらうか。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…