2025年2月2日日曜日

節分

雨がやむのを待って出かけました。
いつもなら2月3日ですが、
今年は2日が「節分」(「節分の日が動き出す」国立天文台)。
明日は「立春」なのですが、予報を見るとこれから「立冬」になるのような寒さ。

今シーズン1番の寒気 4日ごろから近畿北部中心に大雪か」(関西NHK)
ニッポンの里山 ふるさとの絶景に出会う旅▽「生きものと育てる森の茶畑 高知いの町

農作物を荒らすので害獣とみなされているイノシシ
ここでは、畑を歩き回っても人々はあまり気にせずにそっと見守っているそうです。
というのもイノシシが役に立っている。
(2月7日午前4時10分まで見逃し配信を見ることができます)
害獣とか害虫などは、人間の都合で決まるのです。
1月29日から「中国 春節迎え各地で新年祝うイベント」(NHK 1月29日)

 春節(しゅんせつ) 

  春節祭(しゅんせつさい)極彩色の街は龍(りゅう) 村上方子

 中国では旧暦の元日を春節という。
日本でも横浜市中区山下町の中華街や神戸市中央区南京町などでは中国系の人々が春節のお正月を寿(ことほ)ぎ賑わう。
春節は毎年変動し、因(ちな)みに平成16年(2004)は1月22日であった。
大晦日の夜は年越しのご馳走(ちそう)を食べ、家族団欒(だんらん)の時間を過ごす。
新しい年、春節は零時に一斉に鳴る爆竹(ばくちく)の音から始まる。
まず餃子(ぎょうざ)を食べ、新年の挨拶(あいさつ)を交わすのである。
(『語りかける季語 ゆるやかな日本語』宮坂静生 岩波書店 2006年)
 横浜の中華街にはシンボルの善隣門(ぜんりんもん)を中核に、五百メートル四方の居住地を守る四神が四門に配されている。
春節を迎えた各門には恭賀新年の横断幕が張られ、桃の実の飾りや真赤な提灯が街路を彩る。
『三国志』の英雄関羽(かんう)を祀るきらびやかな関帝廟には線香のけむりがもうもうと立ち、龍舞や獅子舞が出る。
獅子舞は北門(玄武門<げんぶもん>)から西門(延平門<えんぺいもん>)、南門(朱雀門<すざくもん>)、東門(朝陽門<ちょうようもん>)と各門のしたを舞ながら善隣門に戻り、最後は関帝廟に感謝の舞を捧げるという趣向である。
 春節は春を迎える歓びに満ちたすばらしい地貌(ちぼう)季語である。
俳句の季語にしたいものだ。
 揚句は、春節祭の日、はなやかに彩られた中華街が一匹の龍になったという幻想を詠い、讃えたもの。
作者は川崎市出身。
(『語りかける季語 ゆるやかな日本語』宮坂静生 岩波書店 2006年)

横浜中華街の色彩 色で謎解き、町歩き」(みちしる NHKアーカイブス)
今日は、各地で節分の行事で豆まきをしているのですが
敗戦後まもないニュース映像に
日本ニュース 戦後編 第57号“厄除け東西”」(NHKアーカイブス 1947年)

福は内 鬼は外」以外に
鬼が厄払いをしてくれる風習があるそうです
京都府福知山市 棚田と酒呑童子」(みちしる NHKアーカイブス2006年)

また、こんな掛け声も
福は内 鬼は内 悪魔外~埼玉~」(音の風景 NHKアーカイブス2015年)

他にもあるので調べると面白いと思います(^-^)
 第2章 四季五節の循環
 節分 

 日本は四季に恵まれた国、という。
春・夏・秋・冬がほぼ等間隔で循環する。
その四季のはじめが、立春・立夏・立秋・立冬。
その前日が「節分」である。
 ところが、春の節分(立春の前日)への意識が一般には強かろう。
節分の豆まきが一般化して久しいからだろうか。
その豆まきは、小学生はいうにおよばず、保育園や幼稚園の子どもたちでも知っている年中行事である。
 学校行事に導入された行事の認知度は、たしかに高い。
だが、それが古くから行われてきた周知の行事であったかどうかは疑ってみるべきであろう。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)
 あらためて、節分とはいかなる日なのか。
 季節の変り目をいうのである。
 中国から太陰暦が伝来する以前の日本では、自然暦で、ほとんどすべての生物が生まれ出(いず)る春が年のはじめと考えられていた。
つまり、立春が一年の最初の日であり、その前日の節分は、一年の最終日だったのである。
 したがって、節分の行事は、基本的に大晦日と同様に年迎えの行事であり、地方によっては節分を、いまも「年取り」とか「年越し」と呼ぶ。
のちに広まった旧暦(太陰太陽暦)でも、ほぼそのあたりが正月にあたるので、長く節分で年が改まる概念が定着していた。
年賀状に「初春」とか「迎春」という言葉をつかうのも、立春を新年とした風習がそのまま伝えられているためである。
 節分は、四季の分かれ目にあるから、年には四回。
が、春の節分以外に行事らしい行事がない。
たぶん、庶民にとっては、厳格に行事をそうたびたび行うわけにもいかなかったからだろう。
春の節分をもって代表行事となったのである。
 ひとり節分にかぎらず、季節の変わり目は、邪気悪霊がしのびこみやすく災いが生じやすいとき、とする。
現在でも「季節の変わり目につき一層のご自愛を」と手紙に書くのも、その民俗的な知識を伝承してのこと、とみるべきだろう。
 それを防ぐ方法として、ひとつには物忌みをする。
静かに家籠(ご)もりをしてときを過ごすのである。
不要不急の外出をひかえる。
それは、邪気悪霊にとりつかれて気魂を奪われることを避けるためである。
 もうひとつは、魔除けのまじないをさまざま行なう。
これも春の節分で一般的なのが、門口や軒下にヒイラギの枝にイワシの頭を刺して立てるというもの。
それに豆がらやトベラ、タラの小枝を添えるところもある。
これは、ヒイラギの葉のとげとイワシの臭いをもって邪気悪霊を払おうとするものである。
 節分に豆がらやトベラを焚く習俗も広く伝わっていた。
そこでは共通して、「麦じゃ麦じゃ、豆じゃ豆じゃ」とか「ええ麦ええ麦、ええ豆ええ豆」といった穀物名を連呼する呪文が唱えられる。
つまり、農村社会における豊作予祝との複合化がみられるのである。
 そこで、豆まきである。
物忌みとヒイラギ・イワシによる魔除けのまじないに比べるとより攻撃的な行ない、といえる。
豆を礫(つぶて)に見立て、邪気霊を打ち払おうとするのである。
 節分の豆まきならぬ「豆打ち」は、古文献にも登場する。
古くは「追儺(ついな)」とか「鬼やらい」といった。
追儺は、もとは中国伝来の行事で、宮中行事となった。
文武天皇の慶雲3(706)年、諸国に流行した疫病を祓うために行なった「大儺(おおなやら)い」がそのはじまり、と伝わる。
鬼に扮した大舎人(おおとねり)を殿上人(てんじょうびと)たちが内裏の四門をめぐって追いまわすというもので、その絵図もいまに残されている。
 それが、仏寺で追儺会に転じて行事化するのが鎌倉・室町のころ。
やがて、近世、江戸の後期には民間にも伝播し、家庭での豆まきが定番化したのである。
明治になると、それはある種の遊戯化をして大々的に行なわれるようになった。
その影響が今日にも伝わる。
 さて、その豆の打ち方だが、地方によって、あるいは家庭によっての特色がみられた。
たとえば、東京・大阪・京都では、一家の主人が豆打ち役、長男が豆男となる。
家人が戸や障子を開けたときに大声で「鬼は外、福は内」と叫び、豆打ち役が家中に次々と豆をまいた後、音高く各戸を閉めていく。
また、長野県下では、年男かその家の男子が一升枡に入った豆をまき、その後からすりこぎをもった者がそれを動かしながら「ごもっともごもっとも」といって続く。
福島県下では、桟俵(さんだわら)を笠に見立ててかぶった者が部屋の四隅に豆をまき、もうひとりが「ごもっとも押さえましょう」といいながら、箒(ほうき)で鬼を押さえるしぐさをする。
もともと、ところ変われば、豆打ちもそれぞれであったのだ。
 今日のように節分の豆まきがほぼ画一化されたのは、社寺や学校での行事が情報化をともなって広まったからであろうことは、想像に難くない。
 なお、節分に豆をまくのは、ひとつには、豆に霊力があると信じられていたこと。
さらに、まいた豆を拾って食べることで「おかげ」があるとしたのである。
ちなみに、食するのは自分の年の数だけの豆。
旧暦にしたがえば、すぐ正月(旧正月)になり一つ年をとるわけだから、自分の年より一つ多く食べるのが習わしであった。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)

節分祭について」(吉田神社)