2026年3月19日木曜日

法要(四天王寺)~玉出の滝

参道の花屋さんで供花を買って(二つで760円だったかな?)
参拝者が少ないうちにと墓詣りをしました。
共同墓がある納骨総祭塔に入るときにあるお堂が

布袋堂(ほていどう) 
 創建 推古天皇元年(593)
 再建 昭和27年(1952)

 その昔、聖徳太子の乳母をここにお祀りしていたことから、四天王寺の布袋尊は乳布袋(乳のおんばさん)と呼ばれ信仰を集めている。

 婦人が分娩後、乳が出なかったり、出ても少量で搾乳が不十分の者は、宝前に絵馬を奉納して、あんころ餅を供えて立願し、そのお供物をいただいて食べると乳が多量に出るという。
また、産婦が乳児を死なせ、乳に凝りが出来て困るときは、反対に「乳預け」の願をかけるとすぐ応験があるという。

 また、大阪七福神の一つであり、福を呼ぶ布袋尊と親しまれ参詣人が絶えない。
祖父・祖母そして義弟が眠る合同墓(右)
母が眠る合同墓にお参りしました(左)。
 丸池(まるいけ)鏡の池(かがみのいけ) 

この池は、俗に「丸池」や「鏡の池」と呼ばれている。
如何なる大旱(たいかん)の年といえども池の水が涸れる事はないと伝えられ、往古より雨乞いを行う時は、この池の聖水を使って祈祷をしていたという。
 池の西(正面から向こう岸)には仏足石(ぶっそくせき)と釈迦如来像が祀られ、参拝者はこちら側(此岸)から西の方角を向いて、極楽浄土(彼岸)を観想(かんそう)し、池越しに拝むのが古来からの習わしであった。
 また、この丸池は別名「上(かみ)の池」、亀の池は「中(なか)の池」、東大門南西の辯天池は「下(しも)の池」と呼ばれ、合わせて四天王寺三池という。
 これらの三池は境内の東西同軸線上に位置しており、太平洋戦争大阪空襲の際、池より北側の寺域を焼失から守ったと云われる。
三池から北側に存在する本坊方丈(ほうじょう)・五智光院(ごちこういん)・六時礼讃堂(ろくじらいさんどう)・元三大師堂・寺宝等は、みな重要文化財に指定されている。
五智光院での法要は、

永代祠堂法要 ご参詣者様へ 

 法要のご参列は案内ハガキ1枚につき、
 1名様のみとなっております。
 お連れ様は一緒に入堂できません。
 境内の中心伽藍や南授与所などでお控えください。
   総本山四天王寺

私が代表で参列しました。
9時半過ぎに受付を済ませたのですが、受付番号が「204」番でした。
法要を終えたのは、10時50分頃になりました。
六時礼讃堂の修理工事用の幕が外されていました。
亀井堂」で経木流しが行われていました(撮影禁止です)。
大阪 四天王寺 日本初の本格的な仏教寺院」(NHKアーカイブス 2000年)
柱や柵などが映り込んでしまうのですが

史跡
 四天王寺の伽藍配置と
 排水溝(白鳳時代)について
 

当寺は飛鳥時代(593年)に創建された最も古い特色をもつ日本仏法最初の大寺である
しかもこの伽藍配置は世に四天王寺式と呼れ
主要な堂塔が南北一直線に構築せられ
中国朝鮮の上代寺院の様式を継承したものである
こうした重要な伝統をもっているので
戦後当寺伽藍復興に際し昭和31年より三ヶ年間
文化財保護委員会と大阪府とによって伽藍遺跡の発掘調査の結果
全く堂塔の位置に変化のないことが実証せられた。
又この排水溝からもこのことが十分察知せられたが
これはおそらく金堂の雨落溝の排水目的としてつくられたものと考えられる。
廃瓦を両側に積み上げ
その上部に奈良時代の平瓦を覆った極めて簡単な構造のものであって
千二百年もの間この姿で保存せられたと謂うことは
これ亦非常に珍しいことである。
なおこの排水溝の西側現在の参道の直下に約二米のほぼ創建当時の参道と考えられる道が
塔、金堂に向って造られていたものと推測される。
龍の井戸 

 四天王寺では、中心伽藍金堂の地下深くに流れる荒陵池の麗水に住む青龍が寺域を守護していると信仰されています。
創建当初の事が記された『四天王寺御朱印縁起』に「四天王寺の地には七宝が敷かれ、青龍が恒に守護しており、その麗水は東に流れている…」とあり、江戸時代には井戸屋形が造られ、境内図にも「龍の井」と明記されるほど、中心伽藍内で外せない重要な建物と認識されていました。
 第二次大戦の大阪大空襲により焼失した井戸屋形は、戦後の復興事業に於いて現在の形となりました。
井戸枠は小豆島産花崗岩一石で造られ、見えがかりの高さ76cm、外側は八角形、中央に直径1メートル45cmの円孔がくり抜かれています。
 屋形の天井には、五重塔壁画も手掛けた日本画家の山下摩起画伯(明治23年<1890>~昭和48年<1973>)の筆による龍が描かれており、井戸を覗き込むと水面に龍の姿が浮かび上がるようになっています。
直接に井戸水の蒸気が当たる構造上、天井画の劣化が激しかったため、平成34年厳修の「聖徳太子千四百年御聖忌」に向け、平成29年9月に当初の天井画を精確に複製し、防カビ加工をした天井画が掲げられました。
男性が辛そうに登ってきた坂は

 清水坂 

新清水清光院に登る坂道をいう。
高台にある新清水境内からの眺望は格別で、
さらに境内南側のがけから流れ出る玉出の滝は、
大阪唯一の滝として知られている。
また、この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、
増井、逢坂、玉出、安居、土佐、金滝、亀井の清水は七名泉と呼ばれている。

天王寺七名水」(天王寺区)
規模は小さいけど「清水の舞台」(四天王寺支院 清光院 清水寺

以前訪ねた家隆塚からは、夕陽を眺めるのは難しくなっていましたが(2024年9月30日の日記
ここからなら眺めることができます。

 29 新清水寺 都会人癒す玉出の滝 

 …前略…

 新清水寺は、寛文年間(1670年頃)に僧の延海によって興された有栖寺からはじまる。
寺号を改めたのは、京都の清水寺から聖徳太子作と伝える千手観音を譲り受けた後の、享保年間(1720年頃)という。
 以後、有栖山清水寺、または清光院と呼ばれ今に至る。
森琴石の時代には「大師堂」「地蔵堂」「鐘楼」などが立ち並び、京の清水寺よろしく懸崖造りの「舞台」が本堂の前に備えられていた。
 寺は台地の西端にあたるため眺望に恵まれ、舞台から大坂市中はもちろん、播磨国や淡路島まで一望できたという。
今は本堂がひっそりと建ち、主役はまったく玉出の滝に取って代わられた。
(『森琴石と歩く大阪 明治の市内名所案内』熊田司・伊藤純編 東方出版 2009年)
 初代の玉出の滝は寛政8(1796)年に、京の清水寺の音羽の滝をまねて造られた。
当時は二十四文の拝観料を取っていたが、それでも涼を求める人々で賑わったという。
 当世風にいうと「マイナスイオンの癒し」であろうか。
「天下の台所」と呼ばれ喧騒に包まれた大都市に暮らした人々の、しばし夕涼みする姿が浮んでくる。
滝は明治8(1875)年に再建され、さらに昭和24(1949)年に修復されている。
三本の筧(かけひ)から落ちる水は、四天王寺の亀井から引かれているとされるが定かではない。
 ところで、新清水寺が位置する上町台地の西斜面には、天王寺七坂という七筋の坂道がある。
北から真言坂、源聖寺坂(げんしょうじざか)、口縄(くちなわ)坂、愛染(あいぜん)坂、清水坂、天神坂、逢坂。
すべて隣接する社寺やたたずまいの特徴からつけられた名である。
 美しく舗装された細い坂道はそれぞれに趣があり、立つだけで映画のワンシーンのように心に迫る。
登りきると何かありそうな、それとも下界を眺めた時の開放感か。
大阪で最も心地よい風景のひとつである。  (松本百合子)
(『森琴石と歩く大阪 明治の市内名所案内』熊田司・伊藤純編 東方出版 2009年)

続きは、後日、更新します(o_ _)o

3 件のコメント:

  1. こんばんは~

    Kazeさん、お母様方達の合同墓がある四天王寺さんへ
    お墓参りされたのですね。
    四天王寺さんへは、せんだって行ったところでしたので。。
    >主要な堂塔が南北一直線に構築せられ
    南大門の方から見た時にそうだったなぁ~と思いました。

    清水坂へ行かれたのですね。
    天王寺七名水、その時にどこかで読んだように覚えています。
    玉出の滝もですが。。。
    先日も近くまで行きましたが。。
    玉出の滝は、音羽の滝をまねて作られたのでしたか!!
    清水坂。。で、なるほどです。(#^.^#)


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    1. カイさんおはようございます(^^)/
      コメントありがとうございます。
      法要の後、どこをウロウロしようかと考えていたら
      カイさんの記事を思い出して今回の町歩きの参考にさせていただきました。

      >先日も近くまで行きましたが。。
      京都もそうですが、まだまだ訪ねたいところや見落としたことがありますよね。
      おかげで何度でも訪ねる楽しみがあると思っています。
      これから眼底検査があるので記事の更新は夜になると思います。

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    2. 追伸
      四天王寺で「広島焼き」の屋台があり
      美味しそうな匂いが漂っていましたが
      この後、ランチに入りたいお店があったので我慢しました(^_-)

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m