曇り空で北風が冷たい冬空でした。
この寒さも今日までだとか
明日から少し寒さが和らぐらしい…
もうそろそろ出てこないかなと探すと
ツクシ(スギナ)がニョキニョキ出ていました(^_^)v
「トクサ-中学」「湾岸諸国の石油生産量 世界需要の約1割相当が減少 IEA分析」(NHK)
「ガソリン価格大幅上昇 関西でも戸惑いの声」(関西NHK 3月12日)
昨日は、妹を車で病院への送り迎え。
高くてもガソリンを入れざるをえません。
「ロシアによる子ども連れ去り “人道に対する罪” 国連 調査委」(NHK)
ロシアにとって救世主なのが
「米財務省 ロシア産原油など “一時的に各国に取り引き認める”」(NHK)
「トランプ大統領“サッカーW杯 イラン代表の出場は適切でない”」(NHK)
アメリカとイスラエルも出場できないはず。3月9日の「天声人語」に
…前略…
▼抱えていた連載を中断して、鷗外は職務に取り組んだ。
刀剣や仏像など分野ごとの陳列だったのを時代ごとに変え、研究紀要を創刊し、奈良の正倉院の宝物を学者にも見られるようにした。
展示だけでなく、博物館の役割である研究や保存にもバランスよく目を配ったと言えるだろう。
▼それから100年あまりが経ち、これからはコスパ第一、稼いでなんぼに変質してしまうのだろうか。
文化庁が、国立の博物館や美術館のうち、展示にかかる費用の4割以上を自力でまかなえない館は、再編の対象になり得ると決めた。
10年後までには一切国費に頼らぬように、ともしている。
▼そんなことをすれば各館とも、客を呼べる企画ばかりに必死になり、それ以外が後回しになってしまわないか。
財務諸表だけでは計れない文化の価値というものがあるはずだ。
▼現場からは、すでに悲鳴があがっている。
少し前には、国立科学博物館が光熱費の支払いに苦しんで、寄付を募ったこともあった。
日本の文化はすごい、技術はすばらしいと称揚しておきながら、なんと貧しい政治なのか。
▼鷗外は正倉院への出張を機に歌を残している。
<み倉守(も)るわが目の前をまじり行く心ある人心なき人>。
未来のためにも、文化や学術の継承に心ある国であってほしい。
2026・3・9
国立博物館などへの予算を削った税金をどこへ振り分けるのだろう
岸政彦さんの投稿(3月6日)
1953年の一コママンガらしいがいまと変わらんな
(画 像)
この頃、1950年に始まった朝鮮戦争が1953年6月に板門店で休戦協定が結ばれています。
「朝鮮戦争」(中学)
KBS京都テレビで放映された
京都浪漫 悠久の物語
〝第190回 和歌の家 冷泉家に密着~守り継がれる「型」の美~〟
冷泉家に「土足」で怒鳴り込んだ「心なき人」がいるのです。
〝一子相伝〟――なほ幾千代の栄えいのらむ
御文庫を守り抜いた父・為系
私の父・為系(ためつぎ<1881~1946年>)は為紀(ためもと)と同じでお酒は一滴も飲みませんでした。
毎月、月釜をかけては、羊羹と薄茶や煎茶をいただきながら和歌を詠んでおりました。
茶室に硯箱を持ち込んで句付けをして一日を楽しむという人でしたから、一力茶屋に出かけて行くというようなことは、もちろんありませんでした。
〝家庭は平和に〟という人で、家の中に安らぎを求めたのは、母親を早くに亡くしお祖母さんに育てられたからかもしれません。
父は育ててくれたその祖母をとても大切にしていたそうです。
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年)
父・為系の御文庫に対する思いは並々ならぬものがありました。
御文庫を守ろうとする姿勢、意志力……それがなければ、あの第二次世界大戦の戦中戦後を乗り切ることはできませんでした。
父のそういう後ろ姿を見ることもなく、話を聞くこともなければ、私は戦後の冷泉家を守ることはできなかったと思います。 今の時代の人は、親に反発したり反抗する勇気を持っていますが、私の時代は親の言うとおり、〝右に倣(なら)え〟がすべてでした。
父の言うこと、父の姿が教えとなって私に浸透していましたから、反発、反抗は思ったこともありませんでした。 冷泉家に伝わる典籍類は、私物化することなく公開すべきと情熱を傾けていた為臣(ためおみ<1911~44年>)は私の兄、第二十三代当主になります。
一般公開に向けて蔵書カードを作ったり、蔵書を新しく本にするために取り組んでおりました。
『時雨亭(しぐれてい)文庫』の第二巻を刊行したところで出征し、1944(昭和19)年に中国で戦死し、帰らぬ人となりました。
家族への知らせは翌年になってから。 志半ばで亡くなった兄の跡を継ぐことになったのは、私と主人の為任(ためとう<1914~86年>)です。
為任は第二十四代当主。
為任が冷泉家を継いで八か月後、父は亡くなりました。
亡くなる直前まで主人に冷泉流の披講のやり方や年中行事を教えていたようです。
しかし、すべてを教えるにはあまりにも短い時間でした。 敗戦直後の混乱期に私と主人はこの家を継ぎました。
文化財など顧みる余裕のまったくない時代、食べるものすらない窮乏のなかで、御文庫とこの屋敷を守り抜くということは並大抵なことではありませんでした。
華族制度が廃止され、農地改革により収入の道が断たれたその中で、莫大な財産税、相続税が私たちの肩にのしかかってきました。
来る日も来る日も土足で家に上がり込み、〝こんな大きな家に住んで〟と怒鳴る区役所の人への対応に苦慮しながら、自分の着物や田畑などを手放して家屋と御文庫を守り抜いたのです。
私も主人も三十代の頃、よく乗り越えてきたと思います。 私たちが味わったこの苦労を、現当主の為人(ためひと)・貴実子夫婦にはさせたくないと思っております。
家の解体修理など難儀なことを抱え、資金面で苦労していると思いますが、あの二人なら、この難局を乗り越えていってくれるものと確信しております。 冷泉家の八〇〇年、俊成卿・定家卿のような大天才がその後出なかったかわりに、どうしようもなくダメな人間もいなかった。
偉大なる凡人が続いたことで今日まで続いてきたのではないでしょうか。
家名を汚すような者も、蔵の中のものに手をつけるような者もいなかったのは、〝和歌の家・冷泉家〟の存在意義を歴代の人たちは知っていたからだと思います。
また、八〇〇年、和歌を詠み、年中行事を行なってこられたのは、そこに心や精神を伝える形があったからだと思います。
しかも、これだけ長い間、守り抜かれ、伝え続けることができたということは、何よりも〝本物〟だったからではないでしょうか。 1998年9月、私は京都府から、功績のあった女性に贈られる〝あけぼの賞〟を頂戴しました。
「冷泉家時雨亭文庫理事長」としての受賞は、今日まで御文庫を守ってきたことが認められたようで、大変うれしく思っております。
このようなご褒美は小学生の時以来ではないでしょうか――。
泉川八百(いづみがはやほ)の歳月(としつき)なか(が)れきて
なほ幾千代の栄えいのらむ 布美子
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年)
「冷泉家時雨亭文庫」今朝の父の一枚です(^^)/
今日も会えないのかなと思ったら最後に会えたと喜んでいました。
3月
ちいさいおうちが あたりを ながめて くらすうち、ときは どんどん たっていって、それといっしょに まわりのけしきも かわりました。
はるが くると、日は ながくなり あたたかくなります。
みなみの くにから はやく とりたちが かえってくればいいのにと、ちいさいおうちは かんがえました。
のはらの くさも みどりにかわり、木々のつぼみが だんだん ふくらんできたと おもうと、りんごのはなが いっせいに さきだします。
おがわでは こどもたちが あそんでいるのがみえました。
(バージニア・リー・バートン文・絵 石井桃子訳『ちいさいおうち』岩波書店より)
進学や入学、新しい学期を迎えるために、あわただしい3月ですが、春やもうやってきています。
通学の行き帰りに、下ばかりむいていないで、背をぴんとのばして、春のみつけましょう。
春休みになったら、郊外に出て自然観察をするのは、自然のリズムにしたがって生きている私たちには必要なことだと思います。
…つづく…
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)
岩波書店の児童書編集部の投稿(3月12日)
ミヒャエル・エンデ『モモ』が日本に翻訳されてから、今年で50年を迎えます。












