このままだと入学式には、桜が散ってしまいそう…
母がなくなったとき、桜の花を見せてあげたいのに
暖かさで桜が散ってしまうねと妹と話していた。
でも、母の思いが通じたのか、寒さが戻ってきて、
斎場に向かうバスの中から桜の花を見せてあげられた。
今年は、どうなるのかなぁ…歩いていると中国語らしい会話をする夫婦に出会いました。
そのお二人にスマホで撮影を頼まれました。
そのときの会話は、まるでトキとヘブン(八雲)のように片言で(^_-)
撮すときに「ワン、ツウ、スリー」。
撮し終わってスマホを手渡し「ミテ」(ください)。
画像を確認してもらって「モウ イッカイ」(撮しますか?)などと……
それでも意思は通じたと思います(^。^)Dear にっぽん「日本語ヘタでも大丈夫 ~愛知・豊田 外国ルーツの高校生~」
「母国語」でなく「母語」(mother tongue)と放送されていました。
転校生が転校先でお国訛りを笑われることがよくあります。
太宰治も自分の「方言(津軽弁)」に劣等感を持っていました。
生徒たちには、ユックリでいいから自分の気持ちを表現できるように指導されていた。
「分からないところがあれば、母語で補いながらとにかく表現する」
この取り組みが全国に広がってほしいです。
「中国大使館侵入疑いで逮捕の自衛官 植え込みに隠れ声かけたか」(NHK 3月29日)
この件に関して日本政府は「遺憾」の表明に留めていますね。
なぜ、「謝罪」しないのでしょうか(したくない)?
現役の3等陸尉の犯行だけに、戦前の軍部の暴走と重ねてしまう。
「二・二六事件」で、川島義之陸軍大臣が反乱軍将校に賛同したように
首相も防衛大臣や自衛隊幹部は、気持ちは分かるとでも言っているように思います。
このままでは中国側に軍国化していると批判の口実を与えるだけだと思うし、
中国大使の引き揚げという事態をまねくこともありうるようにおもうのだけど。
「2・26事件とは? 日本を揺るがした陸軍将校のクーデター」(NHK戦争を伝えるミュージアム)
三等陸尉は幹部!
「自衛官の階級」(防衛省・自衛隊)
第3章 国家その他の国際法関与者
2 外交使節、領事、軍隊
…前略…
使節団の公館は不可侵とされ、通信の自由と保護、外交官の身体・住居・財産の不可侵、裁判権の原則的免除等が接受国に要求される。
外交官が犯罪を犯しても接受国は逮捕、訴追できず、国外退去を求めうるにすぎない。
これは領域主権の重大な制約となるが、国家機関には他国は支配権を及ぼしえないという国家平等原則と、犯罪捜査などを口実とする外交官の活動妨害を避けるという理由から認められてきたものである。
(『国際法 はじめて学ぶ人のための』大沼保昭 東信堂 2005年) 田中均さんの投稿(3月29日)
大使館への自衛官侵入問題について、私があたかも中国側に立つた議論をしてるとの批判がみられる。
私は他国に言われる前に我が身を正そうと述べている。
国際社会で大使館不可侵の原則は重く、ましてや自衛官の行動は格別の意味を持つので規律維持は極めて重要。
中国だから米国だからと言う話ではない。
第五章 二・二六事件の眼目は「宮城占拠計画」にあった
●広田内閣が残したもの
何がこの事件の後に残ったのか、簡単です。
松本清張(まつもとせいちょう)さんに『二・二六事件』という大著がありますが、その結論で述べている言葉が一番適しているかと思います。
「(これ以後の日本は)軍部が絶えず〝二・二六〟の再発(テロのこと)をちらちらさせて政財・言論界を脅迫(きょうはく)した。かくて軍需(ぐんじゅ)産業を中心とする重工業財閥(ざいばつ)を(軍が)抱きかかえ、国民をひきずり戦争体制へ大股(おおまた)に歩き出すのである。(日本の国がここでがらっと変わるのですが)この変化は、太平洋戦争が現実に突如(とつじょ)として勃発するまで、国民の眼(め)にはわからない上層部において、静かに、確実に進行していった」
清張さんが言うとおりで、これ以後の日本はテロの脅(おど)しがテコになって、ほとんどの体制が軍の思うように動いていくことになるのです。
…後略…
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
先日、法要の後に訪ねた新清水寺について●広田内閣が残したもの
何がこの事件の後に残ったのか、簡単です。
松本清張(まつもとせいちょう)さんに『二・二六事件』という大著がありますが、その結論で述べている言葉が一番適しているかと思います。
「(これ以後の日本は)軍部が絶えず〝二・二六〟の再発(テロのこと)をちらちらさせて政財・言論界を脅迫(きょうはく)した。かくて軍需(ぐんじゅ)産業を中心とする重工業財閥(ざいばつ)を(軍が)抱きかかえ、国民をひきずり戦争体制へ大股(おおまた)に歩き出すのである。(日本の国がここでがらっと変わるのですが)この変化は、太平洋戦争が現実に突如(とつじょ)として勃発するまで、国民の眼(め)にはわからない上層部において、静かに、確実に進行していった」
清張さんが言うとおりで、これ以後の日本はテロの脅(おど)しがテコになって、ほとんどの体制が軍の思うように動いていくことになるのです。
…後略…
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
●清水寺(大阪市天王寺区)
芭蕉の道を偲ぶ萩原井泉水
大都会の大阪市中心部で、いまだにこんな閑静なところが残されていたのかと、一瞬わが目と耳を疑いたくなるのが大阪星光学園あたりの高台である。
このあたり、上町台地にそって南北に寺がひしめいている。
吹き上がってくる風に揺れて樹々の葉擦れがさわやかだ。
だらだらと石畳の狭い坂を下りるとその一角に清水寺がある。
山号は有栖山、清光院ともいう。
この近くには浪華の名水とうたわれた井戸があった。
坂の下には昔、有栖川という清冽な小川が流れていたらしい。
(『大阪の寺・近代こぼれ話』荒木 傳 東方出版 1992年) 清水寺には市内唯一の滝が現在もある。
玉出の滝である。
京都清水寺の音羽の滝に似せてつくられたもので、源水は四天王寺金堂下の泉から引いている。
真冬の厳寒時、白衣をまとい、一心不乱に念仏を唱える行者の姿を今に見ることができるのもここならではである。
このあたり一帯はまた、松尾芭蕉晩年縁(ゆかり)の地で、数多くの俳蹟を今にとどめている。
おそらく芭蕉の紀行を追体験したい意図をこめてであろう、俳人の萩原井泉水(せいせんすい<1884~1976>)が大阪のさる俳人と連れ立って大正13(1924)年11月、この清水寺周辺を散策している。 萩原井泉水(実名 藤吉)は東大在学中から河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の新傾向俳句に共鳴、虚子らと鋭く対立した。
自ら俳誌『層雲』を自費出版し、印象派風の自由律句を唱えて、後には碧梧桐とも袂を分かった。
その発句作法はまことに象徴的、心境的、散文詩的な作風で、わが国俳壇史に一時代を築いた。
門下の俳人で有名なのは尾崎放哉と種田山頭火である。 愛染堂を訪れたあと彼は家隆塚におもむいた。
藤原家隆(ふじわらのいえたか/かりゅう)の歌、
ちぎれあれば難波の里に移り来て
波の入日を拝みつるかな
から「夕陽丘」の地名が生まれたことを感慨深く彼はここで説明を受けた。
「おお あれが清水寺か。俳聖芭蕉が最後に杖を曳(ひ)いたのがこのあたりとは」
眼下の寺の甍(いらか)を凝視した。 芭蕉が寂滅した年(元禄7年)の9月、この清水寺の茶店に遊吟した際、詠んだのが有名な、
此道や行く人なしに秋の暮
である。
昔、清水寺のすぐ北隣に、大阪切っての風流な料亭「浮瀬(うかむせ)」があった。
松林に囲まれた二階建ての豪奢な館で、そこは遠く大阪湾の白帆や淡路島まで遠望できる、それはすばらしい眺めだったと言い伝えられている。
『摂津名所図会』や『浪華の賑ひ』の「浮瀬」の全景絵図は、かつての名亭をしのばせるに十分だ 芭蕉の句、
松風や軒をめぐりて秋暮れぬ
この秋は何で年よる雲に鳥
は、いずれも芭蕉が最晩年、「浮瀬」で詠んだものである。
己の死期を悟っていたのだろうか、芭蕉の句には何とも言えぬ寂寞(せきばく)感が漂っている。 荻原井泉水も「此道や……」の句について、
俳諧の道といふ抽象的な理念を持たせたものでああるが、初めから概念的に案出したものでなく秋の暮の物淋しい路上を打眺めての印象から直ちに想を得たものであらう。(『新清水寺』萩原井泉水)
と推測している。 芭蕉はこのあとすぐ病いを煩い、本町の花屋裏座敷が最期の宿舎となるのだが、死の直前に詠んだ句が、
旅に病んでゆめは枯野をかけまはる
で、句碑は南御堂本堂北裏に建っている。
ここでは「まはる」か「めぐる」かは問うまい。
そして御堂筋いちょう並木の下に「終焉地」碑がある。
萩原井泉水はこのあと下寺町の遊行寺を訪ねている。
ここには芭蕉塚があるからだ。
大阪の芭蕉塚ではこの寺にあるのが最大のものである。
砂岩でつくられているため、風化剝落がはげしいのが何とも残念だ。
(『大阪の寺・近代こぼれ話』荒木傳 東方出版 1992年)
「増井浮瀬夜の雪 (浪花百景)」(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)今朝の父の一枚です(^^)/
昨日は、会えなかったのですが、今朝は会えて喜んでいました。
土、日や祝日は来園者が多いので公園に行くのを止めていたのですが。
最近は、私や父、妹の通院で散歩に出る日が少なくなり、贅沢を言えなくなりました(^_-)
図鑑でしらべる
すぐに図書館に行き、『鳥類の図鑑』を借りてきて調べました。
最初の1ページから、一羽一羽を今見た鳥とくらべたのです。
図鑑の最初から最後まで、3回も調べたでしょうか、それでもピーヨ鳥は見当たりません。
「ひょっとして新種では?」と何度も思ったものでした。
野鳥ではなく、飼い鳥が逃げ出したのかなと考えました。
ところが、4回目ではじめて、「この鳥はヒヨドリなのではないか?」と思うようになりました。
説明文を読んで、ヒヨドリは波型に飛ぶと書いてあったからです。
図鑑の絵は似てはいても、本物はもっと黒っぽい灰色でしたし、もっと大きな鳥のようにも思われました。
図鑑では頭のうしろがぼさぼさに立っているけれど、そんなふうには見えなかったし、などとヒヨドリに決めかねていました。
しかし、一度ヒヨドリではないかと思いはじめると、今度は頬の栗色、斑紋のある灰色の体、長めの尾などが一致し、さらにピーヨピーヨと鳴くという説明文から、確証を深めていったのです。
そして自分で勝手につけたピーヨ鳥とヒヨドリが、似ていることにあらためて驚かされたものでした。
今考えれば、ヒヨドリは鳴き声から名づけられたとも言われているので、この一致はさほどふしぎなことではないのかもしれません。
…つづく…
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)














