2026年2月21日土曜日

今日がいいなぁと上醍醐へ

今日から三連休の人もあるようです。
天気予報を見ていると今日が一番天気がいいみたいだし
まもなく花粉の辛い時期がくるまえに出かけました。
京阪電車の「六地蔵」駅からバスに乗って出かけました。
(画像は、バス乗り場の向かい側に止まっているバスです)
先日の伏見稲荷大社と大違いです(^_-)
9時半頃に着いたこともありますが…
2010年4月3日に訪れた時は桜の季節で大勢の観光客であふれていました(「桜の馬場」)
「菊」と「五七の桐」が描かれた唐門

400年前の輝きがよみがえりました!-国宝唐門 「通り初め式」-〟(醍醐寺)
西大門(仁王門)」を通らずに右に曲がりました
  成身院 (女人堂) 

 上醍醐へと続く参道は険しい。
山道を登り、山上に参拝するのをためらう人も多い。
 そこで、上醍醐に登らなくても、お参りできる「女人堂」が登山口に建てられた。
 西国十一番札所がある上醍醐への登山口に建てられた女人堂は、ここだけでなく、西国十番札所からの参道だった炭山(宇治市)、十二番札所へと続く笠取(宇治市)にもあったことが、国宝「醍醐寺文書聖教」の中にある「山城国上醍醐女人堂炭山観音縁起」(第九三函十三号)等々によって知ることができる。
 現在の女人堂は桁行が8.9メートル、梁間5.9メートルの入母屋造であり、成身院の本堂となっている。
 成身院は、後嵯峨天皇の皇后である大宮院の祈願所であり、慶長年間には三宝院に隣接する場所にあった。
 いつごろ、その名が移転したか不明だが、明治22年頃に作成された女人堂の境内を示す図面(第七一七函三六号)は、成身院の図面と一緒に綴じられており、この頃既に、成身院と女人堂は一体とみられるような関係にあったと推測される。
          京都市
その上醍醐に向かって歩き出しました(9時50分頃)
お遍路姿の方にも何度か出会いました。
欧米の方にも会いました。
平坦な道がつづいている箇所もありますが
険しい登りが続きます
不動の滝」(10時20分頃)
不動の滝に着く前に出会った方が「ホトトギス」の声を聞いたと仰っていました。
しばらく一緒に歩いてたら「今、聞こえた」と仰ったのですが
残念ながら難聴ぎみの私は、聞こえなかったです(T_T)
ホトトギスの聞きなしは「トウキョウトッキョキョク」なんだけど
清少納言の時代は、なんて聞こえていたのかな?
「不動の滝」で半分くらい
↖「西国11番霊場 約1.1K 准提観音堂 徒歩30分

↘「三宝院・駐車場 約1.7K 徒歩33分
音羽魔王大権現
  大地を支える聖獣 
 カメ 
 世界の創生に関わる


 インドではカメはヒンドゥー教の三大主神の一柱(はしら)・ヴィシュヌ神の化身のひとつであり、甲羅で大地を支えていると考えられた。
同様の世界創造神話は東アジアから北アフリカにかけて伝わる。
 また古代中国では、カメは麒麟(きりん)・鳳凰(ほうおう)・龍とともに四瑞のひとつに数えられた。
吉兆として尊ばれ、甲羅は占いにも使われている。
こうしたカメを神聖視する風潮は日本にも伝来し、神亀の出現を吉祥とした改元がたびたびなされた。
(『お寺のどうぶつ図鑑』今井浄圓(監) 二見書房 2020年)
 いっぽう、カメは水陸を自由に行き来できることから、「あの世(海)」と「この世(陸)」を結ぶ使者でるとも考えられた。
この信仰から描かれたと考えられる「浦島太郎(うらしまたろう)」の物語が『日本書紀(にほんしょき)』などに見えることから、古くからカメは海神の見なされていたことがわかる。
朝ドラ「ばけばけ」にも登場する

封印された人喰い大ガメ】 

月照寺(げっしょうじ<島根>)の境内にある大ガメの石像は、江戸時代、カメを愛していた藩主の死を偲んでつくられた。
ところが夜になるとこの大ガメが境内を抜け出しては城下で人を喰らったため、住職は亡き藩主の功績を石碑に彫り、大ガメの背中に乗せてこの地に封じこめたという。

カメ像の頭をなでると、長寿のご利益を得られるといわれる。
(『お寺のどうぶつ図鑑』今井浄圓(監) 二見書房 2020年)

大亀像について」(松江藩主菩提寺 月照寺)
役行者像にもよく出会いました。

霊場/ご朱印 役行者霊蹟札所」(醍醐寺)
上醍醐寺務所の左側を通って行きます
こんな所にも販売機があるのにビックリしました。
 国宝
 青龍宮拝殿 

 創立は寛治二年(1088)であるが、此の堂は永享六年(1434)に再建され現在に到っている。
邸宅風の手法を用いたつゝましやかで親しみやすい建築で、古風で純粋な伝統的手法が繊細で垢ぬけした姿で活かされており洗練された気品を備え、高く評価されている。
水筒に入れようとしたのですが、水が出ませんと書かれていました。
  醍醐水 

 貞観十六年六月(874)聖宝理源大師当山開創のみぎりこのところに於いて地主神横尾明神の影現にあい『永く此の地を師に献ぜ
よく密教を弘め群生を利済せよ、吾も亦擁護せむ」と告げ 落葉をかきわけ その下から涌出した泉をくんで『あ 醍醐味なる哉』の言葉をのこして忽然と姿を消された伝えられ、
尊師は そのところに石をたたんで閼伽井(あかい)とされ笠取山の古名をあらためて醍醐山と称せらるるにいたったもの
醍醐寺発祥の霊泉である。
醍醐とは乳製品で五味の最上なるものの名称であるが、この寺の場合は、心の糧として仏法が最高であることを いわんとするものである。

 ……  ……

説明板が長い年月に文字が消えたりしていて不鮮明な文字が多かったです(左の白い看板)。
以下の記事を参照してください。

醍醐寺について 歴史/縁起/祖師」(醍醐寺)
2007年7月21日に訪ねた時は、ここからお堂が見えました。
横尾大明神

醍醐寺 略縁起」(醍醐寺)
 醍醐寺◆豊臣政権の最後の栄華
 後世に伝えられた「醍醐の花見」 


 …前略…

 醍醐寺は貞観(じょうがん)16年(874)に、僧聖宝(しょうほう)がおこした観音像をまつる笠取山(かさとりやま)の草堂にはじまる。
ついで醍醐天皇が醍醐寺の後援者となり、山上の上醍醐(かみだいご)に薬師堂をつくった。
このあと、山麓の下(しも)醍醐に大がかりな寺院が建設された。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年)
 その後、醍醐寺は有力な学僧を幾人も出して栄えたが、応仁の乱で五重塔をのこして全焼した。
慶長2年(1597)に豊臣秀吉の手で五重塔の修理がなされ、有名な醍醐の花見が、翌慶長3年3月15日に行われた。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年)
下から見えたはずの「准提堂跡
2008年8月24日未明の落雷により焼失しました。
2010年4月3日に訪ねた時は塀で囲まれていました。

上醍醐准胝観音堂の焼失について」(醍醐寺)
 国宝
 薬師堂 

 此の堂の創立は、延喜7年で開山聖宝理源大師の時に遡るが、現在の堂は保安2年(1121)に再建なったもので、山上伽藍に於いて最古の建造物で数少ない平安時代の遺構として貴重なものである。
堂内蟇股は、所謂本蟇股の最も古い例の一つである。
本尊薬師如来座像は脇侍の日光、月光両菩薩と共に国宝に指定されており聖宝の弟子会理僧都作になるもので貞観後期の豪快な気分を、十分に感じさせる優美な作品である。
又、歴代の聖帝が御病気の平癒を祈られる度に金箔を尊像にはり加えられた事は有名であり「箔薬師」の名で厚い信仰を集めている。

霊宝館」(醍醐寺)
鐘楼
 五大堂 

 醍醐天皇御願により、延喜7年(907)に建立された五大堂であるが、再建の都度に祝融にあい
慶長11年豊臣秀頼再建の様式を伝え
昭和15年に再建されたものである。
お祀りしてある不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王
国土安泰、消除不祥の御祈願をもち“五大力さん”の通称で尊崇され、毎年2月23日仁王会大法要が厳修されて盗難除、災難身代りの霊符が授与されている。

五大力さんとは」(醍醐寺)
2月8日~2月22日迄 五大力尊前行事準備及び 五大力尊前行のため 閉堂致します
の張り紙。
五大力尊仁王会」が行われる23日の天気はいいみたいですね(^_^)v
天皇陛下の誕生日と一緒だ(^-^)
説明板の文字が判読できなかったので

醍醐寺如意輪堂」(醍醐寺)
醍醐山頂(標高450m)
到着するまで「幽霊子育飴」を口に含んで登ってきました(2個)
到着したのが11時45分頃なのでかなりお腹が空きました。
こんなこともあろうかと「カロリーメイト(ブロックタイプ)」を携行していたので一袋食べました。
「不動の滝」でもう一袋(^_^)v
 開山堂(重要文化財) 

 醍醐寺を開いた聖宝尊師は、延喜9年(909)に遷化された。
後を受けた弟子の観賢が、聖宝尊師を祀るために、延喜11年(911)頃に開山堂を建立した。
 開山堂は、その後、度々火災にあったが、その都度、再建されている。
現在の開山堂は、慶長13年(1608)に豊臣秀頼の寄進を受けて新築された。
間口が五間、奥行きが八間で、正面には軒唐破風が付く大規模な建造物である。
同時に内部には雲・竜・牡丹・唐獅子の透かし彫りなど慶長年間の端正で自由闊達な意匠もあり、豊臣時代を代表する建造物でもある。
 この再建時に、聖宝像が祀られていた場所の地中から遺骨を収めた壺が出てきており、開山堂は、同じ場所で再建され続けてきたことが判明している。
 尚、現在も堂内に安置される聖宝理源大師像は、文応元年(1260)の火災の後、弘長元年(1261)の再建時に新たに祀られた坐像であり、肖像彫刻を代表する作品であり、重要文化財に指定されている。
   京都市
縁結白山大権現」(縁結び?)
「不動の滝」に12時20分頃に降りてきました。
槍山(豊太閤花見跡)
 醍醐の花見
 

 慶長3年(1598年)3月15日、秀吉は一世の善美を尽くした花見をこの槍山で催した。
千畳敷きとも呼ばれる平地には新しい花見御殿がたてられた。
又、女人堂から槍山の間には、長束正家をはじめ各武将により趣向をこらした茶屋八棟が設けられた。
 この花見にさきがけて山内馬場先から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木七百本を植えさせた。
 花見の当日、秀吉は秀頼・北政所・西の丸(淀君)・松の丸・三の丸を従え、山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見の和歌を短冊にしたため桜の枝につり下げた。
秀吉の栄華を誇る豪華な花見であった。
 〔保存資料〕重文・醍醐花見短冊(一三一葉・霊宝館所蔵)
       重文・純浄観(旧花見茶屋・三宝院に移築)
   総本山 醍醐寺
 屏風に暗示された豊臣政権の終焉

『醍醐花見図屏風』に描かれた、秀吉の顔や胸もとには深いしわがみられ、かれの老いさらばえ精気を失ったありさまがありありと写し出されている。
それに対し、北政所と秀吉の四人の側室は美しく描かれている。
 この花見の席で、盃(さかずき)争いがおこった。
秀吉からの盃を北政所がうけると、すかさず側室の松の丸殿が、
「お流れを私にください」
 といったのだ。
彼女は京極高吉の娘で、淀殿の父の浅井長政は京極家の家来であった。 
 北政所が松の丸殿に盃をまわそうとすると、淀殿がそれをさえぎった。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年)
「その盃は、私にくださるのが順序です」
 このときは、前田利家(としいえ)の妻松殿(まつどの)が盃を預かってその場をおさめた。
このあとの淀殿の専横とその孤立とを暗示するような事件だった。
 醍醐の花見のときすでに、秀吉は自分の死期が近いことや、淀殿、秀頼親子では、徳川家康や秀吉のあとがまを狙う有力大名をおさえていけないことをさとっていたのだろう。
 これからまもなく関ヶ原の戦いが起こり、天下は徳川家康の手に移る。
徳川家康が武士に質素な生活をすすめたことによって、きらびやかな桃山文化は姿を消してゆく。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年)
12時40分頃に到着しました。
病気をする前、山を歩くときに地図にあるコースタイムを1.5倍して計画していました。
今回は、9時50分頃に出発していますから往復3時間ほどかかっています。
途中にあった道標を見ると片道70分ほどでした。
醍醐寺の「食事・売店」でカレーを食べたいと思っていたのですが
ランチは終了していて3時から再開と書かれていました(T_T)
仕方がないので駅に戻ろうとバス停に向かうとバスが出たところ…
てくてく歩いて東西線の「醍醐」駅に向かい「六地蔵」で下車。
そこから京阪の「六地蔵駅」まで歩きました。
中書島駅に着くと2時になっていたので構内の「麺座 中書島店」で黄ソバ(肉、玉)を食べました(^_^)v
電車の中で読んでいたのは田辺聖子さん『むかし・あけぼの 上 小説枕草子
初め図書館で単行本を借りたのですが、その本の厚さにビックリ!
読み出したら面白いので文庫本を購入しました。

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    醍醐寺へ行かれたのですね。
    それも上醍醐へ。
    私も西国さんでお参りさせてもらったことがあります。
    その時は、「醍醐のお花見」は、どんなだろう?
    とお花見の季節に寄せていただきました。
    Kazeさんのおっしゃられるように。。
    すごい人出でした。(#^.^#)
    その時は上醍醐へは行かなかったので。。
    焼失したと聞いていた上醍醐准胝観音堂は、
    まだ更地なのですね。
    おかげさまで、登っていくのがしんどそうな
    上醍醐の様子を教えていただきました。
    今回も子育て飴がお力になったようですね。(#^.^#)

    横におられるのは、ねねさんでしょうか?
    黄そば美味しそうです。
    たぶん、エブリさんも黄そばを注文しただろうと思います。エヘ(#^.^#)

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    1. カイさんコメントありがとうございます(^^)/
      私も花見の季節に醍醐寺にお参りしたことがありますが
      やはり桜の醍醐寺ですよね
      桜の馬場も観光客・参詣者でいっぱいでした。
      上醍醐准胝観音堂が焼失する前と、その後、訪ねました。
      再建できたときに元気だったら訪ねたいと思っていますρ(^^)q
      子育て飴は今回でなくなったので
      また何時か買って街歩きの時に力をもらいたいなと思っています。
      上醍醐の槍山を訪ねたので、「ねねさん」を連想しますよね!
      『豊臣家の女たち』も購入していて次に読みたいと思っています。

      時間がないときに駅構内にあるソバ屋さんはありがたいです。
      黄そばはさっぱりしたスープで私好みでした(^_^)v

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