2026年2月27日金曜日

恵みの雨になったのかな?

 ベニバスモモの花が咲いていました。
水曜日は雨、昨日は父の診察日で二日間来られませんでした。
火曜日に見た時は、蕾だったのに…
恵みの雨になったのかな?
今日も夕方買い物の帰りに雨が降りました。
昨日、2月26日の出来事
 1936(昭和11)年に「二・二六事件」が起きました。

二・二六事件 「兵に告ぐ」〟(NHKアーカイブス 1936年)

この時、9歳の渡辺和子さんは、父親(渡辺錠太郎)が殺害される一部始終を目の前で目撃しました。
渡辺和子(わたなべかずこ)ノートルダム清心学園元理事長」(NHKアーカイブス)

2016年に放送された「こころの時代 かくも長き道のり」でその時のことを話されていました。
こころの時代ライブリー かくも長き道のり」(2024年)

「(二・二六事件) 一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用ス・(緊急勅令)」(国立公文書館)
ばけばけ (104)第21週「カク、ノ、ヒト。」
吉野イセが呪われている「人形の墓」が語られていました。

二一、墓地の種類
 すら墓 スラバカ
 

阿蘇の黒川村では、一家に二人つづけて死人があると、三人つづかぬように人形を作って葬式する風があるという。
同宮地町ではかかる際には、スラ墓という作り墓を造る(葬号)。
空言をスラゴツという所だから、多分ソラ墓であろう。
(『葬送習俗事典 葬儀の民俗学手帳』柳田国男 河出書房新社 2014年)

八雲会 The Hearn Society の投稿(2月26日)に

【「人形の墓」1】
#ばけばけ 第104回
ハーン(#小泉八雲)『仏の畑の落穂』(1897)所収。
熊本で子守として雇った梅の話をもとに書かれた作品です。
父、母、兄、祖母を相次いで亡くした少女イネが「私」に語る身の上話として描かれています。
#ばけばけ手帖

全訳小泉八雲作品集 第8巻』(小泉八雲著 平井呈一訳 恒文社 1964年)
もう2月も終わります。
気温は、3月を通り越して4月並みだとか……
澤田瞳子さんの本をお供に京都の街歩きはどうですか?

 春――
桜巡りに菓子巡り


「お花見行かへん?」
 私にこう誘われた友人は、少々災難かもしれない。
というのは、私のお花見は花を愛(め)でながらの宴会ではなく、ただひたすら、桜を求めて市内を歩き回る、「桜巡りウォーキング」だからだ。
 午前中、家の近くの哲学の道から出発し、解散はだいたい午後八時過ぎ。
途中、鴨川・出町(でまち)の河原で休憩(きゅうけい)を取るのと、夜桜で有名な円山(まるやま)公園の枝垂桜を締めくくりとする二点だけは毎年変わらない。
京都はそこここに社寺の境内、ちょっとした家の庭先と、あちこちに桜が植えられている。
あとはそれらを眺めながら、足のむくまま気のむくままである。
(『京都はんなり暮し<新装版>』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)
 京都の地図を見ると、市内中心部から少し東に、ちょうどYの字形に川が流れている。
丹波高地南部を水源として北山・雲ヶ畑から流れてきた賀茂川と、八瀬から流れてきた高野川が賀茂大橋近くで合流し、名前を<鴨川>と改めてさらに南下しているのだ。
この合流地点付近を<出町>と呼ぶが、これは本来「京のはずれ」の意味。
かつて、近江(おうみ)国(滋賀県)・若狭(わかさ)国(福井県)に通じる若狭街道の入口・大原口がここにあったため付けられた地名である。
 この出町から北、賀茂川・高野川沿いの河原が、私の一番お気に入りの桜スポット。
まだ土手が整備されていないため、草の上に寝転んで花見が出来る。
特に高野川沿いには菜の花も咲いており、まるで春の野原にいるかのよう。
学生がオーボエの練習をしていたり、幼稚園児の遠足の列と行き違ったり、有名寺院の美しく整えられた桜とはまったく違った、野の遊びともいうべき花見がここにある。
 そしてこの鴨川の花見に欠かせないのが、出町商店街東端の餅屋「ふたば」の花見団子とうぐいす餅。
最近全国的に有名となり、行列の絶えないお店だが、近所の者にはあくまで地元のお餅屋さん。
行列ができる店は市内に多いが、これほど地元民と観光客が混在している店は他にないだろう。
お土産にするのか「ふたば」名物・豆餅を紙袋いっぱいに求められる女性の横で、可愛らしいお婆ちゃまが桜餅を二つ買って帰られる。
ご自宅でおじいさまと召しあがるのか、遊びにくるお孫さんにあげるのか、なんとも微笑(ほほえ)ましい想像がかき立てられる。
 買ったばかりの豆餅をさっそく頬張(ほおば)ったカップルが、「やっぱり京菓子はおいしいね」と話している。
が、これは残念ながら少し間違い。
たしかに京都の菓子と考えれば豆餅も京菓子なのだが、本来京菓子は「お菓子屋」の菓子に限定されるからだ。
  京都ではお菓子の製造・販売業は、「お餅屋」「お饅屋(まんや)」「お菓子屋」の三つに大別できる。
関東でいうところの「団子屋」、フーテンの寅(とら)さんのおじさんの家・くるまやさんのようなお店は、こちらでは「お餅屋」に当る。
「お餅屋」と「お饅屋」の境界線はあいまいで、お餅を商うか饅頭を商うか程度の差しかない。
しかもお互い同じような菓子を扱うこともあり、厳密な区別は難しい。
 しかしこの二種のお店と「お菓子屋」とは明確に違う。
簡単にいうと自宅で気軽にお番茶でいただくのが「お餅屋」「お饅屋」の菓子、お客さんへのおもてなしとして抹茶と共にお出しするのが「お菓子屋」の菓子なのだ。
 伝奈良時代創業、江戸時代初期には御所の御用を勤め、明治2年に天皇に従って東京に本店を移した「虎屋」。
室町時代、衰微(すいび)した朝廷に朝食代りの餅を献上して以来、東京遷都(せんと)の前日まで約四百年間、毎日餅を奉り続けた御粽司(おんちまきし)「川端道喜(かわばたどうき)」。
このようなお店こそ正しい<京菓子>屋さん。
極端にいえば京菓子とは、茶会に出てくる生菓子・干菓子を想像していただけばいい。
 京菓子の歴史はそのまま和菓子の歴史とも言い換えられる。
奈良・平安期に索餅(さくへい)・団喜(だんき)等の唐菓子が中国から伝来して以来、鎌倉時代に羹(カオ)や饅頭(マントウ)といった点心、安土・桃山時代にカステイラ・金平糖等の南蛮菓子が段階的に日本に到来。
これらが入り混じり、和菓子の礎(いしずえ)となった。
 しかし千利休の頃の茶菓子は「ふのやき・しい竹(麩焼・椎茸)」「とうふ湯葉」とかなり質素である。
これが現在のような美しい菓子に変化したのは、砂糖生産量が増大し、物資の流通が活発になった元禄期(1688~1704)と考えられている。
 享保(きょうほう)3年(1718)には「あるへいたう(有平糖)・かるめいら」「こまもち(胡麻餅)・らくがん(落雁)」など様々な菓子の製法を記した日本最初の菓子レシピ集『古今名物御前菓子秘伝抄』が京都・水玉堂より刊行された。
本書のレシピを一つ紹介してみよう。
「葛(くず)まんちう。くす、いかにもこまやかにして、うす味噌にたて、あつき内に餅のことくにこね、あんをつゝみ、丸くして、むし申候<葛饅頭。葛粉をなるべく細かくして、味噌を水に溶いて煮立てたものの中に入れる。暑い間によく捏(こ)ね、餡(あん)を入れて丸く包んで蒸す>」
 もっともいくら京菓子とはいえ、この当時の菓子は材料の品質差もあり、現代のそれとは比べものにならないほど雑なものだったらしい。
数年前、とある和菓子屋さんでこの本のレシピに基づいて江戸の京菓子を再現しようとしたところ、「うちらはもっと美味しい菓子を作れるんや」と職人さんたちが怒り出したというエピソードがあるほどだ。
 一方各社寺の門前では、参拝者相手に菓子を売る店――つまり今の「お餅屋」「お饅屋」の走りとなる店が、室町時代以降次第に発生してくる。
上御霊(かみごりょう)神社の唐板(からいた)、上賀茂神社の焼餅に下鴨神社のみたらし団子、北野天満宮の長五郎餅と粟餅(あわもち)、伏見稲荷の味噌煎餅(せんべい)などがこの類の菓子。
そうそうあの有名な八つ橋も、黒谷金戒光明寺(くろだにこんかいこうみょうじ)門前の茶屋で売られたのが最初である。
 それでは「ふたば」はどうかというと、こちらは大原口を往還する人を客とした、街道の餅屋さんが当初の姿。
同様の街道の菓子屋はほかに、丹波・丹後へ向かう山陰街道筋で<かつら饅頭>を商った「中村屋」、伏見・大坂へ通じる鳥羽街道で、おせきという娘が編笠の裏に餅を並べて売ったのが始まりという「おせき餅」など、京都の周辺部に多く見られる。
 これら街道の餅屋さんの共通点は、いずれも門前のお店のそれに比べてボリュームがあること。
なぜなら街道の菓子は、長い道のりを歩いてきた旅人たちを癒(いや)し、さらに新しい一歩を踏み出させる活力のもとだからだ。
 旅はかつてのような徒歩から車・電車でのものへと変わった。
しかし、人間の<旅>は今も昔も変わることはない。
街道の傍らで昔ながらの売られる菓子は、京都を行き交う人々に力を与えてくれる。
頼もしい人生の助っ人なのである。
「ほな、そろそろ行こうか。今からなら、嵐山まで歩けるわ。大覚寺の桜、ちょうど今が綺麗(きれい)らしい」
 花見団子を食べ終えた私がこう声をかけると、横に坐っていた友人がぎょっとした顔になった。
「ちょっと待ってな、大覚寺ってここから二時間はかかるで」
「大丈夫、大丈夫。そのためにお団子食べたんやんか。『ふたば』のおかげで充分行けるえ」
 こうして休息を取って、再び私は歩き出す。
これだから、花見に「団子」は欠かせない。
(『京都はんなり暮し<新装版>』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)

澤田瞳子さんの案内の通りに歩くには相当な体力がいるようです……(^_^;
今朝の父の一枚です(^^)/
昨日、父につき添った妹の話では、小さな子どもが多かったそうです。
まだまだインフルエンザの流行は、続いているみたいです。

3か月でマスターする人体「(7)感染症との闘い」に
河岡義裕教授が出演されていて感染症について話をされていました。
番組のテキストから

コラム
 インフルエンザはなぜ毎年流行するの?


 ウイルスは、含まれる遺伝情報の種類の違いにより、「DNAウイルス」と「RNAウイルス」と分けられます。
DNAウイルスは、コピーするときに間違いが起こりにくく、RNAウイルスは、間違ったコピーが起こりやすいという特徴があります。
 インフルエンザウイルスは、このRNAウイルスのひとつです。
そのため、遺伝情報のコピーミスが生じやすく、ウイルスが増えるたびに少しずつ違うウイルスが生まれてしまいます。
 その中で、たまたま増えやすい性質をもったものが、変異ウイルスとして残っていきます。
 実際、インフルエンザにかかった人ののどを調べると、10万個ほどのウイルスが見つかり、その中に薬が効きにくいタイプが数個混じっています。
これは、ひとりの体内でも、多様な変異ウイルスが集団として存在しているということ。
 このように、インフルエンザウイルスは毎年のように変異するため、私たちは繰り返し感染してしまうのです。
(『NHK3か月でマスターする 人体 2026年2月号』NHK出版 2026年)