2026年3月4日水曜日

春雨というよりも

昨日は、気温が低く冷たい雨が降っていました。
今朝も時々、雨が降りました。
ついこの間まで4月並みの気温だと天気予報で言っていたのに
平均気温よりも低い日が続いています。
 はるさめ【春雨】 

 春に静かに降る雨。
『万葉集』にすでに大伴家持の歌がある。
春の雨も同義だが、正月から二月初めが春の雨で、二月末から三月が春雨だとする説もある。
春の雨より春雨はあたたかいイメージということになろうか。

 なにとなきとなりの垣根の草の名も知らばやゆかし春雨の宿  増田雅子
 
 忍びやかにけもののよぎる束の間の移り気よ春の雨温くふる 中城ふみ子

 あたたかさは、一方で、心の奥処に潜むなまめかしい感情、<忍びやかにけもののよぎる>ような性欲を動き出させる雨だということができるかもしれない。
   (木下一真)
(『岩波現代短歌辞典』岡井隆監修 岩波書店 1999年)

荊波の 里に宿借り 春雨に」(高岡市万葉歴史館)
 春雨(はるさめ)や降るともしらず牛の目に  小西来山(こにしらいざん) 

芭蕉より十歳ほど年下の大坂生まれの俳人。
十代でも一家を成すほどの才だったらしい。
右の句を見ても、感覚の鋭敏さ新しさには驚かされる。
牛のみひらいた目に、細い細い春雨が降りこんで吸われてゆく。
「降るともしらず」の表現に春雨がみごとにとらえられている。
別に「白魚やさながら動く水の色」という春の句もある。
すきとおった白魚の動きを、まるで水そのものが動くようだというのである。

小西来山(1654-1716) 江戸中期の俳諧師。
大坂生まれ。
西山宗因の門、前川由平に学ぶ。
軽妙洒脱、奇想奇抜な滑稽をねらった談林派の一人だが、のち俳風は芭蕉に近づいた。
句文集『今宮草』『津の玉柏』など。
(『折々のうた 三六五日 日本短詩型詞華集』大岡信 岩波文庫 2024年)
今朝のニュースで紹介されていた昨日の行事
長野 北相木村 伝統の流しびな「家難祓」児童が川に流す〟(長野NHK 3月3日)
もともとは女の子だけの行事だったみたいです

3月
 かなんばれ 

 南佐久郡北相木村の中心に坂上という集落があります。
ここでは三月三日のひな祭りの日に、小学校1年生から6年生の女の子達の手で「かなんばれ」という行事が行われています。
 この日学校から帰って来た子供達は、古くなったおひな様や人形、それにお汁粉の材料や鍋などを持って、村の下の方を流れている相木川の河原へ集まります。
 ここで大きな石の上へおひな様を飾り、石を集めてかまどを作り、鍋を掛け、火をたきつけてお汁粉を作ります。
春は名のみで川風のまだ寒い時ですが、皆してたきぎを拾い集めたり火をたいたりして楽しみます。
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)
 やがてお汁粉ができあがると、まずおひな様に供え、そのあとみんなで食べます。
お汁粉が空き腹にしみるようにおいしく、いろいろな話が出たり歌が出たりしてにぎやかです。
 そして最後に石の上のおひな様を、米俵の上下にあてるわら製の丸いフタ、サンダワラの上へのせて川へ流します。
いくつものサンダワラがゆるやかな川の流れにのってゆれながら流れてゆきます。
 この古い人形が人の世のけがれや災いを背負っていってくれるという古くからの信仰がここには生きています。
ヒトカタ(人形)でからだをなで、それを水に流すことによって身のけがれを払うというのは古くから行われていた行事です。
そのヒトカタがだんだんりっぱに作られるようになってひな人形となり、それが女の子のひな祭りと発展して広く行われるようになったのですが、そのヒトカタを流すという古いならわし、「流しびな」の風習がこの「かなんばれ」には残っています。
 「流しびな」の行事としては、鳥取県内各地で行われているものが有名ですが、かつては全国的に広く行われていたものです。
 長野県内では、北相木村の「かなんばれ」とほとんど同じような行事が、南佐久郡川上村で三月末から四月初めの間に、「かなんべ」という名称のもとに行われています。
    (向山雅重 民俗研究家)
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)

「流しびな」の行事を毎年7月の第1日曜日にする地方もあるそうです。
思川 人形に願いを託す」(栃木県 NHKアーカイブス 207年)
 第五章 政治とは何か

 日中平和条約秘話 

 私は政治家になってから数回外国を訪れた。
その中でも、特に印象に残っているのが昭和52年10月、二階堂さん、大村襄治さん(元防衛庁長官)と一緒に鄧小平さんに会った時と、同じ年に12月に、日本パレスチナ友好議員霊明の中東使節団(木村俊夫団長)の一員としてレバノンを訪れ、アラファトPLO議長と会談した時のことである。
(『政治とは何か』後藤田正晴 講談社 1988年)
 二階堂さん、大村さんと中国を訪れた当時は、福田内閣だった。
日中関係は、47年田中内閣時代の日中共同声明によって国交は回復したものの、平和条約締結に当たり「覇権条項」をめぐって、両国の意見が厳しく対立していた。
私たち三人は、あくまでも田中派の議員という個人的資格ではあるが、少しでも両国の関係打開ができないものかと考えていた。
 北京に着いてみると、日本大使館はまだ中国の要人とは本格的な接触がとれていない状態で、ともかく、張香山さん、孫平化さんなど中日友好協会の関係者との会合が持たれた。
 会合では、日中間に横たわるいろいろな問題について率直に話し合ううち、覇権条項に議論が及んだ。
中国側は「日中共同声明の第七項(覇権条項)を平和条約にそのまま盛り込むのに日本が同意しなければ、中国としては条約を締結できない」という原則論に始終した。
私は反論した。
「それはおかしいじゃないですか。この第七項をお読みになればわかるように、これを一字も変えずに平和条約に入れるなどということは、とてもできるものではありません。
 覇権という言葉の意味は必ずしもよく分かりませんが、私なりの理解はしていますよ。しかし、いずれにせよ、このまま条文に入れるのはとても無理なことです」
 中国側は私の話をじっと聞いていたが「今日、この問題を論ずるのはやめませんか」といったので、こちらも「結構です」と同意して終えた。
この間、会合は談笑交じりのくつろいだ雰囲気であった。
 いよいよ鄧小平さんと会うことになったが、その前夜、二階堂さんがホテルの私の部屋に入ってこられた。
「後藤田君、私は平和条約を一日も早く締結したほうがいいと思う。問題は覇権条項の取り扱いなんだが、明日、鄧小平さんと、このことを話してもいいもんだろうかね」
 私は即座にいった。
「それは二階堂さん、やったらいいんじゃないですか。わしらは日本政府から話をしてくれなんていうことを一言も頼まれていないんです。自民党の田中派の代議士として来ているだけの話で、結果がどうであろうと一向構わんですよ。わしらも遊びに来ているんじゃないんだから、おやりになったらいいじゃないですか」
 二階堂さんは私の返事を期待していたように「それなら、後藤田君、覇権条項をどのようにしたらいいか、ひとつ書いてみてくれんか」と言われた。
その夜、私は日中両国が合意しうるぎりぎりの線と思われる「文案」を作成し、メモに書いて二階堂さんに渡した。
 外国要人との折衝の仕方

 翌日、指定された人民大会堂に行くと、鄧さんは「みんな友達だから全員入っても構わない」といわれ、同行した秘書も部屋に通された。
鄧さんの他に、廖承志さん、韓念竜さん、そして中日友好協会の張香山さんも同席した。
 鄧さんは「皆さんは仲間なんですから、何でもいってください」といわれ、なごやかな雰囲気で話が進んだ。
そのうちに、話が肝心の平和条約になったので、私たちは「席を外させてもらいます」といって二階堂さんを残して外に出た。
中国側も、鄧さん以外は席を外し、こうして鄧―二階堂会談が始まった。
 私たちには日本人記者団もついていて、二人の会談が何が話し合われるかに強い関心を示したが、私はとぼけてホテルに戻り結果を待つことにした。
かなり長い時間経ってから、二階堂さんが戻ってきて、ぽつりといった。
「後藤田君、あの問題は解決するよ」
 私は、いささか驚いて「ほんとうですか。どんな話だったのですか」と聞いた。
「いやいや、君の書いたので、向こうは一向に構わないというんだ。これ、いけるよ。だけどもこれは一切外に出さないようにしようや」
 と二階堂さんはつけ加えた。
 案の定帰国してからが大変であった。
外交上の重要な役割を果たしはしたが、そもそもが政府に頼まれてやったことではない。
一体、誰に報告すべきか、というところから頭を痛めた。
私は二階堂さんに、直接福田総理に話をされるように勧めた。
 二階堂さんも同意され、首相官邸を訪れたが、重要な外交問題だけに、新聞記者に感づかれないようにするために、わざわざ二階堂さんは地元・鹿児島県志布志湾の開発計画書を携えて赴かれた。
 その後も、いろいろな経過はあったが、半年後に園田直外相が北京を訪れ、日中平和条約は締結された。
 当時の日中間のように政府関係が厳しい時期に、個人の資格で相手国の最高首脳と直接渡り合うということは、大変な決断を要することである。
私はこの時、あらためて二階堂さんの政治家としての力量を高く評価した。
 ところで、二階堂さんは外国の要人と話していても、若い時に米国で十年間も生活したせいか、自分の思っていることははっきりと相手に伝える。
政治家には、ニコニコ笑って、相手の調子に合わせるだけの人が多いが、二階堂さんは温容な話し方のなかにも、一本筋が通っているようであった。
 その後、56年4月に、日中友好議員連盟訪中団の団長となった古井喜実さんの勧めで、再び中国を訪れた。
私はこの時「古井さん、私はあなたの外交折衝ぶりを勉強させてもらうために付いていくんですよ」といって、実際、中国首脳との会議では何もいわなかった。
 この古井さんも、よく相手が怒らないものだと思うくらい、厳しいことをずけずけいった。
しかし、古井さんは、松村謙三さんの遺志を受け継いで日中関係の〝井戸を掘った〟という実績があり、その後も一貫して日中友好に力を尽くされている。
中国側もそのことを十分に知っているので、古井さんの厳しい言い分にも耳を傾けたのであろう。
 いずれにしても、二階堂さん、古井さんの外国要人との折衝の仕方から、多くを学ばせていただいた。
(『政治とは何か』後藤田正晴 講談社 1988年)

日中平和友好条約」(NHKアーカイブス 1978年)

イランへの攻撃は、アメリカがイスラエルにうまくのせられたように思います。
ホムルズ海峡の情況にロシア大統領はほくそ笑んでいると思う。
イスラエル首相もロシア大統領もアメリカ大統領よりいろんな面で上手だと思いますよ。
今朝の父の一枚です(^^)/
カワヅザクラを撮していた方と話していると
今年は、メジロが来ませんねと残念がっていました。

京都が中心だった初期の菓子文化」つづき

 風雅と質実さを融合した江戸の菓子

 江戸では「下り物」が尊ばれたが、菓子の世界も同様だった。
元禄(げんろく)5年(1692)の『万買物調方記(よろずかいものちょうほうき)』には、江戸の有名菓子所とは別に「下り京菓子屋」が四軒記載されている。
なかには、京で禁裏(きんり)御用を務める店の出店と思われるものもある。
こうした店を含め、江戸の経済力の伸張に伴い、上菓子をつくる店が増えていった。
 菓子の製法書は、享保(きょうほう)3年(1718)に日本初の菓子製法の専門書『御前菓子秘伝抄(ごぜんがしひでんしょう)』が出版され,宝暦(ほうれき)11年(1761)『御前菓子図式』などが続いた。
 そのなかで、庶民も楽しめる工夫がなされたのが、天保12年(1841)の『菓子話船橋(かしわふなばし)』だった。
八百善(やおぜん)主人・栗山善四郎(くりやまぜんしろう)に『料理通(りょうりつう)』を書かせた書肆(しょし)・和泉屋市兵衛(いずみやいちべえ)がプロデュースしたもので、製法の秘事・口伝(くでん)のほか、渓斎英泉(けいさいえいせん)の挿絵を添えた同書は、菓子製法書の最高峰といえる。
 上菓子だけが菓子ではない。
江戸で人気を集めた菓子に、享保期(1716~36)に誕生したと伝えられる向島(むこうじま)の「長命寺桜餅(ちょうめいじさくらもち)」がある。
塩漬けの桜の葉でくるんだ餅菓子は、曲亭馬琴(きょくていばきん)編『兎園小説(とえんしょうせつ)』によれば、文政7年(1824)一年間で38万7500個を売り上げたという。
 庶民に好まれた菓子の代表は、金鍔(きんつば)と大福餅だった。
金鍔は、初め関西で銀鍔(ぎんつば)として流行したもので、江戸に入って金鍔と名前を変え、女性を中心に人気を集めた。
大福餅が考案されたのは安永(あんえい)元年(1772)といわれる。
当初は焼いて売られていたが、「大福」という命名が功を奏し、紅白にして慶事にも利用されるようになった。
 菓子の隆盛は、もっともポピュラーな甘味料・砂糖の供給に支えられていた。
砂糖は国内生産が軌道に乗るまで、さまざまな試行錯誤がなされたが、江戸時代前半は輸入によって、後半には国内生産も増加し、菓子文化を支えていった。

(図:省略)
6月の土用干(どようぼ)しを描いた浮世絵。
女性の前には、角切りにした西瓜(すいか)が盛られている。
古くは「菓子」は、甘味を味わえる自然の恵み、果物を指した言葉。
江戸時代には,果物は「水菓子(みずがし)」と呼ばれた。
(『十二月の内水無月 土用干』国立国会図書館デジタルコレクション)

(『江戸の食文化 和食の発展とその背景』原田信男編 小学館 2014年)