2026年2月9日月曜日

雪で

昨日は、久しぶりに大阪でも雪が降りました。
元気な頃なら雪景色を撮したいと出かけたでしょうが、
この寒さに出かけると風邪をひくと思い諦めました。
今朝の田んぼには薄い凍りが張り
昨夜の雪が残っていました。
カラスが水を飲もうとして氷の穴があいているところを探していました。
夕食の買い物に出かけた時に本屋に寄って
今日届いているはずの本を受け取りにいったのですが
雪のために本が届いていないそうです。

日本海側中心に積雪 各地で今シーズン1番の厳しい冷え込み」(NHK)
今回の選挙、予想以上に自民党が議席を獲得し、単独で憲法を改正(改悪)できる。
維新は、「アクセル」役だそうです。
この雪崩現象を見ているとアメリカ大統領選挙と似ていると思いますし
第1次トランプ政権の時は、共和党内にブレーキ役がいました。
そのため解任や辞任する閣僚などがいましたね。
今回は、ブレーキ役がいるどころかアクセル役ばかりだと思っています。
日本も同じような事態になるのでしょう。

首相は、毬谷友子さんが紹介していた動画にあるように
子供も一生懸命、責任を持ってしつけ、良い教育を与えて、そして時には国を守るために命を投げ出して
戦う子どもを育てるように学校教育を変えていくのだと思う。

選挙期間中、中国が大人しいと思っていましたが、
選挙の結果をみて動き出すのでしょうか?
支持者の皆さんは、「中国!何するものぞ!」というような言動を期待していると思います。
 戦争と平和 ある観察
 1 はじめに
 

 人類がまだ埋葬していないものの代表は戦争である。
その亡霊は白昼横行しているように見える。
 精神医学と犯罪学は個々の戦争犯罪人だけでなく戦争と戦争犯罪をも研究の対象にするべきであるとエランベルジェ先生は書き残された(『エランベルジェ著作集 3』「犯罪学の過去と現在」)。
人類はなぜ戦争するのか、なぜ平和は永続しないのか。
個人はどうして戦争に賛成し参加してしまうのか。
残酷な戦闘行為を遂行できるのか。
どうして戦争反対は難しく、毎度敗北感を以て終わることが多いのか。
これらには、ある程度確実な答えのための能力も時間も私にはない。
ただ、国民学校六年生で太平洋戦争の敗戦を迎えた私には、戦争の現実の切れ端を知る者として未熟な考えを「観察」と題して提出せずにはおれない気持ちがある。
(『戦争と平和 ある観察[増補新装版]』中井久夫 人文書院 2022年)
 戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。
 1941年に太平洋戦争が始まった時、36年前の日露戦争の現実を知る者は連合艦隊司令長官、山本五十六独りであって、首相の東條英機は日露開戦の時士官学校在学中であった。
 第一次大戦はプロシャ・フランス戦争の43年後に起こっている。
大量の死者を出して帝国主義ヨーロッパの自殺となったこの戦争は、主に植民地戦争の経験しかない英仏の将軍たちとフランスに対する戦勝を模範として勉強したドイツの将軍たちとの間に起こった。
 今、戦争をわずかでも知る世代は死滅するか現役から引退しつつある。
(『戦争と平和 ある観察[増補新装版]』中井久夫 人文書院 2022年)
 「行基 衆生を救済した民衆のカリスマ」つづき

 仏教のもっとも重要な戒律(かいりつ)が殺生戒(せっしょうかい)である。
殺生戒は、人間ばかりかすべての生きとし生けるものを殺すことを厳しくいさめる。
『日本霊異記(にほんりょういき)』には次のような話がある。
 行基が説法をしたとき、その聴衆のなかに猪(いのしし)の脂を髪に塗った女がいた。
行基はその猪の脂の臭いから血を厳しくかぎつけ、その女を追い出した。
その話を読んで、私は行基の殺生を戒(いまし)める甚(はなは)だ厳しい態度に驚いたが、行基は、仏教の何たるかを知らぬ当時の民衆に、仏教の教義をいささか乱暴な手段を使って叩き込んだのであろう。
また先に挙げた行基の伝記には、漁夫が行基を軽んじて魚を奉ると、行基は素直にこれを食べたが、吐き出したら魚は生きた魚となって水に浮んだという話がある。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 こうして行基は単に仏教の教えを説くばかりではなかった。
彼は師道昭にならって道を造り、橋を架け、池を掘り、布施屋(ふせや)という旅人が泊ることのできる家を建てたという。
かつて山岳修行者であった行基はこのようなことのできる工人集団の人たちをたくさん抱え、彼らを同行していたにちがいない。
そして行基集団が過ぎるところ、そこに道ができ、橋ができ、池が掘られ、布施屋という無料宿泊所ができて、その土地の人及び旅人が大変な恩恵を受けたのである。
 このように行基はさまざまな社会事業を行ったが、彼の本職は僧である。
そして僧のいるところが寺である。
行基がとどまったところ、そこに道場ができた。
公には寺と認められないので、道場といったのであろう。
行基は畿内に四十九院を建てたというが、行基の死後25年目の773年(宝亀四)に、行基が建てた四十九院のうちの五院に田三町、一院に田二町を与える勅(ちょく)が出ている。
おそらく私立の道場であった四十九院は荒れ果てていたので、その一部を官によって保護しようとしたのであろう。
 しかし寺や道場には仏像がなければならない。
その仏像は何で造られていたのであろうか。
仏像は短期日で造り上げねばならないので、金銅仏(こんどうぶつ)や乾漆仏(かんしつぶつ)ではあるまい。
そうかといって塑像(そぞう<粘土で造った像>)でもあるまい。
塑像仏は壊れやすく、日本にはほとんどない。
日本にたくさんあった巨木を切って仏像を造るのがいちばん手近であろう。
布施屋や道場を造った行基集団に属する工人のなかには、仏像を彫ることに巧みな人がいたにちがいない。
 行基及び行基集団によって造られた道場には、やはり彼らによって彫られた木彫仏が多数坐(ざ)し賜(たも)うたにちがいない。
それが行基の伝記からも当然推察される説であるが、日本美術史界には、奈良時代に日本で造られた木彫仏はほとんどないという通説が支配していた。
この通説は各寺にある資材帳(しざいちょう)や『日本霊異記』の記事などの誤読から生じたものであるが、仏教美術史家の井上正(いのうえただし)氏はこの通説を否定し、それまで平安初期の作とされてきた、主として近畿地方に残る行基仏という伝承の仏像のなかには、行基あるいは行基集団によって造られたものが多くあるとする。
 その仏像の特徴は、ほとんどすべて素木(しらき)でできていて、その風貌は薬師寺本尊(ほんぞん)の薬師如来(にょらい)のように端正ではなく、鼻が異常に巨大であったり、耳が異常に長かったりする異相である。
そしてその仏像は必ずといってよいほど神像が伴っている。
日本においては、古くから蔵王権現(ざおうごんげん)のような恐ろしい相をしているものであった。
その異相の形相(ぎょうそう)が新しい神というべき仏にも移ったのではないか。
 木は昔から日本人にとって神の宿るものであった。
その神の宿る木から新しい神である仏が出現したのである。
行基仏と称される仏像のなかには、背後が荒木のままのものや、眼がつむったままのものすらある。
それは、仏がまだ完全な仏になって現れる前の聖なる姿を表しているとみるべきではあるまいか。
 行基あるいは行基集団がこのように多数の素木の仏像を畿内のあちこちの寺に残したことは疑い得ないと私は思うが、行基が仏像彫刻を誰に習ったかが問題であろう。
それは泰澄(たいちょう)からではないかと私は思う。
泰澄は白山(はくさん)信仰を広め、神仏習合(しんぶつしゅうごう)思想の先駆けとなったが、近江(おうみ)の岩間寺(いわまでら)を中継地にして都に通い、元正(げんしょう)天皇の病を癒した。
また彼はその寺の近くに群生している桂(かつら)の木から仏像を彫ったという。
泰澄を木彫仏製作及び神仏習合思想の先駆者、行基をその発展者、空海をその完成者とみるとき、空海の思想的位置がよく理解される。
 行基はこのような民衆のカリスマであり、ひととき国によって厳しく非難されたが、後には国が彼を認め、ついには大僧正(だいそうじょう)という最高の僧位を授与されている。
それを行基の転向ととらえる歴史家もあるが、私は、行基そのものは少しも変わっていないと思う。
変わったのは国の方である。
どうして国は行基に対する態度を変えたのであろうか。
 聖武(しょうむ)天皇は東大寺という巨大な寺を建て、そしてその本尊のビルシャナ仏という金銅の大仏を建造しようとした。
そのためにはやはり民衆の協力が必要であり、カリスマ、行基が利用されたのであろう。
しかしその前に、聖武天皇や光明皇后(こうみょうこうごう)及び阿部内親王(あべないしんのう<後の孝謙(こうけん)・称徳(しょうとく)天皇>)などの行基に対する厚い崇拝があったからであると思う。
行基は泰澄のように天皇などの病気を治したことがあったのかもしれない。
 そして東大寺建造に行基が関わったのは行基と良弁(ろうべん)の出会いゆえであったと私は思う。
良弁もまたその生まれは卑(いや)しく、山岳修行者として厳しい修行の時を送った。
そのような修行の時において良弁は行基を知り、行基を深く尊敬するようになったにちがいない。
そして良弁は華厳(けごん)の思想に共鳴して、東大寺にビルシャナ仏を造ろうとした。
行基は法相(ほっそう)の僧であり、華厳仏教をどれほど理解したかは分らないが、日本の民衆の底辺にまで仏教を浸透させた行基は、どんなに小さな生命の中にも巨大なビルシャナ仏が宿っているという華厳仏教のもつ平等の思想に共鳴したにちがいない。
 749年(天平<てんぴょう>21)、大僧正行基は82歳にして死んだ。
大仏開眼(かいげん)という、仏教移入以来最大の盛儀が行われる3年前であった。

 …(注:省略)…

(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)

行基のように国民のために働く首相は望めないのかという思いと
現在、アジア系やアラブ系の移民に対しての差別や偏見があふれているけど
古来、朝鮮などからの渡来人が日本のために多くの仕事をしたことを
歴史を学ぶと分かるのにという思いで再掲しました。
今朝の父の一枚です。
モズを撮せて喜んでいました(^_^)v

 「暖かくて危険な強風『春一番』」つづき 

 温帯低気圧は日本付近をいつも西から東に通過しているのですが、この時期に春一番という強風が吹く理由は、日本の南に暖かい空気が広がるようになり、それが低気圧の南風となるからです。
このとき日本の北側にはまだ冷たい空気が残っているので、日本付近の南北方向の温度差は大きくなります。
この寒暖差が温帯低気圧のエネルギー源ですから、このようなとき低気圧は急速に発達して強いものになり、それに伴って風も強くなるのです。
 低気圧は東側に南風を起こすだけでなく、西側には北風を持っています。
それによって低気圧から西に延びる寒冷前線が通過すると、気温が急激に低下して冬に逆戻りしてしまうことがあります。
また、この寒冷前線にはしばしば積乱雲ができますので、強い雨や突風をもたらします。
春一番の暖かい風が吹いても、すぐ春になるわけではないのです。

 …つづく…

(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年)