昨日、今日と春のような暖かさ
一番感じたのは、指先が痛くない(^_^)v
心臓の上半分が壊死してから血行が悪く足先、指先が冷たいです。
公園では、この春のような暖かさにマンサクやヤブツバキが咲いていて
カワヅザクラの蕾から赤いものが覗いていました。
でも、この暖かさは、今日までで、明日から一気に下がりますし
「近畿 8日投票日は大雪おそれ 大阪や京都など広範囲で降雪も」(関西NHK)昨日、妹を病院に送るとグタッとした子どもたちや高齢者で一杯だったそうです。
「インフルエンザ患者数 前週の倍近くに増加 B型 半数近く占める」(NHK)
首相は、よく「日本」という言葉を使っているようですが
日本のことをどれだけ知っておられるのか疑問です。
首相にとって国民のことよりも議員の議席を増やすことが優先になって
まるでだまし討ちのように解散総選挙を実施すれば
野党は選挙準備ができないと思われたのでしょう。藤井セイラさんの投稿に
福島の南郷体育館から10トンの落雪。
投票所は体育館に多く設置されます。
雪国では「屋根の下に立つな」が常識とはいえ、ここまでの豪雪では事故を完全に防ぐのは難しいでしょう。
青森では自衛隊への災害派遣要請、これは公職選挙法第57条「天災」にあたるのでぜひ繰延投票を。
(添附されている動画をご覧下さい)私と父は3日に期日前投票をしました。
昨日、妹が病院の帰りに期日前投票をしました。
膝が痛くて歩くのが辛いです(7月に大学病院で手術の予定)。
無理しなくてもいいのと違うかなと言いましたが、
投票したいといったので送ってあげました。
投票場に行くと、高齢者や車椅子の方が何人もおられました。
村山由佳(時々もみじ)さんの投稿(2月4日)
背の君ともども、期日前投票へ。
ここまで危機感を覚えた選挙は過去になかった…と、このところ毎回思う。
雪に埋もれた地域の人たちに向かって、「投票は無理なく」?
いったい誰がその無理をさせているのか考えてもらいたい。
怒りと祈りを込めて、票を投じました。
頼むよ、ほんと。
行基について転記したいと思います。
行基
衆生を救済した民衆のカリスマ
聖徳太子は中国の高僧、南嶽慧思(なんがくえし)の生まれ変わりであるという説が、日本ばかりか中国でも語られていたが、もしも太子が生まれ変わりを経験したとすれば、太子は誰に生まれ変わったのであろうか。
『聖徳太子伝曆(でんりゃく)』によれば、太子は死の前に、「私はこの国の皇子(おうじ)として生まれて仏教を広めたが、次には貧しい家に生まれて衆生(しゅじょう)を救済したい」といったというが、この太子の生まれ変わりが行基(ぎょうき)であるという伝承が強くある。
この伝承は、日本における仏教の普及を考えるときに大変興味深い。
なぜなら、仏教は聖徳太子によって日本国の国教となったが、その仏教を民衆の底辺にまで及ぼしたのは他ならぬ行基であるからである。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年) 行基は、父を高志才智(こしのさいち)、母を蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)といい、河内国大鳥郡蜂田里(かわちのくにおおとりごおりはちたのさと)の地に生まれた。
父も母も渡来系の民である。
『行基大菩薩行状記(だいぼさつぎょうじょうき)』によれば、高志才智も決して身分は高くなかったが、彼がひどく貧しい女に通って生まれたのが行基であるという。
これはユダヤの貧しき女・マリアの私生児として生まれたイエス=キリストを思い出させる。
行基は、自らを旃陀羅(せんだら)の子といった日蓮(にちれん)よりも、もっと身分の低い貧しい女の私生児として生まれたといってよい。
このような生まれゆえに、彼は民衆の生活の苦しさをつぶさに知ることができ、多くの衆生を救済することができたのであろう。 母はひどく貧乏で、賃金をもらって田植えの下請けの仕事をしたが、子どもの行基は母の代わりに一日で十畝以上の田植えをしたという。
彼はまた木をとって堂を建て、泥にて仏を作り、石を拾って塔廟を建て、砂の上に仏像を描いて遊んだという。
これは後年の行基の仕事を思わせる。
三つ子の魂百までであろうか。 行基は682年(天武<てんむ>天皇十一)、出家して、691年(持統(じとう)天皇五)、徳光(とくこう)を師として受戒(じゅかい)したが、その後、薬師寺(やくしじ)の道昭(どうしょう)についたという。
道昭は宇治橋(うじばし)を架けたことなどによって知られるように、仏教と社会事業を結びつけて精力的に活躍した僧である。
行基は法相(ほっそう)教学を学んだが、やがて山野にこもり、山岳修行者となる。 行基の活躍が目立つのは710年(和銅<わどう>三)、平城(へいじょう)に遷都(せんと)したころからである。
律令(りつりょう)制の完成に伴い、国家の規制が厳しくなるや、税の徴収を逃れるために僧になるものが多かったが、国は国家財政を安定させるためにも私度僧(しどそう)を禁じて、僧を厳しく取り締まった。
行基は、そのような僧の統制を乱す僧として正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』に登場する。
717年(霊亀<れいき>三)、行基及び弟子たちが妄(みだり)に町で罪福(ざいふく)を説き、百姓(ひゃくせい)を妖惑(ようわく)して物をせびり、進みては釈教(尺今日)い違(たが)い、退きては法令を犯すものとして、国家から名指しで非難されているのである。 このような非難にもかかわらず、行基は民衆に対する布教をやめなかったらしい。
行基が死んだとき、『続日本紀』は前と百八十度異なる態度で行基をほめたたえ、その伝記を載せている。「都鄙(とひ)を周遊して衆生を教化(きょうげ)す。道俗化(どうぞくおもぶけ)を慕ひいて追従(ついじゅう)する者(ひと)、動(ややも)すれば千を以(もち)て数(かぞ)ふ。所行(ゆ)く処(ところ)和尚(わじょう)来(きた)るを聞けば、巷(ちまた)に居(お)る人无(な)く、争ひ来りて礼拝(らいはい)す。器(うつわ)に随(したが)ひて誘導し、咸善(みなぜん)に趣(おもぶ)かしむ。また親(みずか)ら弟子等(ども)を率ゐて、諸(もろもろ)の要害(ぬみ)の処に橋を造り陂(つつみ)を築(つ)く。聞見ることの及ぶ所、咸(みな)来たりて功(くう)を加へ、不日(ふにち)にして成る。百姓今に至るまでその利を蒙(かがう)れり」 行基の評判は高く、行基が行けばそこに大勢の人が群れ集(つど)って彼の説法(せっぽう)を聞いた。
行基は比類なく雄弁に、聞く人の心にずしりと響いてくるような仏教の教えの言葉を語ったにちがいない。
…つづく…
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
「行基」(中学)午後から心臓リハビリで病院へ
始まるまでの待ち時間に読んでいたのは
『行基の時代』(金達寿著 朝日新聞社 昭和57年)
品切れになっているので図書館で借りました。
「第一章 行基祭」では、岸和田の久米田寺を訪ねています。
「久米田寺」(岸和田市魅力発信サイト)30分間、エルゴメーター(自転車)を漕ぎながら心電図を撮りました。
その間、理学療法士の方と話ができる程度の負荷で漕いでいました。
消費カロリーは17.72kcalでした。













