2025年2月23日日曜日

天皇誕生日

マンサクの木を見るとちょっとだけ黄色いのが顔を出していました。
風があまり吹いていなくて日ざしが暖かい朝でした。
長期予報で暖冬になるということでした。
でも、暖かい日が続いた後に寒波がやってきたので寒く感じる。
この冬は、池などに氷がはっていたことがほとんどなかったし
霜も時々しかみかけなかったので暖冬だと思います。
こちらは穏やかでしたが

北陸~中国地方 今夜から雪強まる見込み 近畿 四国も大雪か」(NHK)
 「天皇陛下 65歳の誕生日」(NHK)

天皇陛下は「上皇上皇后両陛下には、これまで様々な機会に、戦争によって亡くなられた方々を慰霊され、平和を祈念されています。
私と雅子は戦後生まれで、戦争を体験していませんが、上皇上皇后両陛下の戦時中の御体験のお話など、平和を大切に思われるお気持ちについて、折に触れて伺う機会がありました


上皇上皇后両陛下との対談が出版されています。
はじめに」から一部、転記しますφ(.. )
 はじめに

 近現代の天皇制を語るときに、平成の天皇はいくつかの特徴をもって語り継がれるであろう。
私の見るところ主要な三点があり、これが軸になって語られていくように思う。
この三点は言うならば、平成の天皇による宮中改革であり、同時に天皇制の新しいあり方を国民と歴史に示したことにもなる。
重要な意味を持つと言えるのではないかと思う。
(『平成の天皇皇后両陛下大いに語る』保阪正康 文藝春秋社 2024年)
 次の三点である。箇条書きにしておこう。
 一、近代の皇室典範の柱である終身在位を生前退位に変えるように要求した。
 二、先帝の戦争の時代を否定、反省して戦没者の追悼、慰霊に専念した。
 三、新憲法下における象徴天皇、人間天皇像の確立に意を注いで実現した。
 むろんこのほかにも指摘しなければならない特徴はある。
あまり研究者やジャーナリストの間では語られないのだが、より重要な指摘はあると私は考えている。
どのようなことか。
それは元号にイメージされる天皇像とそれぞれの天皇自身の性格、資質との間の差異である。
もっとわかりやすく言うならば、天皇の「公」と「私」の二面性と言ってもよいであろう。
むしろこれが重い意味を持つと考えてもいいかもしれない。
 前述の三点は、この二面性を持っているか否かが鍵になっているようにさえ思う。
初めに具体的に説明することになるのだが、「明治天皇と睦仁(むつひと)天皇」「大正天皇と嘉仁(よしひと)天皇」「昭和天皇と裕仁(ひろひと)天皇」「平成の天皇と明仁(あきひと)天皇」「令和の天皇と徳仁(なるひと)天皇」という具合に分けて、それぞれの天皇とご自身の胸中とはいかなる関係にあったのかを見ていくと、新たな視点が出てくることに気がつくであろう。
例えば明治天皇は、日露戦争の開戦を決定する御前会議で開戦が決まると涙を流している。
 明治天皇としては戦争やむなしを受け入れたが、睦仁としては戦争を行いたくないとの感情を持っていたのだ。
それが落涙となっている。
明治天皇と睦仁とは矛盾しているのである。
経緯を省いて書いていくが、明治天皇はこの苦しさを大正天皇もまた味わうと見たのであろう。
そして孫にあたる昭和天皇にも続くと考えて、何らかの方策が必要だと考えた節もあった。
それが大正3年に設立された東宮御学問所であったのだろう。
昭和天皇が13歳の時から20歳までここで特別の帝王教育を受けたのは、「公」と「私」の二面性がなく、両者が合体しているように望んでのことであった。
 実際に昭和天皇は昭和20(1945)年8月まで、明治天皇や大正天皇が味わった二面性はなかった。
つまり昭和天皇と裕仁とは一体化していたのである。
そのかわりということになるのだが、昭和20年9月からの、いわゆる戦後民主主義のもとでの象徴天皇になるには、御学問所での教育を捨てなければならなかった。
こう見てくれば、先に述べた平成の天皇が国民に示した三点は、明治天皇や大正天皇が苦悩に気がつき、昭和天皇の葛藤の姿を見て、ご自身で獲得された貴重な姿だったということになるのであろうか。
 私と半藤一利氏が、平成の天皇皇后両陛下にお会いしたのは、平成25(2013)年2月から28(2016)年6月までの3年4ヵ月の間である。
むろん私たちは気がつかなかったのだが、天皇陛下は生前退位の方向を模索して、いろいろ文献に当たられていたりしていたのであろう。
のちに半藤氏とあれこれ推測の論を交わしたのだが、私たちは合計にするとおよそ二十時間余もお会いしたにもかかわらず、そのお気持ちをお察しすることはできなかった。
 一度だけ、私たちに深い知識があったなら、「陛下は生前退位をお考えだ」と感じることができたはずの機会があった。
それは昭和天皇のお書きになる筆字の話になり、やがて歴代の天皇で文字がお上手なのは誰か、という話に移った時のことだ。
陛下は、光格天皇のお書きになった文字がお上手だと話をされた。
私たちはまだ見たことがなかったのでうなずく以外になかったが、もし私や半藤氏にもう少し知識があったならば、「そうしますと、陛下は今、光格天皇のお書きになった書をお読みなのでしょうか」とお尋ねしたであろう。
そのような質問をさせていただく知識に欠けていた不明を恥じなければならない。
 その点では、せっかくのお時間をいただいたのに残念な思いがする。
 さらに天皇皇后両陛下とお会いさせていただき、私は前述のように「平成の天皇」と「明仁天皇」の間に二面性がなく、平成天皇という立場は明仁という天皇と一体化しているとの感を持った。
現在の憲法が規定している天皇像を、皇后とともに作っていくという大きな事業を成し遂げたれたと、私には思えた。
それは月並みな言い方になるのだが、皇后美智子さまと共に作り上げた歴史的な事業といってもよいように思えたのである。
 本文の中でも触れたように、天皇制が天皇だけの力で維持される時代はすでに去った。
皇后の助力が必要だという意味ではなく、両陛下が支え合うことで天皇の存在は意味を持つ。
むろん昭憲皇太后、貞明皇后、香淳皇后、それぞれが天皇を支えることで、皇后の役割を果たしてきた。
しかし、そこにはそれぞれの時代の制約や拘束があったのも事実である。
皇后美智子さまの時代には、それまでとは異なった形の支え方があるように思う。
実際に美智子さまはその形を、公務の時にも、私的行事の時にもさりげなく示されている。
 私たちとお会いする席でも、最初は陛下に口火を切らせてから、ご自身の話をさりげなくされる光景がいつも見られた。
そういう心遣いに、私たちは心を和ませるのが常であった。

 …後略…

(『平成の天皇皇后両陛下大いに語る』保阪正康 文藝春秋社 2024年)
昨日、父がベッドに寝ているとお尻が痛いというので介護用品売場でクッションを購入。

父は、14日に「うっ血性心不全」で入院しました。
20日に個室から4人部屋に移動。
その時は、看護詰め所からすぐの病室。
22日に詰め所から少し離れた部屋に移動しました。
私も循環器内科に入院した経験があるのである程度状態がわかります。
少しは病状がよくなっているのかなと思いますが、93歳という高齢なので楽観はできません。

リハビリ散歩はあまりできないというか、寒いときなどに無理をして体調を崩すと大変なので、散歩も休み休み行くようにしています。
blogの更新も休むことが多くなります。