今朝は、青空でしたが、これから天気が不安定になるようです。
予報を見ていると水、木曜日あたりは最高気温が19度に上がったと思ったら
金曜日には11度に下がり、来週の日曜日には再び上昇する…
また、体調を崩すかもしれない
被災地はもっと大変だ…
「寒気の影響 西・東日本 12日にかけ大気不安定に 落雷など注意」(NHK)元首相が暗殺されてからボロボロと腐敗が明るみに出ています。
若い人は、知らないかもしれませんが…
マスコミが報道の使命である批判的精神を忘れて忖度するような政治家と違い
女性の権利獲得のために闘い続けた政治家
市川房枝さんが1981(昭和56)年2月11日に亡くなりました。
「『市川房枝』ってどんな人なの?」(市川房枝記念会女性と政治センター)
「市川房枝(いちかわふさえ) 婦人運動家」(NHKアーカイブス)
「参政権は婦人の地位向上につながる みんなで政治の勉強をしましょう」今日は、「建国記念の日」ですが、服部良一さんや父は「紀元節」
1月21日の記事で紹介した「日劇七まわり半事件」(1941年2月11日)について
第八章 日劇七まわり半事件
…前略…
〝日劇七まわり半事件〟について全貌を知ったのは翌日以降で、当日は、はじめてのワンマン・ショウをとちらずに演じとおすために、ただただ無我夢中だった。
あのなつかしい白亜の円筒形の日本劇場は、現在ファッショナブルなマリオンにかわっているが、当時は朝日新聞社の社屋や数寄屋橋(すきやばし)などとともに有楽町の名物だった。
舞台は、通常、実演と映画の組み合わせになっていたが、このときは、『蘭印(らんいん)探訪記』という長編記録映画に『島は朝やけ』という中編劇映画。
実演が『建国祭記念、日満親善、歌の使節 歌ふ李香蘭』(白井鐵造<てつぞう>構成演出)で、一日三回入れかえ、入場料八十銭均一(税共)也(なり)、だった。
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年) その日、二月十一日は、満洲育ちの私にとっても寒い日だった。
午前九時ごろ帝国ホテルへ児玉さんが迎えにきた。
九時半開演だが、はじめに映画があり、実演は午前十一時からなので時間はじゅうぶんある。
したがって私は髪をセットせず、お化粧もせず、寒気よけに大きなガーゼのマスクをして、毛皮の外套の襟をかき合わせながら、児玉さんとならんで有楽町の街を歩いていた。 日劇に近づくと大変な人だかりである。
この日は火曜日だったが、紀元節休日なのでお客さんの入りはよいだろうと予想されていた。
けれでもどの程度お客が集るか出演者の私にはもちろん見当がつかない。
私は、「舞台から客席は暗くて見えないから、観客は気にしないで、リハーサルどおり自由にうたいなさい」という白井鐵造先生のアドバイスにしたがっていればよかった。 切符売場一番口も、二番口も、そして三番口も黒山の人だかりだ。
楽屋口は有楽町駅よりにある。
円筒の建物の円周にしたがって楽屋口に近づこうとするのだが、びっしりと人がつまっていてにっちもさっちもゆかない。
祭日のせいで、電車の乗降客で混雑しているのだと思い、「東京ってすごい人出ね」とつぶやいたが、児玉さんは緊張した表情で異常な群衆を見つめ、はなればなれにならないように私の腕をかかえたまま返事をしなかった。 楽屋口にたどりつきたくても、ギッシリつまった人垣をかきわけることができない。
「お願いです。あけてください。入れてください」と叫んだが、幾重にも行列を作っている人々にどなられるだけだった。
「この行列はもう切符を買った組だ。これから買う人はむこうだ。後ろのほうにならべ!」
「横からわりこむな。押すな」
「早く入れろ、朝の七時から立ちずくめだぞ、早く扉をあけろ」など、群衆は暴徒と化すのではないかと思われるほど殺気だっていた。「この人が入らないと幕はあかないんだぞ」と児玉さんは一、二度言ってみたが、だれもふりむきもしない。
「しかし、この人の正体がここでわかっても大変だな」とつぶやいて、ひたすら体当りを試みるのだが、人の垣根はビクともしない。
あきらめた児玉さんは、「いいか、動いちゃダメだ、ここにいるんだよ」と小声で言いのこして走っていった。
やがて劇場の守衛さん四、五人をつれて駆けもどってくると、楽屋口まで私を担ぎこむようにリレーして、戸を叩き、送りこんでくれた。 楽屋では裏方さんたちが、「すげえ、もう三まわり半になっているぜ」などと話している。
ようやく私にも劇場をグルグル取りまいている人波が「李香蘭」のためにやってきたお客とわかった。
「しっかりうたって期待に応(こた)えよう」とあらためて緊張したが、人ごみをかきわけてきたばかりの興奮がなかなかさめない。
独り芝居ながら、演出を忘れずに演技し、せいりふもいわなければならない。
鏡にむかって顔をつくっているあいだにも歌詞やせりふを忘れてはいないかと気が気でなかった。 午前十一時、第一回目のステージがはじまった。
楽屋の下手で出番を待っていた私は、児玉さんに、ポンと背中をたたいて舞台へ押しだしてくれるように頼んだ。
以後、児玉さんが一緒のときは、いつもその合図を頼んだ。
不思議に緊張感がやわらぐのだった。
…つづく…
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ツグミはこの時期、高いところにいる方が多いです。
私もこのツグミを写したのだけど遠すぎて…
質問44 鳥は渡りのための飛行を一日のうちのいつにするのでしょうか?
[回答] ある鳥は主としてあるいはほとんど昼間だけ渡りをします。
昼間の鳥の渡りはよく目立ちますし、壮観でさえあります。
こうした鳥は通例強い飛翔力を持った種類であるか、餌を飛びながら遠くに見つけてとらえる種類であることがほとんどです。
昼間の渡り鳥はアマツバメ、ツバメがありますが、彼らは飛びながら採餌します。
サギ、ガンカモ類、そしてタカは強い飛翔力を持っている鳥です。
これらの鳥のうちアビ、カモそして沿岸性の鳥のいくらかはちょっとした夜間の渡りや長い夜間飛行をします。
夜間の渡りの目立つ例をあげると次のようになります。
①春と秋に見られるウ、ガンカモ類の群れ。特にはっきりした隊形はV形の編隊飛行。
②ハネビロノスリの南方へ向かう旋回群の飛行。
③ある春の朝、峡谷沿いに北へ向かうツバメの大群の飛行。
多くの鳥は夜渡りをします。
彼らは通例弱い飛翔力しか持っていません。
これらの鳥は、夜にまぎれて広大な平原を横切って安全に飛んでいくのだといつ考え方があります。
彼らの多くは、全く夜行性なのではなくて昼間もけっこう長い距離を移動し、田園地帯のあちこちで採餌しているのです。
しかし、渡りの主要な部分である長距離飛行は全く夜間におこなわれます。
サンカノゴイ、クイナ、カッコウ、キバシリ、ミソサザイ、ツグミモドキ、ツグミ、モズモドキ、アメリカムシクイ、フウキンチョウそしてスズメなどが合衆国での夜の渡り鳥です。
夜の渡りで方位を定める基準にしているのは、星座であることが、プラネタリウムを使った実験で確かめられています。
長距離の夜間飛行の原因はおそらく、採餌と関係しているのでしょう。
昼間、長距離を飛行していては餌をとることが困難で、しかも空腹状態で夜着陸しなければなりません。
終日採餌と夜間の飛行によって目的地には朝食時に到着できます。
そこで終日、休息と採餌をくりかせすわけです。
(『鳥についての300の質問 君が知りたいすべてに答える』A.クリュックシァンク H.クリュックシァンク著 青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 1982年)