2025年2月6日木曜日

氷もはっていて

 今朝も冷たい風が吹いていて、うすく氷がはっていました。
まだまだ寒気は居座りそうです

近畿各地の高速に通行止めの可能性 列車も一部が運転取りやめ」(関西NHK)
Eテレこころの時代「歩き続ける、その先に 稲葉香

稲葉香さん18歳の時にリュウマチを発病されました。
小学校の同級生が短大の時にリュウマチを発症し
病院の窓から飛び下りたかったけど体が動かなかったと話してくれたことがあります。
最後に稲葉さんが語っていたのは
歩く一歩はすごい大きい一歩につながる。
……
そんな小さい歩みでも最後は 必ず到達する。
(2月8日 午後1:00から再放送)

Eテレ最後の講義「テニス 伊達公子

アスリートの海外挑戦の歴史を切り開いたのが伊達公子さん
野球の野茂英雄が大リーグに挑む6年前……
1989年に18歳で世界へ挑んだ
伊達さんが書き記した言葉
夢を掴むためには 傷つく勇気も必要!
(2月11日午後2:35から再放送)

何れも見逃し配信ができます。
 「立春の卵」つづき
 
 もちろん日本の科学者たちが、そんなことを承認するはずはない。
東大のT博士は「理論的には何の根拠もない茶話(ちゃばなし)だ。よく平面上に卵が立つことをきくが、それは全く偶然だ」と一笑に付している。
実際に実験をした気象台の技師たちも「重心さえうまくとれば、いつでも立つわけですよ」とあっさり片づけている。
しかしその記事の最後に、「立春立卵(りつらん)説を軽くうち消したが、さて真相は……」と記者が書いているところをみると、記者の人にも何か承服しかねる気持が残ったのであろう。
何といっても、五日の夜中の実験に立ち会って、零時51分に十個の卵がちゃんと立ったのを目(ま)のあたり見ているのだから、それだけの説明では物足りなかったのも無理はない。
(『雪は天からの手紙 中谷宇吉郎エッセイ集』池内了編 岩波少年文庫 2002年)
 もう少し親切な説明は、毎日新聞に出ていた気象台側の話である。
「寒いと中味の密度が濃くなって重心が下がるから立つので、何も立春のその時間だけ立つのではない」というのである。
それもどうも少しおかしいので、ニューヨークのジャン夫人の居間なんか、きっと夜会服(やかいふく)一枚でいいくらいに暖かくなっていただろうと考える方が妥当である。
もう一つはどこかの大学の学部長か誰かの説明で、卵の内部が流動体であることが一つの理由であろうという意味のことが書いてあった。
そして立春の時でなくてもいいはずだということがつけ加えられていた。
ラジオの説明は、私はきかなかったが、何でも寒さのために内部がどうとかして安定になったためだというのであったそうである。
 それらの科学者たちの説明は、どれも一般に人たちを承服させていないように思われる。
一番肝心なことは、立春の時にも立つが、そのほかの時にも卵は立つものだよと、はっきり言い切ってない点である。
それに重心がどうとかするとか、流動性がどうとか、安定うんぬんとかいうのが、どれもはっきりしていないことである。
例えば流動性があればなぜ倒れないかをはっきり説明していない点が困るのである。
 一番やっかいな点は、「みなさん、今年はもうだめだが、来年の立春にお試しなってはいかが」という点である。
しかしそういう言葉に怖(おじ)けてはいけないので、立春と関係があるか否(いな)かを決めるのが先決問題なのである。
それで今日にでもすぐ試してみることが大切な点である。
 じつはこの問題の解決はきわめて簡単である。
結論をいえば、卵というものは立つものなのである。
朝めしの時にあの新聞を読んで、あまり不思議だったので「おい、卵があるかい」ときいてみた。
幸い一つだけあるという話で、さっそくそれをもって来させて、食卓の上に立ててみた。
うまく重心をとると立ちそうになるが、なかなか立たない。
5分ばかりやってみたが、あまり脚(あし)の強くない食卓の上では、どうも無理のようである。
それに投稿前の気ぜわしい時にやるべき実験ではなさそうなので、途中で放り出して、学校へ出かけてしまった。
 この日曜日、幸いひまだったので、先日の卵をきいてみると、まだ大事にしまってあるという。
今度は落ちついて、畳の上に坐りこんで、毎日使っている花梨(かりん)の机の上に立ててみると、三、四分でちゃんと立たせることができた。
紫檀(したん)まがいのなめらかな机であるから、少し無理かと思ったが、こんなに簡単に立つものなら、何も問題はないわけである。
細君(さいくん)も別の机の上に立ててみると、これもわけなく立ってしまう。
なあんだということになった。
 それにしても、考えてみればあまりにも変な話である。
卵というものがいつでも必ず立つものならば、コロンブスにまで抗議をもって行かなければならない始末になる。
それではやはりこの頃の寒さが何か作用しているかもしれないと思って、細君にその卵を固くゆでてみてくれと頼んだ。
 ゆで卵が簡単に立ってくれれば、何も問題はない。
大いに楽しみにして待っていたら、やがて持って来たのは、割れた卵である。
「子供が湯から上げしなに落したもので」という。
大いに腹を立てて、さっそく買いに行って来いと命令した。
細君はだいぶ不服だったらしいが、仕方なく出かけて行った。
卵は案外容易に手に入ったらしく、二つ買って帰って来た。
もっとも当人の話では、目星(めぼし)をつけた家を二軒まわって、子供が病気だからぜひ分けてくれと嘘(うそ)をついて、やっと買って来たという。
大切な実験を中絶させたのだから、それくらいのことは仕方がない。
 今度の大小二つあって、大きい方は尻の形が少し悪いらしく、なかなか立たない。
しかし小さい方はすぐに立たせることができた。
そこでその方をさっそくゆでてもらうことにして、その間に大きい方にとりかかった。
なるべく垂直になるように立てて、右手の指で軽く頭をささえ、左手で卵を少しずつ回転させながら、尻の坐りと机のわずかな傾斜とがうまく折れ合うところを探しているうちに、ちゃんと立ってくれた。
十分くらいかかったようである。
要するに少し根気よくやって、中心をとることさえできれば、たいていの卵は立派に立つものである。
 その間にゆで卵の方が出来上がった。
水に入れないでそのままもって来させたので、熱いのを我慢(がまん)しながら中心をとってみた。
すると今度も前のように簡単に立てることができた。
寒さのための安定云々(うんぬん)も、流動性の何とかも、問題は全部あっさり片づいたわけである。
念のために殻(から)をとり去って、縦に二つに切ってみた。
黄味は真中にちゃんと安座(あんざ)していた。
何の変わりもない。
黄味の直径33ミリ、白味の厚さが上部で6ミリ、底部で7ミリ、重心が下がっているなどということもない。
要するに、もっともらしい説明は何もいらないので、卵の形は、あれは昔からたつような形なのである。
この場合と限らず、実験をしないでもっともらしいことを言う学者の説明は、たいていは間違っているものと思ってもいいようである。
 …つづく…

(『雪は天からの手紙 中谷宇吉郎エッセイ集』池内了編 岩波少年文庫 2002年)